72,観念

 


 ――目覚めたら大変なことになっている。



 直後に再び寝たかったが、もう横になっても眠れなかった。


 腹が減った。

 時刻はおそらく昼過ぎ――

 思えば昨日の夜から何も食べていない。




 でもそれ以上に大変なことが起こっている。


 俺が眠りから目覚めた時直面したその大変な事というのは、俺が尿意を催していることに気が付いた事だった。


 この屋敷のトイレはどこにあるかと言うと、一階に簡易的な水洗式のものがある。

 しかし、ここは二階だ。道中には、障害がかなり多くある。

 尿意は我慢できないというものではないが、今の俺では早々に移動した方が良いと思った。




 そして、またやってしまった。

 いつもの感覚でベッドを下りようとしたら、そのまま足があると思い込んでいた。

 今朝にも感じたばかりの激痛をこの身に受け、打ちひしがれるところだった。



 ――そして俺はこの身では、はじめの障害すら突破できないことにすぐに気が付く。



 移動は膝立ちで何とかなった。しかしそのままでずっと移動していると膝が痛くなりそうだ。

 そして俺は何とか外の通路に出る扉までたどり着いた。


 ――そして俺の望みが果たせないことを悟った。



 俺のこの体では立てないから、寝そべった状態からでは到底扉の取っ手にはどう考えても腕が届かないのだ。

 そして、膝立ちをしても、ぎりぎり指が届く程度で取っ手を握るには至らない。



 扉が押して開ける類のものだったら良かったのに、何故かこの屋敷の各部屋の扉は全部内開きだ。普通こういうのは外開きが多いような気がするが………


 この部屋に足場になるようなものは無いし、扉自体もかなり重い。

 だから足場があったとしても前腕で取っ手を挟んで引くだけでは、踏ん張りが足りない。


 他に部屋の外に出る手段は無い。これでは八方塞がりだ。




 ――だめだ、このままではつい先日のフィアルと同じ末路を辿ってしまう。


 一つこの場を切り抜けられる案がある。

 でも、それあまり使いたくないはない。なぜならこれは、今以上に自分の自尊心を蔑ろにする行為だからだ。


 でもこのまま漏らすのとこの案を実行するのを天秤にかければ、どちらがいいのかは明白だった。

 だが時には意味をなさないプライドなんかは、捨てた方が良い事の方が多い。

 ここは一旦、開き直って素直な気持ちになった方が得だと思った。


 俺は扉の前の床で程よく声を張り上げて彼女の名を呼んだ。



「――メイ……!」


「トピア、どうしたの?」


 その返事は扉の裏から優しげな声ですぐに返ってきた。


 …まさかずっと扉の裏に待機していたわけじゃないよな?たまたま通りがかったとかだよな?


 そう、この場を切り抜けられる案と言うのは、メイに頼み込むことだった。

 先程、強く当たってしまったのでこちらは若干ばつが悪いが、それでも彼女がさっき言ったのだ。

 “手助けが必要ならあたしの名を呼んで”と、

 ならばもうプライド云々は抜きにして、利用できるものは利用してやろうと思った。



「部屋の扉を開けて」


 ただ、端的に必要事項だけを彼女に向かって述べた。


「えっ?でもね?トピアにさっき二度と顔を見せるなって言われたからあたしにはそれができない。扉を開けたら、私の顔をあなたに見せちゃうでしょ?」



 ……ああ、そういうことか。

 こいつの魂胆が分かった気がする。


 まだ、悔しい思いはあるが、それももう押し殺してしまえ、

 要は、俺の要望を執拗に焦らすことで、自身では何もできないと思い込ませ、俺の自尊心を打ち砕こうとしているのだろう。



 だが、その手には乗らない。俺はもうとうに開き直っている。

 俺は無機物のように感情を押し殺して、メイに言い放ってやった。


「もう、さっき言ったことは全部撤回するから、なんでもいいからさっさ開けて」


「……そう、あなたが許してくれるなら、そうしましょう」



 そう言うと目の前にあった、俺一人では絶対に開かなかった扉がゆっくりと開かれる。

 そして、その奥には微笑みながら俺を見る彼女が居た。

 その一見、温かな感情であるはずの笑みも、俺には薄気味悪く思えた。


 俺は、それをなるべく見ないようにして、開いた扉の隙間から無言で抜け出した。


 俺は目的地に向かって、主に膝立ちで移動する。

 俺は、必死に移動しているのに、後ろからのメイの声が邪魔だった。



「ねえ?何か私に用があって呼んだんじゃないの?」


「他に用は何も無い。扉を開けてほしかっただけ。もういいから目の前から早く消えて」


 後ろから来た問いかけに、相変わらず俺は用件だけを手短に話す。

 もうこんな奴に、怒りやその他の感情を持つ方が煩わしい。


「それは無理、だってあなたがこれから屋敷から抜け出そうとしているかもしれないじゃない?」


 どこか弾んだ声で、彼女は俺の要望を無視する。

 俺に対してできる限りの事はするとか言っておいて、すぐこれだ。


 しかも、なんだよ。俺がこの体がこんな状態なのに、屋敷から抜け出そうとしているだなんて、こいつは本気で思っているのか?

 今の俺には嫌味にしか聞こえない。


 ――いや感情を押さえろ。

 感情をこいつに向けるだけ無駄だ。会話には出来得る限り無感情を貫け。煩悩を取り払うように……



「何処かにに行くんでしょ?私が運んであげようか?」


「他に何かしてほしい事とか、欲しい物とかない?」



 俺が、頑張って長い通路を移動しているのに、後ろからずっとこんな調子で話しかけてくる。

 無視したところで、彼女は一人でずっと俺に話し続けた。

 気を使っているつもりなのかもしれないが、俺にとっては迷惑以外の何物でもない。


 困難でも、時間がかかっても自分でできることは、なるべく自分でする。それくらいメイにもう関わりたくない。

 プライドは一度捨てたが、それでも必要最小限にしたい。

 老人ホームで、介護されるのを嫌がる年配者の気持ちが分かった気がする。





 ――メイの言葉を無視しつつ、何とか俺は目的地にどうにか着いた。


 長い通路もこの体では移動が大変だが、階段が最も大変だった。

 一歩間違えれば、転落しかねない。しかも段差で膝が痛くなってくる。



 それでも何とかなったが、俺がトイレの部屋に入ろうとしたら問題が起こった。


 メイがなんとトイレの個室にまで入ってきたのだ。

 理由は、俺が逃げるかもしれない、というものだった。


 逃げるなんてそんなわけがあるか、と抗議したがメイは強情で結局全部するところを見られた。

 直視されたわけではないが普通に最悪だし、止めてほしい。


 もしかしたら、これからずっと見られるなんてことは……いや想像したくない。

 しかし何とか目的は済ませることができた。



 そして、部屋までの長い道のりを帰ろうとした時、メイにまた話しかけられた。

 どうせまた無視に値する内容だと思ったが、そうでもなかった。


「トピア、お腹すいてない?食事を作ってあるんだけど…」


 それは、彼女の言うとおりだった。確かに俺は空腹だ。


 あれ?でも俺はどうやって食事すればいいんだ?

 この手では当然スプーンなど持てない。

 そう考えていたらメイが切り出した。



「あたしが…あなたに食べさせてあげるから……」





 ………俺は、不本意ながら彼女が言った内容に従った。


 空腹なのは事実だし、食べないとそれこそもう何もできなくなる。


 …一人で移動しようとしたら移動に時間がかかるからとメイに体を易々と抱きかかえられた。

 俺は抵抗したのだが、この体は随分と軽いのか彼女は表情一つ変えない。


 そのまま、食堂の部屋の扉をくぐり、俺はいつもの席にメイの手によって座らされた。

 彼女がいつも通りに奥の部屋からワゴンで料理を運んでくる。

 そして、俺の机の前に料理を並べると、メイがスプーンを手に持って、そのまま料理を掬い上げて俺の口に持ってくる。


 ここまで来て、それを食べないという選択肢は無い。

 俺は口を開けてそれを受け入れる。

 何度も、何度も、皿が空になるまで…


 おそらく最近食べている料理と同じもののはずなのに、料理はあまりおいしく感じなかった。


 

 



 ――食後は、屋敷の中央にある中庭で寝そべってまた睡眠をとることにした。


 たとえ寝られなかったとしても気分転換くらいにはなるし、部屋まで戻るには少し疲れた。

 メイに運んでもらうのは正直楽だが、それに慣れてしまったらダメだと思った。

 相変わらずメイは俺の後を付けてきて、俺が床になるとずっとこちらを不思議そうに見てくる。


 監視されているのかと思うと不愉快だが、メイからしたら俺はそれだけ信用していないんだろう。

 どうせ、この体では逃げられるわけもないのに、



 言ってしまうと、俺はもう屋敷から出ることはほぼ諦めた。

 この体では無理だし、外で一人生きていけるはずがない。

 こんな体の奴を匿ってくれるような人も場所も外には無いだろう。


 もう諦観して、達観して、楽観して生きていった方がこの身の為か?

 いや、それとも………




 ――俺は結局、これからどうしたらいいんだろうか。

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