荒廃したこの世界で恋した君を殺すまで

ガジュマル

第1話 プロローグ

  あらすじ


 難病のためコールドスリープに就いていた阿瀬湊はある夏に目を覚ます。

 彼を起こしたとみえる女性に家族と連絡が取りたいと言うと、突然日本が滅亡したことを告げられる。

 混乱する阿瀬は彼女に質問攻めをするも、どうやら嘘はついていないようである。

 愕然とする阿瀬に対し、女性は施設の電源が切れかけ命の危うい阿瀬を自分が助けたのだと説明し、見返りに自分を殺すように要求した。

 阿瀬は戸惑い、彼女を真意を探ってどうにか断ろうとするも、元自衛隊である彼女に家族を半ば人質に取られ承諾させられる。

 一般人である阿瀬は本人の望みとはいえ殺人に強い拒否感を抱き、また、彼女の脅威的な身体能力と勘の良さの前にことごとく策は失敗する。

 果たして、彼女はなぜそのような要求をしたのだろうか。阿瀬は彼女を殺せるのだろうか。


 本文


 微かな意識の向こうでアブラゼミのけたたましい泣き声が未だ働ききっていない脳を刺激する。


 ぼやけた脳裏で起きたんだと理解した。

 目を擦りこじ開けると白い天井が見えた。どうやら、病室にいるらしい。


 起きたんだと、その時理解した。

 未だ視覚が現実世界の速度に追いつかないので、耳を澄まして全身を聴覚、嗅覚、触覚のみに委ねる。


 遠くから聞こえるアブラゼミの声、肌を撫でる少々熱を帯びた湿った風、風が窓を吹き抜ける音、周囲の刺激に身を委ねていると、ふと思考が脳裏を横切った。


 人の気配が、雑多さがどこにもない。徐々に慣れてきた目を開けて視線を病室に移す。

 俺は若干の恐怖を覚えた。


 旧い。幸運なことに部屋には人の手が回った形跡がいくらかはある。

 きちんと掃除された上での小汚さであった。


 しかし、俺がコールドスリープ被験者である――正確には、であった――ことを考えると不自然である。


 入院していたのは東京の大学病院なはずだ。コールドスリープは最先端の医療技術。設備も限られているから、わざわざこちらの方に足を運んだのだ。


 この病室が医療の最前線のあるべき形だというのはあまりに横暴である。


 子供時代に近所の八百屋に行って、そのまま迷子になった時の、あの盲目感を二十五の今になって思い出した。


 心細さに少し唇を歪める。まるで、この地球上で俺一人しかいないような、そんな孤独感に襲われた。


 もしかしたら、病床が足りなくて近くの別の病院に運ばれたのかもしれない。


 俺はコールドスリープから目覚めたんだ。また、解除には親族の合意と医者の許可が必要になる。


 つまり、少なくともこの世界には医療機関が存在し、その関係者も存在し、俺の家族もこの世のどこかにいるということだ。


 そもそも、いくらコールドスリープを解いたからと言って、いつ起きるかも分からない患者にずっと付き合うほど彼らも暇じゃないだろう。


 今見当たらないだけだ。ぬか煩いに違いないと自分をそうやって説得した。

 おそらく、コールドスリープから目覚めて少々頭が混乱しているんであろう。


 でなければ、いい歳こいた成人男性がこんな馬鹿げた妄想でここまで狼狽することはない。


 我ながら情けないと思う。



 しかし、尚も静寂は今の自分にとって不快であった。人気を求めて俺は足を地面に下ろしかけたが、瞬間、鈍い痛みがふくらはぎを走った。


 歯医者で麻酔を打ってもらった後、誤って舌を噛み切ってしまう患者が稀にいるという。


 今無理に動こうとして後遺症を患う可能性に思いを馳せて、俺はそのまま動くことなくドアノブを見つめた。


 冷や汗が俺の頬を伝う。これは暑さ故なのか。


 窓の奥がちらりとした。夕日のない茜色のモノトーンと化した都市でも、シルエットだけで理解するのに十分であった。


 俺は戦慄し、覗いたことを後悔した。


 次第に視界が暗転する。

 この不安に心臓を鷲掴みにされながら、一晩を過ごすことになるのか?


 そう思うだけでもゾッとする。


 眼前に広がっていたのは廃墟であった。

 自身の記憶に不信感を募らせる。

 前述した通り俺は東京の大病院にいるはずだった。

 しかし、今いるこの病室と先の光景はその記憶とひどく矛盾している。


 よくないことだと思った。この状況で頼れるのは自分しかいない。


 精神的に不安定な今、自分さえも頼れなくなってしまえば、俺の自我は即座に崩壊することだろう。


 一瞬見たあの光景が角膜をこだまする。


 止めようとするも嫌な妄想は頭の中に溢れ出した。

 可能性が俺に囁く。


 それをかき消すように膝を神経質に揺らし、またも考え込むという負のループを何度も繰り返した。


 東京が……まさか。


 世界のありとあらゆるものから置いていかれる感覚、あの孤独感が俺の肩に憑よくのしかかった。


 落ち着きのないやつだなと思われるかもしれない。


 何をそんなに慌てるのだと呆れられるかもしれない。

 しかし、実際にコールドスリープから起きて初めて見た景色が荒廃した都市だとしたら、果たして君はどう思う?


 簡単に言えば人は俺のように狼狽する。

 コールドスリープじゃなくてもいい。


 いつものように寝て、起きてみたら自分のいるべきでない場所にいて、周囲の状況も全く違って、自分の見知った人が近くに誰もいない、そういう状況に置かれてしまったら。


 ただでさえ心細いというのに、そんな精神状況の俺にあんなものを見せられてはたまったものじゃない。


 一体どれだけの時間が流れたのだ。俺が寝ている間に何があった。

 そんな疑問が俺の頭の中をぐるぐると回る。


 何度も言うが、一つの街が廃墟と化しているのだ。

 そうなってくれば、もうなんでもありだ。そう、なんだって起きうる。


 つまり、今俺が考えているような、他人が聞けば笑って大丈夫だよと無視するような馬鹿げた妄想でさえ現実味を帯びてくるのだ。


 そもそも、一つの都市が風化することこそ、もともと馬鹿じゃないのかと笑って切り捨てられるようなことなのだから。


 どれだけそのドツボにハマったループを繰り返したであろう、その最中、遠くで誰かが廊下を歩いている音がした。


 必死に叫ぶ。不安を吐き出すように叫ぶ。

 大の男が恐怖に慄いて必死に声を荒げる姿は実に滑稽であろう。

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