第6話
それ以来、彼らのいじめはぴたりと止んだ。ようやく訪れた平和な日常。僕は安堵の中を過ごしていた。そんなある日のことだった。学校からの帰り道。いつもの公園の前を通った僕はそこで繰り広げられている光景に目を奪われた。
そこには僕をいじめていた3人がいた。が、明らかに様子がおかしい。1人、地面に伏せられて身動き取れないように押さえつけられている。大将がその1人が背負っているリュックを剥ぎ取った。僕はハッとした。その様子に酷く見覚えがあった。そう、彼らはいじめの標的を僕から違う子に変えたのだ。大将はニヤニヤと笑いながら剥ぎ取ったリュックを公園の裏手に流れている川に投げ捨てた。押さえつけていた手が離れ、大将と仲間達が去って行ったが、リュックの持ち主であるその一人は茫然としてしばらくの間その場に横たわっていた。
やがてゆっくりと起き上がると、フラフラと川に向かって歩いて行った。恐らく投げられたリュックを探すつもりなのだろう。僕は迷った。僕も一緒に探してあげるべきなのだろうか。しかし、相手はかつて自分をいじめていた奴だ。目には目を、で痛い目を見ればいい。そんな思いもあった。結局、僕はその日、彼を助けることはできなかった。このことをヤヨイ様に相談してみると、こんな答えが返ってきた。
『咲人、そいつを助けてやるんだ。確かに自分をいじめていた奴を助けるのは悔しいかもしれない。だけど、そんな奴にも慈悲の心を見せてやるのが一人前の男ってやつだよ』
『じひの心ってなに?』
『親切や優しさを持った心のことだよ。かつて自分をいじめていた奴に優しくする。これができたらあんたはもう立派な男だよ』
『そっか……わかったよ!』
僕はヤヨイ様の言う通りにすることにした。
その翌日。公園の前に差し掛かると相変わらず大将が1人のリュックを剥ぎ取り、川に投げ捨てている光景に遭遇した。僕は迷わず公園に駆け込んだ。僕の姿を見た大将と他の1人が顔面を引きつらせ、一目散に逃げて行った。
地面に突っ伏している彼を優しく起こしてあげると、彼は酷く驚いた顔をしてこちらを見つめていた。僕は言葉を発する代わりに、何もしないよ、君を助けたいんだ、という意味を込めてにこりと笑った。彼はますます驚きの表情を浮かべた。彼こそが後に僕の親友となる竹田仁哉である。
僕達はその後、川に入ってリュックを探した。幸いにも流れは緩やかだし水も綺麗なのですぐに見つかった。しかし、それは無残にも破れ、ボロボロになっていた。明らかに何度も川に投げ捨てられたということが分かった。仁哉は酷く落胆した様子でがっくりと肩を落とし、うなだれていた。
僕はそんな彼を一旦ブランコに座らせるとポンポンと優しく肩を叩いた。仁哉はやがて大粒の涙を零して泣き出してしまった。僕よりも一回りも大きいはずの彼が、小さく見えた。彼の気持ちが痛い程に分かった。人の痛みを知るってこういうことなのか、その時僕は初めて知ったのだった。僕は彼の背中を撫でながら大丈夫、大丈夫と心の中で強く思いを込めた。しばらくすると、彼は泣き止んだ。そして、泣きはらした真っ赤な目で僕を真っ直ぐに見つめながらゆっくりと口を大きく開けてこう言った。
(あ り が と う)
僕はその時、まだ口の動きを満足に読み取ることができなかった。けれど、仁哉が何を言ったのか分かった。自身の胸が何だか温かくなるのが分かった。返事の代わりにポケットに入っていたハンカチを差し出すと、彼は嬉しそうにそれを受け取り、涙をそっと拭いたのだった。言葉を交わせなくても気持ちは伝わるんだ、そう思えた出来事だった。ヤヨイ様はこの話を聞くと、いつにも増して喜んでくれた。
『咲人、あんたは偉いよ! よくやったね!』
その後、僕と仁哉は友達になった。なんと彼は僕のために手話をマスターしてくれた。そして、覚えたての手話で僕にこう伝えてくれた。
(自分が酷い目にあって咲人の気持ちが初めて分かった。あの時は本当にごめん。助けてくれて本当にありがとうな)
僕は嬉しくて思わず泣いてしまった。かつて耳が聞こえないことを理由にいじめていた者といじめられていた者が友達になる。素晴らしいことだと僕は思った。
僕はそれまで、自分の耳が聞こえないことをコンプレックスに感じていた。しかし、この時初めて僕は耳が聞こえないことに感謝した。彼と友達になれたからだ。それと同時に彼を含め僕をいじめていた他の二人にも感謝することができた。そのおかげで自分は強くなれたし、彼とも友達になれたのだ。
この出来事をキッカケに僕は自身のコンプレックスを克服することができた。仁哉とはその後、一緒に勉強したり、ヤヨイ様の元で遊んだりと付き合いを続けていった。
それまで彼はヤヨイ様には殆ど見向きもしなかった。桜なんて興味がなかったのだ。だから、僕がヤヨイ様と言葉を交わせるということを聞いても怪訝な顔していたし、信じるはずもなかった。
村の人々も最初は仁哉と同じ反応だった。誰も僕がヤヨイ様と言葉を交わせるなんて本気で信じていなかった。しかし、村長とヤヨイ様しか知らないようなことを僕が知っていたり、僕と言葉を交わせるようになってからヤヨイ様が明らかに元気になったり。そういう姿を頻繁に目の当たりにしていく内に、人々は少しづつ僕のことを信じるようになっていったのだ。仁哉も全く同じだった。
(最初はお前が嘘ついてんのかと思った。けど、お前は嘘なんかつく奴じゃない。二人の様子を見てる内に段々と本当のことなんだと思うようになった)
その頃、仁哉は悩んでいた。彼は当時、中学生になったばかりで思春期を迎えていた。それもあって、自分の家が民宿であることをコンプレックスに思っていた。両親から将来、民宿を継いで欲しいと言われていたが、拒否していた。そのことで両親との仲はあまり良くなかった。
(こんな辺鄙な村で民宿なんて、田舎臭くてやってらんねえ。俺は将来、絶対に上京する。そんで、一旗揚げてやる)
そう息巻いたものの具体的に東京で何をやりたいかなんて自分でもよく分からなかった。「この家を出たい」という漠然とした思いがただあったのだという。民宿を継いで欲しいという両親の思いは分かっていた。「民宿たけだ」は村にある唯一の宿泊施設だ。観光客からも村人達からも親しまれている。それを無くしたくない、と両親は思っているのだ。彼は葛藤していた。
(仁哉、ヤヨイ様に相談してみようよ)
(はぁ?なんでだよ)
(僕はいつもヤヨイ様に悩みを聞いてもらっているんだ。凄く親身になって聞いてくれるよ。時にはアドバイスだってくれる。僕はそれで色々なことを乗り越えてきたんだ)
仁哉は困惑した表情を浮かべていた。けれど、咲人がそう言うのなら、と僕の提案に乗ってくれたのだった。僕達はヤヨイ様の元へ走った。
「ヤヨイ様、俺は自分の家が気に入らない。だから、将来は上京したいと思ってるんだ。でも親父と母さんの気持ちも分かる。どうしたらいいのか分からないんだ」
仁哉は僕にも分かるように手話を交えながら言った。その他にも、両親が民宿に架ける思いなどを語った。ヤヨイ様はしばらくの間、何も言わなかった。何かを考えているようだった。
『仁哉、あんたはこの村が好きかい?』
僕はヤヨイ様の言葉をそのまま仁哉に伝えた。仁哉は驚いた表情を浮かべて黙ってしまった。しばらく考え込んだ後、複雑そうな表情で言った。
「この村のことは別に嫌いじゃない。けど、親父や母さんみたいに思い入れがある訳でもない」
『そうかい。それなら無理に民宿を継ごうと思わなくてもいいんじゃないか』
「でも、親父と母さんを悲しませるのは……」
『仁哉、大事なのはあんたの気持ちだよ。そりゃあご両親の気持ちも大事だけどね。自分がどうしたいかが重要なんだ。あんたはまだ中学生だ。別に今すぐ答えを出さなきゃいけない訳じゃない。もう少しじっくり考えてみてもいいんじゃないかね。もしかしたら、この村や民宿に対する思いが変わるかもしれないよ。答えを出すのはそれからでも遅くはないんじゃないかい?』
仁哉の表情が明るくなった。
「確かにそうだな。時間はまだ沢山ある。もう少し考えてみることにする。ヤヨイ様、咲人、ありがとうな」
『いいんだよ。また何かあったらいつでもおいで』
ヤヨイ様はとても優しい声でそう言った。仁哉のことを心から心配してくれているのだ。仁哉はその後、僕を通してヤヨイ様と交流を深めた。民宿のこと、学校のこと、勉強のこと、両親のこと。どんな些細な悩みも親身に聞いてくれるヤヨイ様のことを彼はとても信頼するようになった。仁哉はその頃からますます明るく、優しい心を持つようになっていった。
ある日。そんな仁哉にヤヨイ様が言った。
『仁哉、お前が咲人をいじめてるって聞いた時は、私が行ってぶん殴ってやろうかと思ったんだよ。でもね、心を入れ替えてくれてから、優しい子に育って本当に良かった。いつもありがとうねえ』
僕はヤヨイ様の言葉をそのまま仁哉に伝えた。「ぶん殴ってやろうかと思っていた」というくだりで彼は、食べていたお菓子を吹き出しそうになっていた。が、その後の言葉を聞くと照れくさそうに笑った。
「あの時は本当にすまん。ヤヨイ様、俺これからはヤヨイ様と咲人のこと信じるから」
ヤヨイ様はその言葉を聞くと、嬉しそうに笑った。それ以来、僕と仁哉は唯一無二の親友になったのだ。
その後、僕達は高校を卒業した。僕と仁哉をいじめていた大将と他の一人は上京していった。こんな過疎った村なんかにいられるか!と、卒業と当時に村を飛び出して行ったと人づてに聞いた。自分の家が民宿であることを悩んでいた仁哉の気持ちにも変化があった。
(お前とヤヨイ様に会って考え方が変わった。俺はこの村とヤヨイ様が大好きだ。だから、将来は俺が民宿を継ぐ)
てっきり不良息子に育ってしまうかと思っていた仁哉の両親は泣いて喜んだ。わざわざ僕とヤヨイ様に感謝の言葉を言いに来た程だった。
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