冬虫夏草

硝水

第1話

「冬虫夏草ってさ」

 値引シールの貼られた蓋を裏返し、べったりとついたタルタルソースをくまなく舐めながら夏葉冬子は言った。

「なんだって?」

「冬虫夏草ってさ」

 しわしわになった袋からおしぼりを取り出して、さっき塗ったばかりのハンドクリームをくまなく拭いながら夏葉冬子は言い直した。

「うん」

「何言おうとしたか忘れちゃった」

「ごめん」

「星君のせいじゃないよ」

 割るのに失敗した箸を短く持って、せっせと皮を剥がしたチキン南蛮を頬張りながら夏葉冬子は断った。さっきまで場を支配していた桃の香りは一気にマヨネーズに塗り潰され、僕のかきたまうどんにまで干渉してくる。

「あ、そうだ」

「うん」

 夏葉冬子はこちらが話を聞いているか確認するように、いつも発話に一拍置く。

「わたし、もうすぐ仕事辞めるんだ」

「そうなんだ」

 としか言いようがなかった。夏葉冬子は同期で、二年間隣のデスクで仕事をしたけれど、それだけだった。他の社員が外食に出かける中、お勤め品の弁当とお得用のカップ麺をつつく僕達は、暗く静まった昼休憩にこうしてこっそり話すくらいの仲でしかない。もうすぐ、がいつなのかとかなんで、とか、すぐにできそうな質問がない訳でもない。でもそんなことを訊いてどうする。そして正直興味もなかった。

「もっと寂しがってくれていいのに」

「夏葉さんだって僕が辞めても同じ反応するって」

「それは言えてる」

「否定の素振りくらい見せなよ」

「星君が言う?」

 夏葉冬子は容器の底に残ったマヨネーズも徹底的に舐めながら、壁にかかったカレンダーを眺めている。

「星君、次の鍵開け当番いつだっけ」

「二十五日」

「そっか」

 それがどうかした、は訊いてみてもよかったかもしれない。いや訊いておくべき、だったのか。


 二十五日、出社すると夏葉冬子はデスクに突っ伏して寝ていた。正確に言えば死んでいた。編笠みたいに、大きなキノコの傘が頭を覆っている。それは首の付け根から生えていて、じんわりと土の匂いがした。キャスター椅子に腰掛けたままの夏葉冬子を、椅子ごとごろごろ引きずって更衣室へ急ぐ。角に、使われていないロッカーがひとつある。刺さったままの鍵を開けて、夏葉冬子を乱暴に投げ込む。急がなければならなかったなぜなら車の音がした誰か来る。腰から半分に折って無理矢理扉を閉めて鍵をかける。土の匂いがこもらないように窓を開けて更衣室を出る。


 キノコは日に日に湿り気を帯び、夏葉冬子は乾いていった。腐るかと思ったが、疑似的にミイラのようになっているらしい。土の匂いが濃くなっていく。鍵開け当番を全部代わってもらって、毎日様子を見ているが夏葉冬子は、夏葉冬子自体はやっぱり死んでいるようだった。足を折り畳むのも楽になってきた。鍵をかけて、更衣室を出る。

「ああ星君」

「おはようございます、部長」

「おはよう。今日なんだけどね」

 部長は隣にいた人間を指し示す。なんだか見覚えのある顔だ。

「新しく入った夏葉冬子君。社内を案内してあげて」

「夏葉冬子です。よろしくお願いします」

「……よろしく」

 夏葉冬子は(夏葉冬子なのか?)、ハキハキと喋る。夏葉冬子は、夏葉冬子ではなくて、夏葉冬子ということか? 更衣室に戻って確認したい。リスクは承知で。

「じゃあ、一番近い更衣室から案内するよ」

「わかりました」

「頼んだぞ」

「はい」

 部長が去ったのを確認してから更衣室へ入る。男子更衣室は名ばかりで、誰もこの中で着替えたりしない。ただの物置だ。

「夏葉さん」

「何でしょう」

「冬虫夏草ってさ」

 夏葉冬子の目が変わった。ナメコの傘みたいにつやつやとした黒目が、はっと丸くなる。僕は確信を得た。ロッカーの鍵を開ける。飛び出す夏葉冬子の足を受け止めながら、夏葉冬子に中を見るよう促す。

「詳しくは昼休憩に。誰もいなくなるから」

「……はい」

 軽く社内を案内し、無事に新しい夏葉冬子に元夏葉冬子のデスクがあてがわれた。夏葉冬子は半額の鯖バッテラを齧り、僕は冷やし中華をはじめることにした。

「夏葉さんさ」

「はい」

「キノコ食べれる?」

「はい」

「人肉は?」

 昆布、鯖、酢飯、醤油を全部別々に味わいながら、夏葉冬子は少し思案を巡らしているようだった。

「食べてみないとわからないです」


 ふたりで意味もなく残業をし、全員が退社したのを確認してロッカーから旧夏葉冬子を引きずり出す。ほぼゼリー状のキノコの出す粘液がジャケットを濃く染める。落ちるといいんだが。車の後部座席に横たえて毛布をかける。土臭くならないといいんだが。

 運転席と助手席に乗り込んだ僕達は、とりあえず、どちらの家に行くべきか決める前に走り出した。動き回っている方が安全な気がする。ガス欠になった時のことは考えていなかったけど。信号待ちの間に盗み見た夏葉冬子の横顔は、見慣れていたようで何処か違った。夏葉冬子は唇を噛み締めたりしなかったから。

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冬虫夏草 硝水 @yata3desu

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