一夜バディ
砂藪
第1話 ハンター事務所にて
ウェンディは誰もいない地下室の射撃訓練場で頭を抱えて蹲っていた。
「まずい……非常にまずい……」
目の前には人型の黒い影がプリントされた紙がある。射撃訓練のために作られたその紙には人型の胸の真ん中あたりを中心にして、いくつか円が書かれている。通常であれば、射撃後、紙には穴ができているはずだが、現在は一つもない。
ウェンディが先ほどまで手にしていた訓練用の銃をまだ使っていないわけでもない。むしろ、これでもかというほど使い切った後なのだ。
「一時間もやって一発も当たらないことなんてありえるの⁉」
彼女が今日初めて銃のグリップを握った素人であるのならば、この結果もありえるだろう。一時間、撃って、一発のまぐれも起こらなかったと考えることもできる。
しかし、彼女は素人でもなければ、射撃が元々下手なわけでもない。
「……師匠に殺される」
むしろ、彼女はハンターと呼ばれる職業の見習いとはいえ、厳しい師匠の元、訓練を積み重ねていたのだ。通常の彼女であれば、早撃ちで人の頭の上にのせたリンゴを撃ち抜くことができる。
それが一時間も訓練場で撃って、一発も当たらない。
「師匠が帰ってきたらなにをされるか……」
彼女は失意にがくりと肩を落としはしたものの身体に染みついた習慣からか、すぐに使った銃や吊り下げた訓練用の紙などを片付け始めた。
彼女の名前はウェンディ・オブ・ディズレーリ。
闇に潜む化け物を殺すハンターという職業の、見習いをしている。見習いだから、普段一人で仕事を請け負うこともなければ、にこにこと笑いながら、顔の横に銃弾を撃ち込んでくるような怖い師匠と一緒でなければ、化け物狩りなどしない。
「いや、待つんだ。まだ殺されない可能性はある。怒られそうなことをそこまでしていなければ……好物のアップルパイで許してもらえる程度ならなんとかなる。具体的にアップルパイ三つぐらいなら……」
銃を棚の中へと納めたウェンディはぶつぶつと呟きながら、迷いのない足取りで地下室の射撃訓練場から出てしっかりと鍵をかけるとコンクリートの階段を上がって一階のマクニーハンター事務所へと戻る。
事務所の奥のある地下室への階段に向かう扉に鍵をかけて、ウェンディは大きくため息を吐いて、思考を巡らせる。
何故こうなったのか。
まず、彼女の射撃の精度がこれでもかというほど落ち込んだのは、一通の依頼の手紙のせいだった。
この事務所がある建物は三階建てで、三階の居住区で久しぶりに師匠の朝食を作らない穏やかな朝を迎えたウェンディは子どもっぽいなとは思いながらも蜂蜜をたっぷりと垂らしたホットミルクを手に人のいない一階の事務所へと降りてきた。手紙などが届くとしたら、一階の入り口の傍のポストの中だからだ。
しかし、その日はポストの中を見るために外に行く前に、事務所の扉の下に見覚えのない手紙が差し込まれていた。
宛先も差出人の名もない封筒を不思議に思って、ウェンディがその手紙の中身を確認すると、そこには相談の内容が書かれていたのだ。
『赤レンガの通りのチョコレート屋の隣の細道から裏路地に入ったところで原因不明の化け物に襲われてしまいました。それに襲われてからというもの、食事ができなくなって困っています。お願いします。原因を探ってください。助けてください』
助けてくださいと言いながら、姿も名前も明かさないという怪しさにウェンディが引っかからなかったのは、この事務所に今日は自分しかいないという事実が彼女の気持ちを大きくさせていたからだ。
師匠がいなくても私は依頼をこなしてみせる。帰ってきた師匠に一人前と認めてもらうんだと着替えて事務所を飛び出した彼女を待っていたのは、ぼんやりとした影に襲い掛かられて、何かを失ったという感覚だけだった。
「師匠がいないのに、勝手に怪しい手紙を開けた。アップルパイ一つ。師匠がいないのに勝手に依頼を受けた。アップルパイ一つ。原因不明のものに返り討ちにあった。アップルパイ一つ。気が付いたら、射撃の腕が素人以下になっていた。アップルパイ一つ……」
アップルパイ三つで許してもらえないと分かると事務所の真ん中でウェンディは膝をついた。事務所の丸テーブルの上の封筒をきっと彼女は睨みつけた。
「この手紙さえ、なければ……っ」
彼女は原因とも言える手紙を掴むと勢いのまま破った。
「おいおい。ハンターが相談の手紙を破ってもいいのかよ」
唐突に事務所の入り口の扉の向こうから聞こえてきた声にウェンディは弾かれたように振り返った。
窓などはない。あるのは扉に取り付けられた覗き窓だけ。しかし、それも外からは中の様子が見えないようなレンズの仕組みになっている。
もし、事務所の内部の様子が分かるとしたら、人間ではない。
化け物だ。
ウェンディは腰のポシェットの中の銃を取り出そうとして、やめた。今の射撃の精度ではたとえ殴って終わるような弱い敵でさえも強敵になりかねない。ならば、と彼女は右の太ももに巻いているホルダーからナイフを抜いた。
「その声、聞き覚えがある。吸血鬼?」
少し酒焼けしたような渋い男の声とからかうような口調にウェンディは記憶を辿る。
師匠とは十年来、死闘を繰り広げている吸血鬼。ウェンディでさえも出会ったら、師匠に「お前は安全な場所に隠れていろ」と言われて、戦っているところさえも見せてもらったことがない相手だ。
「吸血鬼なんて味気のない呼び方をしちゃいけねぇって。俺にはアレン・ヴォン・ウォルフっていう名前があるんだ。お嬢さん」
よりにもよって師匠がいない時になんて奴が来てしまったのだとウェンディは扉を睨みつけた。吸血鬼ならば、家の住民に招かれなければ、その家に入ることができない。ならば、扉を開けなければいい話だ。
「なんの用だ。吸血鬼」
「俺は結果を聞きに来たんだ。俺の吸血能力が戻っていないということは結果は明らかだが、一応聞きに来たんだ。元凶を退治したら時間差で戻る可能性もあるし、お嬢さんのような半人前が退治できるような案件だった可能性もある」
すらすらと言葉を連ねる吸血鬼アレンの言動にウェンディはだんだんと呆けて、ナイフを手から取り落しそうになってやっと正気を取り戻した。
「それで、依頼はどうなんだ? 訳も分からないものに襲われてから食事もできずに困ってるんだ」
「今朝の手紙はお前かー!」
ウェンディは勢いよく扉を開けて、吸血鬼アレンに向かって、ナイフを振り上げたが、ナイフは空を切り、ウェンディは足をもつれさせて、その場で一回転して転んだ。
その様子を見て、アレンはため息を吐いた。
「結果は見ての通りか。お嬢さんもやられたみたいだな」
やれやれと首を横に振るアレンにウェンディは泣きたくなるのを必死でこらえた。
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