Retake
いちはじめ
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このところ男は床に臥せっていたが、今日は気分がいいので近所を散歩することにした。
数十年前にここに家を建てた頃は、周辺はまだ田んぼや畑が広がる土地だった。しかし十年ほど前に都心からの地下鉄路線が延長されると、あっという間に人気のベッドタウンになって、もはや昔の風景など誰も想像もできない街となっていた。
男は感慨にふけりながら、目抜き通りに続く街路をゆっくりと歩いていた。するとある路地から柔らかな光が射してきた。この時間この方向から日が射すわけがないし、なんだろうと思った男は、導かれるようにその路地に入っていった。そこはこの街にはない男の学生時代の雰囲気が何となく残っており、男には心地よかった。こんな路地あったかなと、男が訝しがりながら歩いていると、小さなカメラ屋が男の目に入った。
男は写真を撮るのが趣味だったので、カメラには目がない。店を覗こうとショーウィンドウに近づくと、店の扉が開き、中から小柄な初老の男性が現れた。そして男を待っていたかのように声を掛けてきた。
「どうぞ中に入って、ゆっくり見ていってください」
買う気がない男は立ち去るつもりであったのだが、気が付くと店内にいた。
「古いフィルムカメラばかりですが、いいものが揃っているでしょう」
店主が言うように、ショーケースや棚には、往年の名機が鎮座していた。
男は感嘆すると共に、近くにこんな店があったのに長年見過ごしていたことをおおいに悔やんだ。
男が熱心に名機を見て回っていると、店主が一つのカメラを差し出した。
「これは掘り出し物でしてね、ちょっと見てみませんか。きっとお気に召すと思いますよ」
そのカメラには見覚えがあった。男が長年愛用していたカメラだったのだ。
――私の愛機?――、そんな思いで店主を見ると、店主はにっこり笑うとこう言った。
「長い間あなたと共にあったカメラです。ファインダーを覗いてみてください」
言われるままに男がファインダーを覗いてみると、店内とは全く違う情景が見えた。和室の座テーブルを囲んだ、妻と年老いた両親がいて、その周りをまだ年端のいかぬ小さな子供たちが嬉しそうに走り回っている。驚いた男が店主に目を向けると、優しい声で店主は答えた。
「あなたが撮りたかった写真を撮ることができますよ」
男は再度ファインダーを覗いた。紛れもなくそれは、自宅で両親の金婚式の宴を開いた時の情景だ。今は亡き両親の笑顔に胸が熱くなった。男はシャッターを切ってフィルムを巻いた。巻く度に忘れがたい情景がファインダーに次々と映し出された。
そしてカウンターが最後の一枚を示した時、ファインダーの中にいたのは随分若いころの妻だった。最初の出会いの場所、岬の白い灯台が背後に見える。涙で曇るファインダーを拭きながら、男はシャッターを切りたくないと思った。男はすがるような目で店主を見たが、店主は少し悲し気な顔で頭を左右に振った。その意味を悟った男は、シャッターを切り、そして店主に深々と一礼をした。
和室の蒲団に男が静かに横たわっていた。彼を取り囲んでいる者たちが嗚咽を漏らしていた。男の妻は彼の手を握ったまま傍らに伏せ、肩を震わせている。そこへ突然、無邪気な少女の声が響いた。
「この写真なーに?」
男の胸元に数枚の写真があったのだ。
「何故こんなところに写真が? これは祖母と祖父の金婚式の写真だ。でもこの時、姉貴がカメラの裏ブタを開けてフィルムをパーにしたから、写真は残ってないはずだけど」
妻も赤くなった目に眼鏡を掛け、写真を確かめている。
写真は全て家族に関する懐かしい情景のものばかりだったが、何故かプリントは真新しいものだった。その中に、灯台をバックに少し硬い表情で、ピースサインをした若いふたりが写っているものがあった。
「この人たち、おじいちゃんとおばあちゃんなの? おばあちゃん、きれい」
いつの間にか彼女のひざの上に移動した少女が彼女を振り返り、柔らかな声を上げた。
「ここでおじいちゃんと出会ったから、あなたは、今こうしてここに居るのよ」
少女の頭をなでながらそう話すと、彼女は少し首を傾げた。
「でも変ね。この時私を撮った後、カメラが故障して他に写真は撮ってないはずなのに……。しかもあなたまで一緒に写っている。ねえこの写真どうやって撮ったの、あなた」
彼女は夫に問いかけたが、男はいたずらっぽい微笑を浮かべているだけだった。
(了)
Retake いちはじめ @sub707inblue
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