第2話  ありすは怠惰な日常を過ごす

 1



 通学路の中ほどで牧村千恵まきむらちえに後ろから抱き着かれた。その拍子に危うく通学鞄を落としそうになったので、私は抗議の目を友人に送った。


「ごめん、ごめん」


 おてんばと天然を混ぜ合わせたような彼女はそんな私の視線を気にもせず、昨夜観たドラマの感想を一方的に語り始めた。この様子では、彼女は今朝のニュースを観なかったようだ。それとなく訊いてみる。


「核ミサイル? へぇ、よく判んないや。あたしそういうの興味ないし」


「戦争になるかもしれないんだよ」


 父は戦争になることはないと断言していたが、絶対にそうとは言い切れないのではないか?


「でもそれって日本には関係ないでしょ」


 千恵はあっけらかんと言う。


「いやいや、だって沖縄には基地があるし……あ、もしかしたら日本にも核ミサイルが撃ち込まれるかも……」


 自分から口にしたくせに、私の不安はどんどん増幅していった。もしそうなったら、日本も戦争に巻き込まれるおそれがあるのではなかろうか。


「あわわわわ、た、大変だ」


 日本は唯一の戦争被爆国である。今から七十年以上も前に、この国では二度に渡って核が火を噴いた。その惨劇が長い年月を経て、現代日本に蘇るかもしれない。


 私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。


「もう心配性だなぁ、ありすは。ん? あっ、あれ見なよ」


 千恵は強引に私を立ち上がらせると、前方を指さした。見ると、二十メートルほど先の十字路に二人の男女がいた。


 よく見知ったクラスメートの二人だ。後ろ姿しか判らないが、どことなく甘い空気が二人の間には流れている。


「あれうちのクラスのみっちゃんと松山まつやま君だよね。あっ、見て。手を繋いでる。うわぁ、みっちゃん、いつのまに告ったんだろう。ありすは知ってた?」


「いや、全然」


 みっちゃんこと、澤田道子さわだみちこが同じクラスの松山健二まつやまけんじに想いを寄せていることはクラスの女子の間では周知の事実だった。


 二年生にしてバスケ部のエースを務める松山は違う学年にもファンガールが多いため、険しい恋路になるだろう、というのがクラスの女子たちの総意だった。


「いいなぁ、あたしも彼氏欲しいなぁ。夏までには」


「そうだねって……今九月だし、あと一年近くもあるじゃん。そこは普通『クリスマスまでに』じゃないの?」


「どんなことも余裕が大事なのさ」


「なにそれ」


 先を行くカップルの邪魔をしないよう、私たちは少し歩調を落とし、のんびり学校に向かった。


 よかったね、みっちゃん。


 道子が松山に恋慕の情を寄せ始めたのは高校一年の時からだった。私はその時も彼女と同じクラスでよく恋愛相談に乗ったりもしていた。それだけに、ようやく二人の恋が実ったことを、私は心から嬉しく感じていた。


 秋風を受けながら、とりとめのない雑談をする。途中、コンビニに立ち寄ってパックの紅茶とお菓子を買った。


 学校に到着しても、N**国の核ミサイルについて話題にしている生徒はおらず、普段と変わらない日常が流れていた。


 黒板の前では道子を中心とした女子たちの塊があり、松山との交際についてきゃっきゃと話している。私も加わろうかと思ったが、世界の脅威を前にして、とてもそんな気分にはなれず自分の席に着いた。


 ホームルームが始まるまで読書でもしようかと読みかけの恋愛小説を手に取ったその時、後ろの席から会話が聞こえてきた。


「昨日のみえぽんは可愛かったよなぁ。猫娘風の衣装は最高だった。脇とかちらっと見えてさ――」


 みえぽんとは最近男子の間で流行っている女性アイドルのことだろう。


 後ろの席に座っている加藤かとうとその友人、荒谷あらかわは熱狂的なみえぽん信者だった。彼らが暇を見つけるたびにみえぽん談議に興じてるのはいつものことである。


 聞き耳を立てているわけではないが、彼らのおかげで私もみえぽんについては少しだけ詳しくなっていた。おそらく昨夜の音楽番組に出演したみえぽんの感想を言い合っているのだろう。


 これもまた、いつもの日常の風景だ。


 やっぱりみんな、危機感を持ってないみたいだなぁ。


 父が言ったように、N**国の核ミサイルなど恐れる必要はないのだろうか。


 普通の女子高生の身である私には、今の世界の情勢など読み解くことなどできるわけがないし、そもそも今までそういった方面に目を向けたことなどなかった。


 もう少し現代社会の勉強をしておけばよかった、と少しばかりの後悔が残った。そうすれば、今回のことも父のように鼻で笑えていたかもしれない。漠然とした恐怖に支配されるくらいならその方がずっといい。


 よーし、今日からしっかり勉強しよう。ニュースだってちゃんと見なくちゃ。


 そう思い立ったのがホームルームの始まる三分前のこと。それから六時限目までの授業をいつものように適当に受け、陸上部でめいっぱい汗をかいてから帰宅した。

 その頃には、朝、胸に秘めた決意などとうに忘れ、私は今日の夕食について想いを巡らせていた。



 2



 帰宅前に近所のTSUTAYAに寄って映画を借りることにした。寝る前に映画を一本観ることが私の習慣なのだ。CDコーナーを横切って邦画のスペースへ。


 さて、何を見ようか。


 最近のマイブームはド派手なアクション映画。昨日は父の映画コレクションからこっそり拝借したジャッキー・チェン主演の「プロジェクトA」を観た。今日もその趣向で行きたかったのだが、残念ながらジャッキーの映画はどれもすでに借りられていた。


「うーん」


 甘いラブストーリーなどは気分ではないし、かといってホラーは寝る前に観たくない。

 そうしてカニのような横歩きで棚を移動しては、ピンとくるものがないか見て回った。サスペンスもいいがこれまた今日の気分ではない。

 気がつくと、子供向けのアニメコーナーに来ていた。七歳くらいの愛らしい少年が母親と共にジブリ映画を選んでいた。


 ああ、可愛いなぁ。


 大きな声では言えないが、私は幼い少年がたまらなく好きだ。


 棒のように細い手足。つやつやの髪に無垢な瞳。


 たまんない。

 

 その姿をしっかり目に焼き付けてから、私は棚に視線を転じた。ここはディズニーコーナーのようだ。


 懐かしいタイトルが軒を連ねている。「ピーター・パン」、「シンデレラ」、「アラジン」、「ターザン」、「美女と野獣」……




「あっ」




 私の目がある一つのタイトルの前で止まった。幼い頃、何度もよく観ていた映画だ。私の名前の由来にもなった(と思われる)アニメ映画。もう何年も観ていない。


「これにしよう」


 ふと蘇ってきたノスタルジックな感傷に心をゆだね、私はその映画を借りることにした。

 家に帰りつくと、まずお風呂に入った。汗を流し、しっかり体を温めてから夕食へ。父は普段帰りが遅いので、いつものように母と二人きりの夕食となった。揚げたてのからあげが食欲をそそる。


 夕食の場ではいつも母と今日あったことについて喋り合う。子供の頃からの習慣だ。母も道子のことを知っているので、私はまず彼女の恋が無事、結実したことを伝えた。


「よかったわねぇ。やっぱり年頃の女の子は恋しなくっちゃ。可愛くなりたいって思いが女の子を成長させるのよ。ありすもその辺をもっと頑張ってほしいわ」


 思わぬ方向に話が飛びかけたので、私は強引に会話の軌道を修正する。


「あ、お母さんの方は、何か面白い話あった?」


 母はほっそりとした頬に片手を当てながら、


「そうねぇ、あ、これ柴田しばたさんから聞いた話なんだけど」

「うんうん」


 母が語ったところによると、うちから三軒挟んだご近所さんの奥さんの義理の妹さんの従姉妹の旦那さんの実家に泥棒が侵入したそうだ。


「それってこの町の話じゃないよね」


「徳島県の田舎町だそうよ」


「めっちゃ遠いじゃん」


 いったい主婦たちはどのようなネットワークによってそのような情報を集めてくるのだろう。おそらくその地方のローカルニュースぐらいでしか取り扱われないであろう事件なのに。


 それから部活の話や将来の夢などについて私が熱く語ったり、母が父の愚痴を言ったりしてその日の夕食は終わった。

 部屋に戻ると、満腹になった胃を休めるため、ベッドに横になった。


「ふう」


 とても満ち足りた気分だ。おなかがいっぱいになれば、自然と睡魔がやってくる。


「いけない、いけない」


 午後八時前。眠ってしまうにはまだ早すぎる時間だ。


 私はくたびれた体を起こし、通学鞄にしまっておいたレンタルDVDを取り出す。


 今日借りたのはディズニー映画の中で私が最も好きな作品。「ふしぎの国のアリス」。これを観るのは実に五年ぶりだ。


 父と母がこの作品のファンであることから、私の名は「ありす」になったという。日本人離れした名前ではあるが、私はこの名前が大好きだった。


 デッキの電源を入れ、DVDをセットする。買い置きしていたスナック菓子に手を伸ばしながら、私はふしぎな世界の冒険譚に見入った。



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