第五話 鬼新娘〈4〉

 


 §


 四二二四号室。

 その扉の前に立った瞬間に、ユーリンは悟った。ああ――ここにいるんだ、と。

 同時にこの部屋は危ない、入ってはだめだ、と自分の内なる声が警鐘を鳴らし始めた。

 なんの変哲もない錆びた鉄の扉からは、しかし血の匂いと凍てつく瘴気が滲み出てくるかのようで。一切の侵入者を拒むかのような威圧感と、それでいて、中に入ってしまえ、こちら側に来い、とでも囁きかけるかのような不可思議な引力が働いている。

「二人とも、墨壺を。いいですか、霊力の強い幽鬼は魂だけの存在といえど、こちらに触れて祟りをなすことのできる強い力を持つものです。でも、裏を返せば、それはこちらからも接近が可能であるということ。霊力を込めた呪符や墨壺による攻撃が効く、ということです」

 グウェンの説明に雪蓮が頷き、ユーリンは黙ってそれを聞いている。

「部屋に踏み込めば、自らの領域を犯されたと思い、幽鬼は襲い掛かってくるでしょう。それを逃がさず叩くのですよ。二人の連携が鍵となる筈です」

「……わかりました。雪蓮、準備は」

「はい。いつでもいけますわ」

 雪蓮が真剣な表情で一歩前に踏み出す。ユーリンはそれを見届けると、扉に手を掛け、そっと押し開いていく。半ばまで扉を押せば、あとは重みで勝手に扉が開かれていく。

 果たして、四二二四室は――血溜まりと返り血で床も壁も赤黒く塗りたくられていた。

 一歩足を踏み入れれば、粘つく血肉が靴の裏に張り付き、血の筋を描く。

 あまりにも陰惨な光景に、息を呑もうとしても唾すら湧かず、ユーリンは小さくえずく。

 部屋の真ん中では真っ白だった服を血で汚した男児が蹲り「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、媽媽」と啜り泣いている。

 そして、その頭上には――縊死した女の屍が吊り下がっていた。誰にやられたのか、腹が割かれ、腸が零れ落ち、股ぐらからは夥しい量の血が流れ続けている。

「ユーリン、しっかり……!」

 誰かに揺さぶられ――雪蓮だ――ユーリンは、はっと我に返る。

 血溜まりは全て消え去り、男児の姿も女の死体もなくなっている。部屋には朽ちた机や箪笥といった備え付けの家具が残るばかりである。

 ……瘴気に当てられ、幻を見せられていた。あるいは過去視か。

「私としたことが」

 今度こそ目を開いて、前を見る。現実の姿を。

 黒い煙を滲ませて、瘴気の塊が女の姿を取り、四つん這いでテーブルの上に着地する。一方、水に黒い絵の具を溶かしたような尾を引いて、小さな子供の怨霊が形を取って立ち上がる。

 両者が同時に首をこちらに傾け、ぎらりと光る黒い眼をユーリン達に向けてきた。

「……きますわ」

「雪蓮は子どもの幽鬼を! 私は女を――来るぞ!」

 ユーリンと雪蓮は共に墨壺を構え、顕現した怨霊を迎え撃つ。

 壁を、天上を。縦横無尽に這いまわり、長い髪を振り乱した怨霊がユーリンに襲い掛かる。

「GRRRRR……!」

 飛僵化した凶腕で女を薙ぎ払う――が、腕をすり抜け、怨霊はジグザグと出鱈目な軌跡を描き、再び四肢で壁へとへばりつく。

「僵尸とはッ、勝手が違う、なッ!」

 一方で、雪蓮が墨壺を手繰り、男児の幽鬼を拘束せんと黒縄を張り巡らせる。

「遊ぼう、遊ぼう、遊ぼうよ!」

 白目のない真っ黒な眼を剥き、男児の幽霊が飛び込んでくる。

「……ッ、急急如律令!」

 びぃん、と黒縄を弾き、雪蓮の一撃が幽鬼に命中する。その場で男児の幽鬼は霧散し、今度は雪蓮の背後で再び人の形をとった。

「くっ――!」

 ぐるり、と足運びを変えた雪蓮の掌が襲いくる幽鬼の胸を打ち据える。

 くすくすという笑い声を漏らしながら、子どもの幽鬼は再び霧散し、天上に張り付いた。

 後退し、雪蓮と背中合わせになったユーリンが墨壺を構えながら彼女を呼ぶ。

「きりがないね。まだいける?」

「はい。でも……いったいどうすれば」

 互いの獲物を入れ替え、黒縄を手繰り、呪符を飛ばしながら二人は短く言葉を交わす。

 ユーリンが武術で男児の幽鬼を追い詰めれば、雪蓮の手繰る墨壺が女の怨霊を絡め取る。

 二人は回転し、ユーリンが力で怨霊を抑え込み、宙に放ったもうひとつの墨壺を雪蓮が受け取り、素早く糸を張り巡らせる。しかし、追い詰めるたびに幽鬼は霧散し、また別の場所に姿を現す。これでは堂々巡り、それどころかじわじわとこちらが消耗していくだけである。

 ユーリンは思わずグウェンの方を振り返りそうになるのを堪え、自問自答する。

 先生は前になんと言っていた?

 霊力が必要なだけで、概ねは僵尸退治と同じ――。

 たしか、そう言った筈だ。

 僵尸と同じ。ならば、私はいつも僵尸をどうしている?

「ユーリン、墨壺の糸が切れそう……こちらはもう持ちませんわ……!」

「……なにも、力で倒すだけじゃない。呪符で動きを止めてからとどめを刺す……そうか! 雪蓮、こちらを頼む!」

 ユーリンは再び彼女と入れ替わり、男児の怨霊へと向かい、九字を切る。

「――先生、八卦鏡をこちらに向けてください!」

 ユーリンがみなまで言い終える前に、グウェンは八角形の鏡をかざしていた。

「急急如律令」

 祈って呪符を貼り付けると、男児の幽鬼を鏡に向かって勢いよく蹴りつける。そう、こうして霊力さえ込めれば物理攻撃だって通るのだ。

「八卦鏡、怨霊を封印せよ――!」

  ユーリンの力と呪符の加護によって押し流された幽鬼が鏡に吸い込まれ、中から鏡面を叩く姿が鏡越しに映し出される。

「倒せないのなら封じてしまうまでだ。そうでしょう? 先生!」

「概ねはそれで正解、かな。さあ、まだ一体残っていますよ」

 出口を守る形で密かに立ちはだかり、雪蓮とユーリンを庇っていたグウェンが頷く。

「雪蓮!」

 手繰った糸で女の怨霊を束縛し、必死に持ちこたえていた雪蓮が反応する。彼女に加勢し、反対側から糸を引き絞って怨霊の動きを止める。

 ユーリンが目で合図をすれば、雪蓮が頷き返す。そして、二人は共に唱えた。

『急急如律令!』

 雷撃の如き青い光が糸を伝って迸り、雪蓮とユーリン、二人分の霊力による攻撃が炸裂する。

「殺ァァァァァァァァァァァァァァ!?」

 瘴気を撒き散らしながら、怨霊が束縛から逃れんと必死に暴れる。

「無駄ですわ……! ユーリン、グウェン様――今です!」

 ユーリンが九字を切り、護符と共に拳を叩き込む。女の怨霊は一際高い叫び声を上げながら、グウェンが掲げた八卦鏡に吸い込まれていった。

 後には二人分の荒い息遣いが響くのみ。

 邪気は消え去り、部屋に巣食っていた闇がほんの僅かに薄まった気がした。おそらく、ここにはもう幽鬼はいない。安心感から、ユーリンは「ふーっ」と大きく息を吐いた。

「終わった……よね?」

「……そう思いたいのですが……」

 ユーリンと雪蓮は顔を見合わせる。すると、堪えていた恐怖や緊張感が少しずつ溢れ、笑い声に変わって二人の唇から漏れ出した。

「あはは、もうだめ! すごく怖かった」

「くふ、ふ……わたしも。幽霊退治なんて、初めてですもの」

 極度の恐怖や不安は、それが緩んだ時、奇妙な笑いをもたらすことがある。しばしの間、二人してころころと笑い合う。

 娘たちが落ち付く頃合いを見計らっていたのか、黙っていたグウェンがようやく口を開いた。

「二人とも。よくやったとはいえ……気を抜いていてはいけませんよ? 封印したモノを確認しなくてどうするのです」

 グウェンは八卦鏡を掲げてみせ、検めるよう促した。ユーリンと雪蓮は師の元まで戻り、鏡を覗き込んだ。鏡面には厳重に呪符が貼り付けられており、中に封じ込めた怨霊たちが外に出られぬよう二重に封が施されていた。グウェンの方もただ見物していたわけではないようだ。

「幽鬼との戦い方を学んで、初心にかえることができました。最初は、その……てっきり先生が無茶なことを言っていると少しだけ呆れていたのですが……」

「ひどいなぁ。僕だってしっかり指導方針を考えた上でこうした場所を選んでいるんですよ?」

「そ、それは、ちゃんと分かりましたって! 鏡、私が持ちます」

「くれぐれも落とさぬようお願いしますよ。では、今夜はこれで帰りましょうか」

 雪蓮とグウェンが踵を返し、ユーリンも後に続こうとした――その時だった。

 ひどく冷たい切っ先が、ユーリンの首に突きつけられていた。

 気を抜いていたわけではない。ただ、相手の方が何倍も上手だっただけだ。

「こんばんはァ、ユーリン。ちょっとは元気そうで安心したよ。髪型を変えたのは火傷痕を隠すためかい? そんなにおれの弟のことが愛しいだんて、さすがに少し妬けちゃうね」

 闇の中でもなお炯々と輝く赤橙色の瞳が、ユーリンを間近から見下ろしていた。ぞっとするような官能的な美貌を笑みで歪ませ、外法道士ジーンがユーリンを背後から捕まえていた。

「ジーン、貴様ッ……ユーリンから離れろ」

 グウェンが佩いていた刀を抜いて、ジーンに対峙する。雪蓮が気遣わしげな視線をこちらへ向けながらも同様に構えている。

 咄嗟に逃れようともがけば、凄まじい力が籠もった腕で締めつけられ、完全に動きを封じられる。胸が苦しい。今にも息の根を止められてしまいそうだ。

「おっと。残念だけど、今夜おまえたちに用はないんだ。あるのはこっち――修練だか何だか知らないけれど、幽鬼退治だなんて、手間が省けて良かったよ」

 黒き刃を喉元に突きつけながら、ジーンはユーリンが懸命に抱えていた八卦鏡をもぎ取った。

「なにをするッ! その鏡は幽鬼を封じた危険な――」

「分かっているよ、ユーリン。だからこそ欲しいんだ」

 ジーンは抱え込んだユーリンの髪に鼻先を埋め、耳を柔らかく舐った。ユーリンが短く悲鳴を上げて悶える。

「こうしているとさ、思い出すよねぇ? おれときみと――ふたりきりで過ごした幾日もの昼と夜を、ね。ユーリン、きみだって、無くした胎が疼くでしょう?」

 するりと下腹部に手指を這わせれば、いきりたったユーリンが腕の中で低く唸り声を上げる。だが、ジーンの双眸は憎悪の視線を向けるグウェンへと真っ直ぐに注がれている。

「……クク。たまんないねぇ、その顔。ほら、おまえの可愛いお人形は返してやるよ」

 グウェンに向かってユーリンを突きとばし、ジーンは窓枠へと飛び乗った。

「パブリックガーデンにきてごらんよ。今夜の主菜メインディッシュがたんと味わえるからさぁ。それじゃあね。ばいばい、グウェン」

 ジーンは窓の外へ飛び降り、ふわりと宙を舞うと、あっという間に闇の中へ姿を消した。

 その挙動に最後まで意識を集中させていたグウェンが、短い苦鳴のような息を漏らした。

「……つけられていたか。迂闊でした。ユーリン、立てますか?」

「はい。……私は平気です」

 奴に触れられたあの感覚。腹の奥底にざらりとした嫌悪感がまだ蟠ったままだが、今はそのようなことを気にしている場合ではない。

 短く返事をすると、ユーリンはグウェンの様子を窺った。しかし、グウェンの表情には不意をつかれた苦味こそ残るものの、それ以外の感情がよぎることはなかった。

 ……グウェンはとっくに覚悟をきめていたのだ。魔都に戻ってから、一人きりで。

 だからこそ、今ここで足を引っ張るわけにはいかなかった。

「奴はパブリックガーデンで何か騒動を起こす気のようですね。僕はそちらへ向かいます。二人は義荘へ戻って体を休めていてください」

 毅然とした態度でそう言って、グウェンは踵を返そうとする。

 ユーリンは彼の行く手を遮る形で立ちはだかった。その後に雪蓮も続いた。

「先生、私も行きます。止めても無駄ですよ。お前のことを重荷とは思わない、そう言ったのは先生です。それに、私はどんな時も傍にいると約束しました」

「わたしも一緒に向かいますわ。真夜中と言えど、人が多く集まる場所ですもの。こちらも人数を減らすわけには行かないでしょう。……それに、わたしだって戦えますもの」

 ユーリンと雪蓮。二人の意志が固いと見るや、グウェンは真剣な顔で頷いた。

「……すまない、二人とも。僕に力を貸してくださいますか」

「すまない、ではありませんわ」

「雪蓮の言う通りだ。お願いしますとか命令だとか言えばいいんですよ。先生は」

 ユーリンが差し伸べた手を、グウェンが握る。いつかとは逆だ。

 ユーリンは僅かに頬を綻ばせた。そんな場合ではないのは分かる。けれど、わずかな変化がいつだって勇気をくれるのだ。

 一行はパブリックガーデンを目指して走り出した。



 第五話 了

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