第37話 潜考
数日後の『魔術座学基礎』。
「――さて、提出して頂いた課題で、皆さん予習は済ませているでしょうが――」
アトナリア先生がじろりと私を睨み付けたのは、気のせいだと思いたい。
課題、ちゃんと提出したし。さっき。期限過ぎてますよって怒られた。
「今日は魔術の基本三型の一つ、刻印型の概要について触れていこうと思います――」
確かにあの予習課題をやったはずなのに、もう何を言ってるのか分からない。ものの数分足らずで、先生の声はわたしの耳を素通りし始めた。まあいつも通りといえばいつも通りだ。
今日も外は良い天気で、窓際の定位置に座っていると温かい日差しで身体がじんわりしてくる。気分は日向ぼっこしてる猫……いや、蜥蜴かなぁ。
「――その名の通り、術式を物や紙などに刻んで発動させる刻印型。家具などを始めとして、日常生活で最もよく見られる魔術型ですが――」
右隣に座るアーシャは、背筋は伸びてるし顔も前に向けてるけど、実際ほとんど話を聞いてない。わたしの右手を、こう、左手でにぎにぎしてる。
もちろん、最初の頃はちゃんと先生の話に耳を傾けていた。あ、わたしじゃなくてアーシャのことね。でもアーシャ、部屋でもよく教本を読んだりしていたから、もう基礎的な部分は頭に入っちゃってるみたいで。少し前くらいから、講義は適当に聞き流して、わたしの手と戯れることが多くなった。
今もわたしの親指を、ぎゅっぎゅって赤ちゃんみたいに握ってる。
机の上の教科書は、わたしの物とは比べ物にならないくらい、何度も読み開いた形が付いていた。
ここがアーシャの凄いところ。
普段はわたしと同じで面倒臭がりなのに、何かこう意識が切り替わると、凄い勢いで知識を吸収していっちゃう。魔術も確か「都会は思った以上に魔術に溢れていたから、知っておいて損はないはず」って。
まあたしかに、寮の部屋に備え付けられてた家具、冷蔵庫だとか加熱器だとか、お風呂の設備だとか。連絡用にって渡された――よく分かんなかったからアーシャに預けてる――小型通信機だとか。自動車だとか、その他諸々。全部魔術の賜物だ。
わたしとしては、何がどういう原理でどうなってるのかさっぱり分からないし。仮に『魔術座学基礎』を頭に入れたところで、あの文明の利器たちの仕組みを理解できるって気もしないけど。
アーシャとしては、基礎は大事、らしい。その通りだとは思うけど、それを実践に移せるのはやっぱり凄い。わたしなんて、分かんない!使えればヨシ!だもん。
わたしの人差し指を緩く握って、爪をとんとんって叩いてるアーシャは、やればできる子なのだ。
たぶん、面倒臭がり成分はわたしのが移ったんだと思う。
昔、霊峰の集落に預けられたばっかりの頃は、もっときびきび……というか、とげとげしてたし。
頭も器量も良くて、魔法の腕もある。どこかの時期で人里に戻っていれば、きっと今頃アーシャはもっと凄い人になってたんだろうなって。王都に来て、王国の最先端を見て、改めてそう思った。
だってわたしたちの住んでた家、ここの寮とそう変わらないくらい快適だもん。アーシャの魔法のおかげで。
とまあ、そんな風に考えることはあるけど。
でもわたしは、アーシャを手放すつもりはない。で、アーシャもわたしから離れて行くつもりはないみたい。
だってほら、今度は手のひらを合わせて握ってきてるし。指を絡めるみたいに、指と指との隙間を、全部埋めるみたいに。
アーシャにこうされると、ぐでっと脱力してたわたしの指たちも、勝手にぎゅうって握り返しちゃうんだよね。条件反射ってやつなのかな。たぶん違うんだろうな。
初夏の日差しで身体は温かくなってて。そんな状態で肌と肌をくっ付け合ってたら、流石にちょっと、汗ばんできちゃう。いつもはひんやりしてることが多いアーシャの指先も、わたしの熱が移って今はしっとり、ほんのり湿ってる。
あ、汗といえば。
食べるものとか生活習慣とかが変わったりすると、それに合わせて体臭とか汗の味とかが変わることがある。って、集落を出る前にアーシャが言ってたなぁ。
今ふと、そのことを思い出したけど。別にアーシャの汗は、匂いも味も前と変わってないと思う。わたしのはどうなんだろう。あとで聞いてみよ。
指を解いたアーシャは、今度はわたしの手首の辺りを緩く握って、親指で脈を図ってるみたい。わたしの脈拍はいつも通り、のんべんだらりと穏やかさん。
穏やかといえば。
前回の騒動――『マニ×レヴィア騒動』以降、ひとまず『学院』は平穏だ。できればあんまり派手なことは起こって欲しくないような、でも何かしら起こってくれないと行動を起こしづらいような、何とも言えない状況だけど。取り合えず、次の被害者が会話できそうな具合なら、一つ聞いておきたいことがある。
あの、羽根の出所。
先日のレヴィアさんから、今回のカミの片鱗が羽根の形をしてることは分かったんだけど。話を聞いて凄くびっくりしたのが、なんとあの羽根、レヴィアさん宛てに送られてきたらしい。郵送で。もちろん、差出人は不明。
もう、ほんとにびっくりした。
だってああいうのは、神様自身が無作為に、時には目を掛けた相手に対して意図的に、授けるものだから。
いや、郵送って。
つまり、人為的な事象である可能性が高いって話。
あの力自体は間違いなく堕ちたカミの一端だけど、それを誰かが、明確な意思をもって利用してる……利用できる状態にあるっていうのは、中々起こることじゃない。
あのカミがわたしに殺されたがっているのは、そんな境遇から解放されたいから。なの、かもしれない。
まあこれは、凄く穏やかじゃない話だ。
人が神様を利用してる、だなんて。
そんなこと、あんまり起きて欲しくない。けど現状、何かしら騒動が起こってくれないと、積極的には動けない。結局、何にも手掛かりがない状態なんだから。
ままならないものだなぁ。
今のわたしにどうこうできるのは、散々好き勝手してくれたアーシャの手を、指でつつーってなぞってやるくらい。
窓越しに、空に浮かぶ雲を眺めつつ。そんなこんな考えてるうちに。講義はいつの間にか終わってた。
で、もうちょっとアーシャの手の感触を……って思ってたら。
「……イノリさん。何故貴女の教本は、最初のページから進んでいないのでしょうね?」
「うげっ」
「ほう……うげっ、ですか」
「まぁまぁまぁまぁアトナリア先生。ご主人様はごゆるりとした性格であります故――」
「アリサさん、貴女はメイドとしての責を全うする気が無いのですか?」
「おごぉっ……!」
正論ぱんち。
アリサさんは倒れた。
「……アーシャさんも。貴女自身は勤勉ですが、少しはイノリさんを叱咤する事も必要かと思いますよ」
「私はイノリの意思を尊重しますので」
正論ぱんち。
アーシャには効果がないみたいだ。
「……はぁ……」
そんな感じで今日はなんと、講義の前後両方でアトナリア先生からお叱りを受けるのでした。
ほんと、ままならないねぇ。
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