第121話「おさなく、うつくしいきみへ」

 血だらけになって倒れるビテンドに、心の臓が凍る。焦りで心臓の鼓動が早まり、馬から転げ落ちるようにリズベリアは馬を降りた。


「父上!! 一体どういう状況で、お怪我が!!」

「……リズ、ベリア……」

「喋らないでください! いま、いま首の傷を塞いで……っ」


 明らかに深い首の傷は、切れてはいけない血管すらも切れているだろう。わかっている、手遅れだと。助かる見込みなんてないことを。近くで落ちている男の死体は、己の父が持つバトルアックスによる傷があり、この男との相打ちでこうなったのだと悟る。だが今はそんなことどうでもいい。嫌な可能性に震える手を叱咤しながら、持っていた布で首元を押さえるリズベリア。その明らかに正気を失い、動揺する姿に、煉獄の騎士たちも異常事態に気づいた。


「どう、どうしてっ! どうして戦ったのです! 戦えるような体じゃないことは、あなたが一番良くわかっているはず! そんな体でっ」


 じわりと溢れ出る血に、濡れていく己の手に寒気が走る。心臓が凍り、死の気配が近づくのを感じながら、リズベリアは止血剤と包帯を持ってくるように叫ぶ。だがそれを止めたのは他でもない、父であるビテンド本人だった。


「リズベリア……もういい」

「ち、父上」


 首元に置かれたリズベラの手を離し、己の手の中でそっと包み込む。冷えた空気とは対象的な温かなその手は、冷たくなっていくビテンドを温めていく。


「リズベリア……よく聞け」

「! い、いや! 嫌!! やめて父上! 聞きたくない!」

「リズベリア!」

「っ……」


 薄っすらと、ビテンドが何を言おうとしているのかに気づき、リズベリアは幼子のように首をふる。そんな駄々をこねる子供を叱るように、ビテンドはリズベリアの頬を包みこんだ。


「もうワシは助からん。そんなこと、お前もわかっているはずだ」

「嫌よ、まだわからないじゃない……もしかしたら助かるって!」


 熱い水のように溢れ出すリズベリアの涙。頬から落ちるその涙を拭き取り、ビテンドは笑った。親が子を見る、慈しみの目で。


「リズベリア、お前に……謝らなくてはいけないことがある。済まなかった、今までお前を認めないで」

「!」

「ワシはただ、怖かったのだ。お前が、……いなくなる、ことが。死んでしまうことが」


 こぼれ落ちるのは涙代わりの本音。泣けないビテンドが初めてこぼす本音に、周囲の音が自然と途切れる。まるで世界に、ビテンドとリズベリアしかいないと錯覚するほどの静寂となった。


「お前が、必死で努力していることを知っていた。インフェルノについていくことが……どれだけ大変なことか痛いほど知っている。……よく、頑張ったな。リズベリア、ワシの自慢の娘じゃ」

「ち、父上……今は、今はいいの。お願い、嫌。嫌です父上」

「お前を素直に認めなかった、こんな愚父のことを……どうか許してくれ」

「許してる……ごめんなさい父上。もう、許しているのです。私、わたくしは……ただ」


 ただ、一緒にいたかった。ただ一緒に戦って、頼ってほしかっただけだった。また昔のように、すごいぞって褒めて頭を撫でてほしかっただけだった。たったそれだけを望むのに、二人は随分と遠回りした。


 その結末が、願いが叶うときが、今この瞬間になるとは酷い話だ。


「ワシの娘、愛している……ただ、お前が幸せである未来を……ワシはずっと……ずっと願っている」


 愛おしい我が娘。強く、凛々しく、紅い英雄のそばで、美しく咲き誇る天上の花。きっとこれからのレキシアを支えるのは、リズベリアなのだ。古き時代の終わりを、今この瞬間に始め、新しき時代の幕開けとなる。自分の死はそのためにあるのだ。

 嗚呼だが、惜しいかな。新たな時代の幕開けを担うものが後二人足らない。紅い英雄と、幼くも麗しい我が主君。二人が。口惜しい。最期に見れないのはなんとも口惜しいものだ。


「いん……ふぇるの……」

「! 父上、団長に何を」


 かすれるほどの小さな声に必死となって耳を近づけるリズベリア。もはや風前の灯となったビテンドが、インフェルノに向ける言葉を必死で聞き取ろうとするリズベリア。だが、それはどうやら必要ないらしい。

 そのかすれた視界に映る赤に。ビテンドは笑った。


「――ビテンド」


 氷のように冷たい声が、静かに鼓膜を揺らす。まるでそこにずっといたかのように立つインフェルノに、周囲からどよめきが起こるが、それもまた静かに消えていく。


「インフェルノ……団長」

「いんふぇる……の」


 死にゆく老体に近づくインフェルノ。かすれた視界でようやく見えたインフェルノの姿は、なんともボロボロで思わず笑ってしまうほど情けないものだった。けれども、それでも変わらぬ瞳の強さ。その強い瞳が金に変わるさまをみながら、ビテンドはインフェルノの胸元を叩いた。


「まかせた……ぞ」


 単純な一言に、多く感情と意味を乗せて伝える。死にゆく者の重いその言葉に、受け取ったインフェルノはその手をつかんだ。


「嗚呼、任せろ。先に、待っていてくれ」


 片腕で握られたその手の強さ。失った右腕。隻腕となった最強の英雄に、憂いはあっただろうか。それはわからない。なぜなら、その言葉を胸に、安心したかのようにビテンドは空を仰ぎ見て、そして。


「――――」


 誰にも聞こえない、かすれた声で放った一言を置いて満足気に逝ったのだから。



 レキシア歴1284年5月17日。その生涯を戦場で送ってきた男は、約50年以上もレキシアを危機から救った英傑であり、そして誰よりも情に厚い漢だったと、後の伝記にて書かれる事となる。そして、インフェルノの正体を知る僅かな人間であったと、静かにその説は流れるのだ。


 戦神ビテンド・ファルムデガルド。レキシア王都付近の平野にて……戦死。

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