02
――次の日。
水泳部の練習で先に家を出ていた虎美に続き、龍子もスーツに着替えて出勤。
会社は私服オーケーなのだが、着ていける私服がない彼女はいつもスーツだった。
当然は朝食は食べない。
龍子は虎美には会社で食べるといい、朝と昼は抜いている。
「おはようございます」
会社の部署へと入ると、早速コーヒーマシンに自前のカップを置く。
龍子の食事は夕食までコーヒーのみだ。
当然腹は減るが、すきっ腹に何杯もコーヒーを飲むと胃が荒れるので食欲が落ちる。
それで毎日なんとか耐えているという状況だ。
「
午後になり、昼食を取りに事務所を出て行く社員たちの一人――井森が龍子に声をかけてきた。
「うん。ほら、今ダイエット中だからさ。もう三十路にもなるとスタイルの維持が大変でね。それに節約にもなるし」
龍子椅子から立ち上がって、コーヒーマシンで本日三杯目のエスプレッソを入れながら返事をした。
それとほぼ同時に、彼女のお腹からグゥ~という腹の虫が鳴る。
「うぅ」と顔を赤くした龍子を見て、井森が笑顔で言う。
「なんなら僕が立て替えますよ」
「だ、大丈夫だから! ありがたいけど、亡くなった祖父の遺言でね。人からお金を借りるなって言われてるんだ」
「
そう言われた龍子は、井森の顔をじっと見つめる。
たしか年齢は二十代後半。
派遣社員の自分とは違い、新卒の正社員で、その明るい性格から会社からも期待されている男だ。
(井森くんって絶対に友だち多くって、休日はみんなでいかがわしくないパーティーって感じだよなぁ)
龍子の悪い癖――品定めが始まる。
(顔もそこそこだし、将来も安定してる。こういう子と結婚したら幸せなるんだろなぁ。……ローンでマイホーム買って、男の子と女の子二人の子供を作って大きな犬とか飼いそう)
そして、勝手に井森の将来を予想する。
すると、龍子にじーと見つめられた井森が、乾いた笑みを浮かべながら口を開く。
「どうかしました?」
「ねえ、井森くんって彼女いたっけ?」
「えッ? いないですけど。てゆーか双沢さん。それってセクハラですよ……」
それから井森の誘いを断った龍子は、失礼な質問をしたことを謝ると、自分のデスクで頭を抱えていた。
(あぁッなに考えてんだわたしはッ! 今は男に
自分が井森にしたことに
これはすべて空腹のせいだ。
からっぽの胃が自分をおかしくさせたのだと、胃袋を黙らせるために入れたエスプレッソを一気飲みする。
結婚適齢期を過ぎたスキルなし向上心なしの女に、あんないい物件が手に入るはずがない。
仮にもし奇跡が起こったとしても、虎美はどうする?
年頃の娘は難しいのだ。
いきなり知らん男が一緒に住むと言い出したら、心を病んでしまうかもしれない。
(でも虎美はいい子だから絶対に文句を言わないんだ! 鈍感なわたしはそれすら気付かずに、知らず知らずのうちにあの子が自ら命を絶つに決まっている!)
そんなことになったら悔やんでも悔やみきれない。
死んでも償えない。
あの世で兄夫婦に合わす顔もない。
自分に男ができたときのシミュレーションをした龍子は、思わず膝をデスクにぶつけて大きな音を鳴らす。
一体何事だと、事務所に残っていた社員たちが龍子のほうを見るが、彼女は全く気にせずに心の中で叫び続けていた。
(今は男なんかよりも金だよ! そして何よりも虎美だ! わたしはあの子の幸せのために生きるって宝塚大劇場に誓ったんじゃないッ!)
自分の決意を再確認し、その場で
そんな顔を覆い隠し、デスク全体を震わせている彼女を見て、周囲にいる社員たちが恐れおののいていた。
その後はいつものようにカフェインで仕事を乗り切り、龍子は会社を出て行く。
欧州連合の欧州食品安全機関は、健康を維持するために望ましいカフェイン摂取量について、成人では1日400mg未満に抑え、1回の摂取量が200mgを超えないようにするべきとする提言を公表している。
通常のコーヒーであれば、1日のカフェインの摂取量は4~5杯までが適当な量だというが、龍子は毎日10杯は飲んでいる。
カフェインの過剰摂取は、一時的に興奮、覚醒、めまい、下痢、吐き気、震え、不眠、心拍数の増加、血圧の上昇などの様々な症状が出てしまう恐れがある。
その結果、自律神経の乱れによる不安が龍子を襲い、彼女は節約生活の影響もあって、毎日が心配で夜もあまり眠れていなかった。
スマートフォンでコーヒーの飲み過ぎについて調べた龍子は、今の自分の症状をカフェインの過剰摂取だと気が付く。
(健康にいいって前に見たけど、やっぱ飲み過ぎはダメなんだね……。はぁ、コーヒー……ちょっと控えよう……)
電車の中から流れていく景色を眺めながら、龍子はこれから飲み物をウォーターサーバーから出るお湯に切り替えようと思った。
――その頃。
水泳部の練習を終えた虎美は、アパートの近くにあるスーパーマーケットへと来ていた。
ジャージ姿で買い物かごを持ち、財布の中身と食品の値札を何度も見てはひとり唸っている。
虎美は、なんとか予算の範囲以内で買える物の中から、少しでも豪華な食事を作ろうと頭を悩ませていた。
しかし、今年は冬の合宿が水泳部であるため、あまり余計なお金は使えない。
肉や魚はやはり高く、野菜を買うとどうしても予算オーバーになってしまう。
ピーク時を過ぎると特売のシールが貼られることがあるが、虎美たちの住むスーパーマーケットには生鮮食品が安くなることはまれで、安くなるのはお惣菜ばかりだ。
長く考えるとどうしてもお惣菜はコスパが悪いため、どうしても値段が安く、栄養価の高い大豆製品のほうへ手が伸びてしまう。
「なんかこう、ガッツリとした物を叔母さんに食べてもらいたいなぁ……。でも、無理はできないし……」
思わず口から声が漏れてしまう虎美。
今彼女の買い物かごに入っているのは、いつも買っている納豆ともやしとサラダ用の野菜だ。
これ以上の買い物は、明らかに月の食費を超える。
諦めようと生鮮食品売り場から移動した虎美の目に、冷凍食品売り場が目に入る。
唐揚げ、餃子、鍋焼きうどんと、味が濃いものから主食にも使える商品が並んでいる。
値札へと視線を向けると、やはり高い。
そう思いながら、側にあった冷凍食品を手に取った虎美は「はぁ」とため息をついていた。
「うん? これはドリアか……。そういえば叔母さんって、チーズ大好きだったっけ……。そうだッ!」
虎美は何か思いついたのか。
他の客のことなど気にせずに急に声を張り上げて、冷凍食品売り場を後にした。
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