第9話  ありすはヤバめな人たちと出会う

 1



 レリックと共に私は外へ出た。


 先ほどまで室内にいたからか、夜風がやけに冷たく感じた。先ほどまでとは異なり、空にはどんよりとした雲が垂れこめている。


 星々の光が遮断されたことで、森はいっそう陰鬱な雰囲気に傾いているような気がした。右手奥には私が通ってきた道がある。ろうそくの炎はいまだ消えずに灯っていた。


 それにしても、と私は思う。


 レリックはいったいどこに私を連れて行きたいのだろうか。そして、彼の目的とは何なのだろうか。

 私としてはこの夢の世界をめいっぱい楽しみたいので、彼と行動を共にすることは良いのだが……


 不安なのはチェシャの残した予言だ。「死の運命」とは何を指すのだろうか。まさか夢の中で殺人事件などが起こるのではあるまいな。


 私はさっさとレリックとイチャコラして大人の階段を上りたいというのに。


「どうしたんだい。そんな難しい顔をして」


 レリックが心配そうに顔を覗き込んできた。甘い果実のような香りがふわりと私の鼻腔をくすぐった。


「何でもないって、大丈夫よ」


「そう、じゃあ行こう」


 一寸の暇を惜しむかのようにレリックは歩き始めた。


 彼が向かったのはろうそく道ではなく、なんの道も整備されていない森の中だった。すたすたと歩く彼の小さな背中を追うようにして私も続いた。


 レリックは小さなランプを片手に持ち、足下に注意を払いながら慎重に歩を進めていった。案の定と言うべきか、ヒールを履いた私にとって、この森は非常に歩きにくかった。

 ただでさえ暗く、見通しが悪いのだ。つる状の植物や密集した雑草に足を取られ、何度かよろめきかけた。


「そこ、枝が転がってるから、転ばないように気を付けて」


「あ、ありがと」


 前を歩くレリックはぴょこんと立てたうさ耳に神経を集中しているようで、危険な箇所をいち早くを察知しながら私を導いてくれた。チェシャよりもこの白兎の少年の方がよっぽど紳士だ。


「ねえ、レリック」


 思い切って呼び捨てにしてみる。


「なんだい」


 レリックは足を止めないまま、ちらりと顔だけをこちらに向けた。私の呼び捨ては気にならないようだ。


「あのさ、この森なんだけど……チェシャが言ってたの。あなたに会うには夜の方角を目指せって。最初は昼間だったのに、レリックの家の方へ歩いてたら急に辺りが暗くなっちゃって。これってどういうことなの? 夜の方角っていうのは、歩いていくと夜になってしまう方角ってことなの?」


 彼ならば、この世界の常識――私にとっては摩訶不思議――について精通していることだろう。この際だから今までの不思議な体験について訊いてみよう、と思い立った私である。


「ああ、そのこと」


 レリックはいっそう耳をぴくぴくさせ、周囲に気を配りながら言った。


「この世界はさ、昼と夜の二つに分かれているんだ。エリナ女王が太陽と月の動きを止めて世界を二分したんだ。この森はその境目に位置しているから、君が体験したようなことが起こるのさ」


「エリナ……女王?」


「見てごらん、ありす。この森の暗さ、静けさ、寒さを。これが夜の世界なんだ。自分たちの宮殿や城下町を中心とした地域にだけ暖かく、そして輝かしい太陽の光を当てるなんて自分勝手で利己的すぎる。そう思わないかい」


「女王って、あの女王?」


「アリス」でいうところのハートの女王的存在だろうか。レリックの口調には穏やかならぬものを感じる。


「そう、不死と美貌を持つ最悪の魔女さ。彼女はとてもすごい魔力を持っているんだ。普通に相手をしてちゃ絶対に勝てない。でもね」


 レリックは足を止め、体ごと私に向き直った。私を彼のほぼ真後ろを歩いていたため、私たちはわずか一センチにも満たないほど接近した。



「あっ」



 思わぬハプニングほど、私のような純真な少女を刺激するものはない。幼い少年との突然の密着に私の心臓の鼓動は自分の耳にも届くほど高ぶっていた。レリックにも聞こえているのだろうか。


 恥ずかしい。


 いっそこのまま押し倒してしまおうか。


 経験はないけれど、なんとかなるはずだ。再び湧き上がってきた劣情を懸命に抑えながらレリックの次の言葉を待つ。彼は小さく顔を上げ、そして言った。


「ありす、君が来てくれた」


 私を見上げるそのまなざしには、真剣な光が込められていた。それだけ言うと、レリックはまた歩き始めた。


 私……?


 改めて思う。レリック、そして彼の仲間たちにとって、私はどのような存在なのだろうか。


 たしかにこの世界は私の夢なのだから、私がこの世界においてを持っていても不思議ではない。

 しかし、現状いくら願おうとも、私の願いは夢の世界に反映されず、魔法も使えない。そんな私がどうして、彼(彼ら?)の役に立つのだろう。


 ……まあ、面白いからいいか。



 2



 さらに歩き続けると、前方にぽうっと暖かな光が見えた。それはとても大きな光で、その中に人影が見えた。


「ねえ、誰かいるみたいよ」


「心配ないよ、仲間だから」


「そうなの?」


「ああ、皆、君のことを知ったらとても喜ぶと思うよ」


 レリックとの短かった二人旅が終わることを残念に思いながら、私たちは火に吸い寄せられる虫のようにその光の許へ歩いた。


「遅くなってすまない」


 そこにはたき火をしている二人の男女がいた。立ち昇る煙は、暗黒の空に吸い込まれていく。火を挟んで向かい合って座っていた二人は、私たちに目をやると、とっさに警戒の色を見せた。


「大丈夫だよ、彼女は怪しい人間じゃない」


 二人と私の間にレリックが立ち、とりなすような調子で言った。男と女は無言のまま私を注視している。


「それどころか、彼女は僕たちが待ち望んだ救世主さ。紹介しよう。ありすだ」


 レリックがそう告げた途端、二人の男女は勢いよく立ち上がった。


「いったいどういうことだ? 今はふざけている時じゃあないんだぞ!」


「落ち着いてくれよ、クロック。僕は冗談を言ってるわけでも君たちをからかっているわけでもない。彼女との邂逅は僕にとっても青天の霹靂なんだ」


 クロックと呼ばれた男は、筋骨隆々の大男で、身長は優に百八十センチはあるだろう。

 黒いタンクトップに灰色のズボンをはいている。銀色の髪を短く刈り上げ、それが浅黒い肌によく似合っている。左目の下に大きくえぐられたような傷跡があり、歴戦の格闘家、といった印象を受けた。


 あんな恰好で寒くないのかな。


 筋肉の多い人は少ない人と比べて体温が高いと聞いたことがあるけれど、それにしても夜の森の中でタンクトップ一枚というのはさすがに厳しいと思った。


「詳しく説明してちょうだい。忘れ物を取りに行ったあなたが、どうして、その、ありす様と一緒にいるのかしら。もしかして彼女自身が『忘れ物』ってわけじゃないわよね」


 ありす……様?


 もう一人の女は何か奇抜なものを見るような目つきで私を観察していた。


 腰の辺りまで伸ばした黒髪に青い瞳が美しい。姫カットにそろえた前髪と、しわ一つない純白のワンピース、そして気の強そうな話し方から、高飛車なお嬢様のような雰囲気を放っている。


「判ったよ、リリー。一から説明しよう」


 黒髪の女はリリーというらしい。この二人がレリックと共に私を待っていた者たちのようだ。


 それにしても、と不思議に思うのは、リリーという女が今、私のことを「ありす様」と様づけで呼んだことだ。また私の名を知った途端に二人が仰天したようなそぶりを見せていた。


 私という存在は彼らにとってどのようなものなのだろうか。



 レリックが私と出会った経緯について詳細に語るのを、クロックとリリーは黙って聞いていた。時おり、二人は盗み見るような視線を私に向け、どこか落ち着きのない様子だった。


「そういうわけで、あの予言猫の予言と照らし合わせてみても、彼女がありすであるということに疑いの余地はない。彼女こそ、僕たちが待ち望んだあのありすなんだよ」


「あの、いったい皆さんはどういう集まりなんですか?」


 私が尋ねると、クロックとリリーはお互いに顔を見合わせ、それからレリックの方に向き直った。


「本部に連絡をしないと」


 クロックが低い声を震わせるように言うと、リリーも同調するように頷いた。


「それなら僕がやっておいた。本部にはついさっき手紙鳥を出したんだ。とりあえずアジトに戻ろう」


「アジトにお連れするより、本部へ直接お連れした方がいいんじゃないの?」


 リリーが眉をひそめて言う。


 アジト……本部?


 彼らは私の想像しているよりもはるかに大きな組織のようだ。


「それは危険だ。僕たちだけでは心許ないからね。女王軍に見つかって彼女を奪われてみろ。僕たちの勝利は永遠になくなってしまう。まずはアジトに戻って、本部からの連絡を待つんだ。慎重になるに越したことはないんだから」


「そうだな、レリックの言う通りだ。ひとまずアジトに戻ろうぜ」


 私の問いかけは無視された形になったようだ。彼らの会話だけでは、私を取り巻く状況がいまひとつ判らない。レリックの傍に近寄り、再度尋ねた。


「ねぇ、レリック、あなたたちは何者なの?」


「心配ないよ。ありす」彼は穏やかな微笑を浮かべながら「来るべき時が来たら、全て話すから。その時は、僕を信じて付いて来てほしい」


「それはいいんだけど……」


「よし、じゃあ行くか。リリー、レリック。ありす様をしっかり守れよ。俺はしんがりを務める」


 そうして私は、彼らと共にアジトに向かうことになってしまった。


 各々、手には物々しい武器を携え、まるでA**国大統領のSPのように私を取り囲んでいる。それほどまでに私という存在が彼らにとって重要なのか。女王軍というのは、先ほど会話に出たエリナ女王のことだろう。


 同じような景色が続く森の中をある時はまっすぐ、またある時は曲がり、何を目印にしているのかさえ判らぬまま、私は彼らに付いていった。


「あの、ありす様」


 私の隣にいるリリーが話しかけてきた。どこか緊張したような面持ちである。言葉づかいから察するに、彼女は私に敬意を抱いているようだ。悪い気分ではない。


「私、何があってもありす様をお守りしますから。たとえエリナ女王からでも」


 またエリナ女王か。


「そのエリナ女王っていうのは、私の命を狙ってるのかしら?」


 この厳重な警護態勢は裏を返せばつまり、私に何かしらの危険が迫っているということではないか?


「いえ、そういうわけではありません。たとえエリナ女王であっても、ありす様の命を奪うことはしないでしょう。、あなたは希望なのです」


「希望、それはいったいどういう――」


 新たな疑問に対して私が問いかけようとしたその時、前を歩くレリックの足が止まった。


「着いたよ」


 それは古い煉瓦造りの洋館だった。


 深い森の奥にひっそりと佇むその様は、まるでホラー映画の舞台になりそうな趣である。


 壁の煉瓦はところどころ剥がれ落ちていて、その残骸が地面に散乱していた。窓には重厚な鎧戸がはめられていて、どれもぴったり閉まっている。


 玄関の右横には橙色の丸いプランターが隅まで並んでいたが、どれにも花は植えられておらず、湿った土だけが外気に晒されていた。


 ふと空を見上げると、雲の切れ間から白銀の月が顔を出していた。そのあまりの神々しさに私は目を奪われ、その月光にしばし見とれていた。


 心の中にもやもやとたちこめる邪気が払われていくような気がして、この幻想的な世界に私自身が調和していくかのような錯覚に陥った。


 その余韻を残したまま、私は彼らのアジト――古びた洋館に足を踏み入れた。



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