第6話
「その辺座ってていいよ。」
どうしてこうなったのだろう。私は今なぜか、高瀬さんの家にいる。教室を出た途端立ち止まったまま動けなくなってしまった私の手を徐に引っ張って、彼女は校門を出た。え、どこに行くの。なんて私の問いには答えないまま、着いたのはお世辞にも綺麗とは言えないアパートだった。
近くの椅子に腰かけながら、狭いキッチンで手を洗い始めた高瀬さんを眺める。
「私のお母さん、小さい頃に亡くなったの。」
ひとりごとのように高瀬さんが話し始める。話の傍ら慣れた手つきで卵を割ってボウルに入れる。
「それからご飯の担当は私になった。お父さんは仕事で忙しいし。お金もないから、大学に行くには絶対に無利子の奨学金を貰わなきゃいけない。」
休み時間、勉強している高瀬さんの横顔が思い浮かぶ。『ああはなりたくないけどね。』なんて、その人が好きでその行動をしているとどうして決めつけられるんだろう。笑って相槌を打ってしまった自分が情けなくて仕方ない。
「妹がいるんだけど妹にはほとんど母の記憶がないの。だから絶対に寂しい思いはさせたくなくて。」
何でもない事のように淡々と事実を語る。その間にも彼女の手はシャカシャカと動き続けていた。卵を混ぜて、そこにマヨネーズとしょうゆ、そしておもむろに白い何かを掴んで投入する。
ねえねえ、と彼女が急にこちらを振り向く。
「卵焼きはね、マヨネーズを入れるだけで全然変わるんだよ。」
「・・・今の、白いのは何入れたの?」
「これはしらず。美味しいの。」
しらすを卵焼きに入れる、そんなの見たことなかった。菜箸がボウルに定期的に当たる音が小気味よくて、よく聞く卵に空気を入れるというのはこういう事なんだなあ、とぼーっと思った。
「わたしはしらすが一番好きで、お父さんはわかめが好きなの。生のじゃなくてご飯に混ぜ込む味がついてるやつね。あと、妹は明太子。」
お母さんはなんてもアレンジしちゃう人だったんだ、なんて言いながら彼女は少し呆れたように笑う。さっきまでの平坦だった声色とはうって変わって、その節々からお母さんへの愛しさが溢れていた。
「こーーんなにでっかいおにぎりをつくって中にシュウマイとかウインナーとか入れて見たり。おでんの残りのちくわが入ってることもあった。あと外れはゆでたまご。お腹破裂するかと思ったもん。」
ジェスチャーをしながら高瀬さんはクスクスと笑う。びっくりおにぎりって呼んでたの、なんて言うから私も思わず頬が緩んでしまった。びっくりおにぎり。口にしたことなんてないはずなのになんだか口馴染みが良くて、心の中で繰り返す。気付けば私は椅子を立って、彼女が揺らすフライパンを覗き込んでいた。
いつの間にかふわふわの卵焼きを作り終えていた高瀬さんは、油を敷いて今度はウインナーを投入した。ジャーっという音と、香ばしい香り。胃が反応したのが分かった。
「タコさんウインナーってあるでしょ。うちにはね、カニさんウインナーもあったの。」
「どれ?」
「これ。」
箸で刺された場所を見れば、そこにいたのはただの半分に切られた薄っぺらいウインナーだった。どの辺がカニ?なんて心の中で思っていれば、火が通ってくにつれて切れ目が開いて、同時に私の目も開く。うわ、ほんとだ、カニだ。
「すごい。タコさんウインナーも焼く前はあんまりタコじゃないんだね。」
「そうなの。火が通るとどんどんタコらしくなるのよね。」
炒めたウインナーを取り出して、左手に持った箸でウインナーを抑えながら右手に持ったつまようじで器用に穴を二つ作る。そこに、黒ゴマをはめ込んでタコとカニに目が付いた。
「小さい頃遠足の時にね、一回だけお母さんがゴマの目をつけ忘れたことがあったんだ。私それがすっごいショックで、お弁当開いた瞬間に号泣しちゃってさ。」
「高瀬さんが?号泣?・・・想像できない。」
「私だって号泣くらいするよ。」
心外、という風に彼女が頬を膨らます。会ったこともない小さい頃の高瀬さんを想像する。お母さんのお弁当作りを楽しそうに眺めている、エプロンを引っ張ってお母さんが料理するフライパンを覗き込んでいる。そんなシーンが浮かんだ。
卵焼きやタコさんカニさんウインナー、可愛らしいピンにミートボールとうずらを差したお団子、レタスとトマト、ほかほかのご飯にゆかりが掛けられて、真ん中には梅干しが載った。
きゅるるる、とお腹が音を立てる。
「これが、素直になれるお弁当。」
「素直になれるお弁当?」
「そう、素直になれるお弁当。」
同じ言葉を繰り返して、高瀬さんは少し視線を下げて笑った。
「私と弟が喧嘩した時、その日のお昼ご飯はお弁当になるの。色違いのお弁当箱が並んでテーブルに置いてあって、隣り合って一緒に食べるんだ。それがね、仲直りの合図なの。さっきまで絶対に謝るもんかって意固地になってたはずなのに、ごめんねって、なんだかすぐに言えちゃうんだ。」
『素直になれるお弁当』
小さな声で口に出してみる。
そうだ、と徐に高瀬さんが冷蔵庫へと向かう。中から取り出したのは少し大きめのタッパーで、まだ残ってた、と嬉しそうにふたを開けた。
中にはハンバーグらしきものが2つ入っていて、けれど思わず首を傾げた。ハンバーグの形をているんだけど普段家で食べるものとは全く違っていてなんだか香りも違う。私の疑問を感じ取ったのか高瀬さんがハンバーグを箸で割って、中身を見せた。
「・・・キャベツ?」
「そう、キャベツ。」
「ハンバーグにキャベツって入ってたっけ?」
「基本的には入ってないと思うけど。これはね、元々ロールキャベツ。」
ああ、たしかに。これはロールキャベツの香りだ。ケチャップとコンソメが混じったなんだか少し甘い匂い。ロールキャベツをハンバーグになんて、初めて聞いた。
「私、昔からこだわりが強い子だったの。」
「それは想像できる。」
「間髪入れずに答えないでよ。」
高瀬さんのお父さんはお母さんが作るロールキャベツが大好物だったそうだ。元々は煮崩れ防止につまようじをさして煮ていたのだが、高瀬さんは何故がそれが気に入らなくて。
「嫌だったんだよね、つまようじが刺さってるのが。なんでかは今でも分からないんだけど。理由は説明できないけどすっごく嫌で、説明できない自分も苦しかった。」
苦しかった、そう語る高瀬さんの横顔を見ながら、頭には裕翔の顔が浮かんだ。こだわりがあって、それを崩されると癇癪を起してしまう。そうだ、そんな彼はいつも苦しそうなのだ。自分でも自分を制御できなくて苦しんでいる。説明できない自分に苦しんでいる。裕翔自身が一番辛い事を、私は分かっているはずなのに。
「たくさんタネを作って詰めて煮れば型崩れしないっておばあちゃんに聞いたんだって。だからね、一度にたくさん作るの。4人家族なのに一度に20個分くらい。そのおかげでつまようじ無しでも型崩れしなくなったんだけど、その分余っちゃうんだよね。」
その様子を思い出してか、ふふ、と高瀬さんが笑う。
「その余ったロールキャベツで、よくお母さんが作ってくれたのがこの煮込みハンバーグなの。笑顔になれるハンバーグ、なんて言って。」
笑顔になれるハンバーグ。小さな声で繰り返す。
全部、ひねりのないネーミングでしょ。そう言って高瀬さんは私の方を見て小さな子供の用に笑った。
「でも、私はそれも含めてお母さんの料理が大好きだったんだ。」
胸が苦しかった。でもそれは、さっきまでの苦しみとは違った。完成したお弁当箱に蓋をして、そしてタッパーに入ったままのハンバーグを高瀬さんは袋に包んでくれ、徐に私に差し出した。温かくて、いい匂いがして、またお腹が音を立てた。
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