第92話 赤珊瑚と桃珊瑚の見た思い(10)

 赤瑚売命せきこのみことが弓から太刀に持ちかえる。伏せる火の神にゆっくりと近づくと、その背を切りつける。血が太刀を染めていく。


「私が唯一、ユウナミの神を守れなかったこと。それは、お前が生まれたことだ。お前が、ユウナミの神を消失の淵に追いやり、苦しみを与え、恥を与えたのだ。お前が生まれなければ、あれほど苦しむことはなかったのだ。たとえ、親殺しの罪を逃れようとも、私はお前を許しはしない」


 赤瑚売命は火の神を切りつけていく。あたりに血が飛び散る。


「お前には分かるまい。愛するもの、大切なもの、守るべきものが目の前で苦しむ姿を見せつけられることが。何もできず、守ることができないことが、どれほど辛く苦しいことか」


 赤い瞳に血に染まる火の神が映る。太刀を振り上げたその瞬間、赤瑚売命の腕に凄まじく、それで静かな切りつける空気が走った。


(……!?)


 動きを止め、地面に伏し、小さく息をする火の神を見つめる。

  




 火の神は痛みのために意識が薄れていく。それは身体を切り刻まれる痛みだけではなく、赤瑚売命の言葉が刃となり火の神の御霊を傷つけていった。身体の痛みより深く、鋭く、痛みは火の神を襲った。


 地べたにひれ伏し、動けぬ身体。微かに開く目に、小さな華が見えた。白い綿毛を纏った華。


 あの夜が思い浮かぶ。





……暗い月のない静かな夜。


 男の子が泣いている。辛く、苦しく、寂しく、恥ずかしく、何も分からず泣いている。


「やれやれ。よう泣きよるの。儂の所までよく聞こえて、眠れぬわ。散歩のつもりで来てみたのじゃが」


 女の子が声をかける。白い着物に水色の帯。腰まである長い髪にクリッとした大きな瞳。髪飾りに咲く桜の華びらが、風に舞っていた。その姿は、可愛らしくもあり、美しくもあった。男の子は女の子を見ると、安堵した顔を見せた。


「何を泣くのかのう。ほれ、こんなに立派な社に迎えられ、人に大切にされておるのに。お主が泣いておったのでは、氏子も困るであろう。まあ、せっかく来たのじゃ。火の神、遊ぼうぞ」


 女の子は、火の神の手を持ち、社内を駆け回った。火の神はこの僅かな時間が幸せであった。どんなに辛い神々の仕打ちでさえ、この僅かな時間があれば、耐えることもできた。


「おう、火の神。ここに来てみ」


 女の子が呼ぶ。女の子は小さな黄色い華の前にかがんでいる。火の神はその華を見た。


「この華、ここにもおったか。儂のところには、沢山咲いておる。めんこいのう。小さいのう」


 女の子が愛でるその華は、小さな細い黄色の華びらをいくつも纏い、細い茎を懸命に延ばし小さくしっかりと咲いていた。


「これは、タンポポじゃ。儂はこの華が好きじゃ。こやつはやがて、綿のような種をつけ、その種は風に運ばれ見知らぬ地へとたどり着き、そこで華を咲かせる。のう、この華、儂らと似ておらぬか。お主も儂も分霊となり見知らぬ地に来たもの同士じゃ。迎えられたからには、この地の人を守らねばならぬ。お主がこの地を守るのじゃ。ここで咲くのじゃ」


 女の子は、青みがかった瞳で火の神を見つめた。優しく、可愛らしい笑顔で包み込む。


「お前はこの華が好きなのか」


 火の神は女の子に問う。女の子は華を見つめ、優しく頷く。


「華はみな好きじゃ。なかでもこの華は、愛おしいの。小さくて、健気で、元気じゃ。この華を見るとなぜかお主を思い浮かべる。どんな環境でも強く根を張るところがの。いまは泣き虫じゃがな」


 火の神は、地べたに咲くタンポポを眺めようとした。女の子はそんな火の神を抱きしめた。そして優しく撫でた。


「泣くでない。儂はお主に感謝しておる。お主が生まれ、ユウナミの神を助けたいという母さの思いから、姉さが生まれた。その姉さの妹として儂は生まれた。お主が生まれなければ、儂は生まれなかったのじゃ。儂は姉さの妹として生まれたこと、嬉しく思うておる。じゃから、分霊とはいえ、お主が背負うたもの。儂も背負おうぞ。儂が人を助けたのなら、それはお主が助けたも同じじゃ」


 火の神は女の子を胸の中で、その顔を見上げた。優しい瞳に見つめられ、青く光り輝く美しい姿に包まれた。悲しみは薄れて消えた。


 その瞳は、人を助け、神をも助ける。けして曇らせてはならない。


(この華を守れば、水波野菜乃女神妹みずはのめかみいもは喜ぶだろうか)


 火の神に初めて強い思いが芽生えた……



 

 赤瑚売命が太刀を構え、沈みゆく火の神を見つめる。


(分からぬ。なぜ、怒らぬ。なぜ、カムナ=ニギの剣を使わぬ)



 火の神は地に伏したまま、目を開けた。


 震える手で地面に咲く華を撫でる。


(あいつを悲しませてはならぬ。あいつは、人を助け、神を助ける神。守るべきものを守る。そのためなら、たとえ業を背負うとも。最後の時は、陽向、お前も連れて行く)


 火の神の身体が白い光に包まれた。

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