知里幸恵 序『アイヌ神謡集』

 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。

 天真爛漫てんしんらんまん稚児ちごの様に、美しい大自然に抱擁ほうようされてのんびりと楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児ちょうじ、なんという幸福な人だちであったでしょう。

 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気をものともせず山また山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風りょうふう泳ぐみどりの波、白いかもめの歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚をいさり、花咲く春はやわらかな陽の光を浴びて、永久とわさえずる小鳥と共に歌い暮してふきとりよもぎ摘み、紅葉の秋は野分のわき穂揃ほそろうすすきをわけて、よいまで鮭とるかがりも消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、まどかな月に夢を結ぶ。嗚呼ああなんという楽しい生活でしょう。

 平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第次第に開けてゆく。

 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方もまたいずこ、わずかに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安にち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おおほろびゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。

 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうしたみじめなありさまに変わろうなどとは、つゆほども想像し得なかったのでありましょう。

 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡きょうそうじょうり敗残はいざんしゅうをさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それは本当に私たちの切なる望み、明暮あけくれ祈っている事でございます。

 けれど……愛する私たちの先祖が起伏きふくす日ごろ互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんなはかなく、ほろびゆく弱きものとともに消えうせてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜なごりおしい事でございます。

 アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇あるごとにうち集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中ごく小さな話の一つ二つをつたない筆に書き連ねました。

 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事ができますならば、私は、私たちの同族祖先とともに本当に無限の喜び、無上の幸福に存じます。


大正十一年三月一日        

               知里幸惠

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