5分で怯える物語「情けは人の為ならず」

あお

第1話

 社会人五年目、東京都在住の遠山志保は今朝も電車に揺られている。

 気だるげな通勤にも慣れ始め、最近じゃ日替わりコーヒーを楽しむ、少し大人な朝を送っていた。


「今日はちょっとフルーティーな香りね。いい匂い~」


 柔らかなボブカット、こなれたメイク。白のブラウスに紺のジャケットを合わせ、首元には可憐なパールのネックレス。足元はパープルパンツで引き締め、ベージュのパンプスでまとめた彼女の仕事着は、いかにも出来るOLだった。

 そんな彼女がコーヒーの香りに頬を緩ませる姿は、行き交う人々の視線を集めるほど魅力的である。

 温かなコーヒーを一口ふくんで歩き出す。ちょうど信号が赤に変わり、二口目を楽しもうとカップを開けようとする。

 ふと、気を引かれて横断歩道に目をやった。


「え――」


 横断歩道の真ん中に一人の男の子が取り残されている。

 中央分離帯はなく、歩行者信号は赤。

 男の子に気づいていないのか、右方から猛スピードで走ってくるトラックが志保の目に映った。


「危ない――っ!」


 志保はコーヒーカップを放り出し、急いで少年の元へと駆け寄る。

 トラックのクラクションと甲高いブレーキ音が最悪を演出した。

 少年を抱きかかえた志保。

 次いで、彼女のパンプスが宙に浮いた。


「嫌ぁぁぁっ‼」


 一部始終を目撃していた通行人の女性が悲鳴をあげる。


「おい警察を!」

「その前に救急だろう!」

「もしもし⁉ 人が! 人が轢かれました!」


 トラックの運転手が顔を真っ青にして座席から飛び降りた。

 そして彼はホッと息をつく。


「はぁぁぁぁぁ……無事でしたか」


 向かいの歩道で、少年を抱えうずくまっていた志保が体を起こす。


「大丈夫……? 怪我はない?」


 腕の中にいる少年へ呼びかける。


「うん! 大丈夫だよ! 助けてくれてありがとう、お姉さん!」


 少年は朗らかに、屈託のない笑顔で答えた。

 安心して全身の力が抜けていく志保。

 するりと彼女の腕から降り立った少年は、志保の目を見つめてこう言った。


「お姉さんが危ない目にあったら、今度は僕が助けるよ!」


 よくある子どもの戯言だろう。

 そう思った彼女は、優しく笑い流した。


***


 駆けつけた警察の対応に追われ、出社時間から二時間ほど遅れた志保。


 彼女が持つ仕事は、たったの二時間が大幅なロスに繋がる。


「僕も手伝いますよ」


 そう言って手を貸してくれたのは二個下の可愛い後輩、晴海蓮だった。


「大丈夫よ。これは私の仕事だから」

「彼女が困っていたら助ける。彼氏として当然のことです」

「こら、仕事に私情を挟まないの」


 上司然とした態度を見せる志保だったが、自分のために頑張ろうとしてくれる年下彼氏、その優しさに頬が緩む。

 結局、蓮の根気に負けた志保は、


「今週末、蓮が行きたがってたあそこ、行こ」


 週末のデートを条件に彼を頼り、昼休みそっちのけで仕事に没頭した。

 ピコン――

 ふとスマホの通知音が鳴り、メッセージの受信を知らせる。

 届いたメッセージは、


『ボールペンが落ちる』


 と謎の文言で、イタズラメールだろうかと志保は首を傾げた。

 一息つくべく椅子から立ち上がると、机に膝をぶつけてしまう。

 その衝撃で黒のボールペンが床に落ちた。


「…………偶然よね」

 嫌な予感を払拭し、ペンを拾うべく腰をかがめる。


 ピコン――


 再びスマホの通知が鳴った。

 見ない方がいい。志保の直感はそう訴えかける。

 しかしそれでは、いま起っている何かが、お化けの仕業だと認めているようなものじゃないか。子どもじゃあるまいし、そんなのに怖がる年齢でもないでしょう。

 自分の恐怖心を大人のプライドで笑い飛ばし、平然と上体を起こしてはスマホを手に取った。


『悲鳴が聞こえる』


 同じ発信者からのメッセージだった。

 思わず身構える。

 しかし会社のどこからも悲鳴は上がらなかった。


「なんだ、やっぱりただのイタズラじゃな――」

「キャァアアアアア!」


 メッセージを受信してから十秒ほど経ったタイミングで悲鳴が聞こえた。


「給湯器から火がっ!」


 血相を変えて給湯室から飛び出してきた新人社員。

 志保が動くよりも早く、近くにいた蓮が消火器を手に取り、消火に当たった。

 火は無事消され、上司曰く「寿命が来ていた」とのことだった。

 しかし志保はそれどころではない。


(何なの、何が起っているの……)


 手が震え、危うくスマホを落としそうになる。

 ピコン――


「いやっ!」


 通知音と共に、携帯を手放してしまう志保。


「大丈夫ですか⁉」


 志保が悲鳴を上げるなんて、社内では大層珍しいことだった。

 火を消し終えた蓮が心配そうに声をかけ、落としたスマホを拾い上げる。

 腕を抱きかかえた志保の顔は真っ青だ。


「遠山さん⁉ 何があったんですか⁉ 大丈夫ですか⁉」


 肩を掴まれ正気を取り戻す志保。


「え、ええ。大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね」

 平静を取り繕い、差し出されたスマホを受け取る。

 ピコン――

 再び通知が鳴った。

 志保は確認しないまま、スマホをポケットにしまいこむ。


「確認しなくていいんですか? 遠山さんに行くってことは取引先からの重要なメールじゃ」

「そ、そうよね」


 ぎこちない返事をしてスマホを取り出す。


『想い人に肩を掴まれる』

『人の死を見る』


 心臓をわしづかみされたような気分だった。

 一つ目のメッセージは既に体験しているからこそ、二つ目のメッセージがもうお遊びには思えない。何も見たくないと目を覆ってしまいたくなる。


「遠山さん⁉ やっぱ体調悪いんじゃないんですか⁉ 顔真っ青ですよ!」


 だが、蓮の呼びかけを無視することもはばかられた。


「ちょっと疲れているだけだから……気にしないで……」


 と答えた時だった。

 蓮の肩越しに見える窓。

 人が逆さまになって落ちていった。

 彼女のいるオフィスは高層ビルの一九階。


 次いで下の方から絶叫が聞こえた。


「きゃぁあああああああああ‼」


 見えてもいないのに、首がひしゃげ、血だまりになった光景が目に浮かぶ。


「いや……いや……いやぁぁぁぁぁ‼」


 耳を塞ぎ、しゃがみ込む志保。


「遠山さん⁉ 志保さん! 志保っ‼」


 もう彼の声さえ届かない。

 恐怖心は志保の耳を塞いだ。

 しかし。


 ピコン――


 携帯の通知音だけは、するりと彼女の耳に入り込む。

 足元に落としたスマホには、〈12:50〉という時刻と、メッセージ通知が表示されていた。


『次は一時間後、』


 志保はそのまま意識を失った。


***


 オフィスの一角にある休憩スペースに運び込まれた志保。

 意識を失ってから一〇分ほどで彼女は目を覚ました。


「ここは…………」


 辺りを見回して、横になっていたソファから降りる。

 肘置きには蓮からの簡単な置手紙があり、上司には事情を伝えてあるので今日は早退して休んでくれ、とのことだった。

 テーブルの上に志保のスマホとカバンが置かれている。


(確かに、疲れているのかも)


 志保は年下彼氏の言葉に甘え、帰ることにした。


(蓮の仕事が終わったら、話を聞いてもらおう)


 その旨とお礼を彼にメールし、オフィスを出る。

 エレベーターに乗り込んだ時、携帯がピリリリと着信を知らせる。

 一瞬肩をビクつかせた志保だったが、発信元を見てふぅっと胸をなでおした。


「もしもし麻美? どうしたの?」


 電話をかけてきたのは一〇年来の友人だった。


「ねぇ私、呪われちゃった‼」


 麻美はひどく動転した様子で声を震わせていた。


「の、呪い⁉」


 そんな都市伝説みたいなことを、といつもの志保なら冷静に受け流せる内容だった。

 しかしいまの彼女にそんな余裕はない。

 むしろ、鼓動が高鳴り、嫌な汗が背中を撫でるように流れていた。


「い、いきなり変なメールが来て……それ全部、未来予知してて……志保助けて! 嘘じゃないの! 本当なの!」


 麻美の痛切な声が、志保の緊張感を高めていく。


「わ、わかったわ。ちょうど会社を出るところだから」

「じゃあいつものお店に来て! 私、もう動けない!」


 いつものお店、とは志保と麻美と、もう一人の友人が仕事終わりに集まる喫茶店だ。

 麻美は仕事場としても利用することが多く、今日はその喫茶店で仕事を進めていた。


「わかった。すぐ行くね」


 電話を切ると同時にエレベーターが一階に到着。

 志保は駆け足で麻美の待つ喫茶店へと向かった。



 喫茶店に着くと、麻美がそれはそれは大きな声で、志保の名前を呼んだ。


「志保ぉぉぉぉぉ‼」


 麻美の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。

 急いで駆け寄り、麻美の隣に座る。


「怖かった、怖かったよぉぉぉぉ!」


 志保に抱きつき、わんわんとむせび泣く麻美。


(私もめちゃくちゃ怖かったんだけどな……)


 志保にとって、こういう時素直に泣きつける麻美の性格は、羨ましく妬ましい。

 麻美の頭を優しく撫でながら、彼女が落ち着くのを待つ。


「ありがと……」


 志保からすっと離れた麻美は、近くにあった紙ナフキンで涙を拭き、鼻をかむ。

 そしておもむろにスマホを取り出しては、メッセージ画面を開いて志保に渡した。

 それは志保に送られてきたものとそっくりの内容だった。

 ただ、最後の一文だけが志保のものと決定的に違っていた。


『裏切り者が死を選ぶ』


「何よこれ……」

「知らないわよ! いきなり送られてきたかと思えば、全部ここに書かれたことが起こるの! それで最後このメッセが送られてきて、怖くてずっと目も耳も塞いでた。だから誰かが死んでても、私知らない」


 怯えた顔で語る麻美。

 だが、志保は『死んだ人』に心当りがある。

 急いで蓮に電話をかける志保。


「もしもし? どうした?」

「ねぇ、さっきうちのビルで人が落ちたでしょ。その人の名前って分かったりする?」

「え? う、うん。志保が気を失ってる間、館内アナウンスが流れて。確か、篠原武さん、だったかな」


 思わぬ人物の名前に、志保の背筋が凍った。


「篠原……武……嘘でしょ……?」

「武が、どうか、したの?」


 麻美がとても不安げな表情を浮かべている。

 そりゃそうだ。誰かが死んだかも、という不吉な話の流れに、自分の彼氏の名前が出てきたら、誰だって嫌な予感しかしない。

 言葉に詰まる志保。


「噓……でしょ……? もしかして、武が……?」


 しかしそれこそが、麻美への答えになってしまった。


「武ッ!」


 麻美が血相を変えて店を飛び出した。

 喫茶店の窓から麻美がオフィスに向かって走って行くのが見える。


「え……もしかして、麻美さんと、いる?」

「いるけど、出てっちゃった。……あれ? 蓮くんに麻美って紹介してたっけ」


 電話の向こうの彼は、動揺しているかのように声を上ずらせた。


「あっ、いや、えーっと! その、高校の時の、せ、先輩で! あっ、志保の仕事片付けておくから! それじゃ!」


 と、半ば強引に電話を切る蓮。

 次いで、


「危ないッ!」


 店内にいた女性が窓を指差し叫んだ。

 見ると麻美が勢いのまま車道を横切ろうとしている。

 その右側数メートルには大型トラックの影。

 今度は、間に合わない。


「麻美――っ‼」


 志保の叫びもむなしく、麻美の体は軽々と宙に浮いた。


「そんな……そんな……っ‼」


 麻美の体は五メートル以上飛ばされて、確実に助からない。

 地面とぶつかる瞬間、志保はとっさに目線を外し、目をつむった。

 店内が絶叫に包まれる。

 息を荒げながら、志保は目を開く。

 初めに映ったのは麻美のスマホ。


 そこには、蓮と麻美のツーショットが待ち受けにされていた。


「え…………」


 頭が真っ白になる志保。


 スマホの時計は〈13:50〉を示している。


「一時間後……」


 窓の向こうで救急車のサイレンが鳴り響く。

 呆然としたまま、志保は窓の方を見やる。


 そこには、今朝助けた少年が、嬉しそうにこちらへ手を振っていた。

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