第五話 鬼新娘〈3〉

 

 §


 真夜半の上海城内、法大馬路。

 治安の悪い裏通りを抜け、辿りついたのは一軒の古い洋館。

 ルオシーの「誰も近づかない」という言葉通り、目的地に近づくに従い人影は減り続け、ついには人の気配すらなくなった。今では鬼灯色の欠けた月だけが一行を見下ろすばかりだ。

「……それでは中に入りますけど、本当の本当に私でも大丈夫なんですね?」

「それはユーリン次第ですよ。僕はあくまで見物の立場でついてきているだけですから」

「ユーリンが困ったら、わたしが助けますわ」

 グウェンの後ろから雪蓮が身を乗り出し、ユーリンの両手を握る。

 雪蓮はいつもの旗袍姿ではなく、ユーリンたちと同様に装備を整えた戦闘仕様の姿だった。極めて丈の短い洋袴にタイツ、そして編み上げ靴という出で立ちは、なんだか無性に扇情的だ。ユーリンが恥ずかしがる必要など何処にもないが、何故か胸の高鳴りと羞恥を覚えてしまう。

 ひょっとするとグウェンは何も知らない雪蓮にわざとこの格好を勧めたのかもしれない。変態的だが、称賛に値する行為だと思われた。

「わたしも強くなりたいのです。どうかご一緒させてくださいませ」

「それは……うれしいけど、正直あまり危ないことはして欲しくないな」

「まあ。ユーリンったら、レッド・ダリアでのわたしを忘れてしまいましたの? わたしも戦えるんですのよ」

 ぷう、と薔薇色の頬を膨らませる雪蓮は十二分に可憐で、ユーリンとしてはやはり彼女を戦場に立たせたくない思いの方が強かった。たとえ雪蓮の本性が人造僵尸だとしてもだ。

「わかった。でもあまり無理をしてはだめだよ?」

 雪蓮が淡く微笑みを返すのを見届けて、ユーリンは洋館の扉をゆっくりと押し開いた。

 ぎぃぃっ、と軋みながら扉が開く。朽ち果てたエントランスホールの闇が一行を迎え入れた。

「……黴臭いな」

 辺りを警戒しながら足を踏み入れる。館は家具や調度品を置き去りにしたままで打ち捨てられていた。それらは放置されていた年月の分だけ埃を被り、主の帰還を待ち侘びていた。ただ、この様子からして家主が今も生きているとは到底思えなかったが。

「ユーリン。今、そこで何か動きましたわ」

 視線をやれば大きな鼠が壁際をちょろちょろと走り回っている。内心でほっと息を吐き、後方の雪蓮に目で合図して歩を進める。まずは階段を使って二階へ上がらなくてはならない。三人とも夜目が利くから、明かりの必要はなかった。

 階段は古く、一段また一段と上る度にぎしぎしと足元が軋むのが気に掛かる。幸い腐ってはいないようだが、自ら進んで余計な物音を立てたくはない。

 もっとも、僵尸が相手ならともかく、幽鬼の場合は音など関係ないのかもしれないが。

「……少し、寒気がしますわね」

「私もだ」

 偶然というわけではあるまい――。

 雪蓮が言うように、洋館の中は外気よりも数段温度が低く感じられ、体の芯から冷えていく気さえした。

 ……もし、これがここに巣食う幽鬼の仕業だとしたら。

 怖いわけではない。しかし、気を引き締めてかからねばならないことは確かだろう。そう、僵尸の時と同じようにだ。

 二階からは本格的な住居部分となっており、二一〇一、二一〇二……といった具合に扉毎に表札が取り付けられていた。

「今のところ、おかしな感じはしないけれど……一部屋ずつ見て行こうか。階段部分が中心でちょうど四角形になっているから、順番に見て行けばどこかで合流できるな。雪蓮は先生と見回ってきてくれ」

「気をつけてくださいましね」

「……あ、ユーリン。君の肩に女性の手が乗っかって」

「今夜はそういうの禁止です!」

 グウェンの言葉を遮って黙らせ、踵を返す。背後で「弟子が冷たい」というグウェンとそれを宥める雪蓮の会話が聴こえたが、無視して進む。

 ユーリンはさっそく一部屋目の扉を開けた。

 ……なにもいない。備え付けらしき机と椅子が残されているのみだ。部屋に不審な点がないことを確認して次へと移る。

 二部屋向こうでは雪蓮とグウェンも同様に部屋の検分を終え、次に取り掛かろうとしている。この調子で行けば四階まで全て見回っても半刻あれば足りる筈だ。

 次の部屋も同様で、やはり異常は見られない。ユーリンは己の感覚を研ぎ澄ませながら次々と扉を開けていった。そうして、自分の持ち分が半分を過ぎた頃だった。

 ……やはり、この部屋も何もいないだろう。霊力を働かせながら扉を開ける。部屋番号は二四四二。しかし、扉を開けた途端に小さな白い影が飛び出してきた。それはユーリンの腰丈ほどの身長の男児であった。

「ちょっと、君!? どこへ……」

 ユーリンの声など聞こえていないかのように子どもは走り去り、やがて、かんかんかん……と階段を上っていく足音が響いてくる。

 上の階へ行ったのだろうか?

 でも、あんな子どもが深夜にひとりでうろつくのは明らかにおかしい。

 気を取り直して、部屋に足を踏み入れた瞬間――血まみれの壁床が目に入り、ユーリンは「あっ」と叫んでその場に釘付けになった。

 嗅ぎ慣れた血肉の咽かえるような匂いに、思考が甘く蕩けそうになる。

 ……だめだ。飲み込まれては。

 異界に傾きかけた意識を必死に揺り起こし、ユーリンは再び眼前の光景に集中すべく目を開く――しかし。

「え……? 何も……ない?」

 再び部屋を見渡せば、血溜まりはおろか血の一滴すらも付着していない壁床が広がるばかりであった。他の部屋と同様、ろくに人が暮らしている形跡もない。

 ……どうなっている?

 幻でも見ていた、あるいは見せられていたとでもいうのだろうか?

「そうだ、あの子!」

 ここの住人ではないとすれば、現時点で絶対的に怪しいのはあの男児だ。

 ユーリンは踵を返すと、慌てて子どもを追いかけ始めた――途端、

「ユーリン!」

「あいたっ」

 扉の向こうから飛び出してきた影と衝突し、尻もちをついた。

「雪蓮……意外と石頭、なんだね……」

「ごめんなさい。声が聞こえたものだから、何かあったのだと慌てて走ってきたのですが……」

 雪蓮は少々困惑した様子でユーリンと開け放たれたままの二四四二号室を見比べている。

「そうだ、小さい子を見なかった? さっきそちらへ走って行ったんだけれど」

「子ども、ですか……? 気づきませんでしたわ。グウェン様は?」

「見ていませんね。ユーリン、何が――君、その手はどうしたのですか?」

 どうせ今度も悪戯だろう――そう思ったが、グウェンの顔は真剣で、少し強張ってもいる。視線が注がれた先、自分の両手を見て、ユーリンもぎょっとした。

「……血だらけだ」

「怪我をしたんですの!?」

 雪蓮が慌てた様子で駆け寄るが、ユーリン自身に覚えはない。自分で矯めつ眇めつ点検しても、傷はどこにも見当たらない。床にも汚れなどはなく、転んだ拍子についたものでもないようだった。

「怪我はないよ……だけど、さすがにちょっと気味が悪くなってきた」

 夜族――飛僵である自分が幽鬼を怖がるなんて、あるまじきことだ。もちろん自ら望んで僵尸化したのではないにしろ、なんだか無性に気恥ずかしいうえ、情けなくもある。こうなれば、早くルオシーの言う「殺された女の怨霊」とやらを退治して示さなければならない。

 示す――何を示す?

 ……無論、自分が弱虫ではないことをだ。


 §


「……誰も、いませんわね?」

 ユーリンは雪蓮たちに自分が二四四二号室で見たものについて話して聞かせた。相談の末、例の子ども追って上階へ進むことを決め、一行は建物の三階へと足を踏み入れていた。

「私が見た子どもの姿はないみたいだ」

 二階と同様、三階も住戸として番号のついた個室が階段を囲む形で並んでいる。

 しかし、ユーリンが遭遇した子どもの姿は見当たらず、先ほどと同様に一部屋ずつ見回ろうと決めた時だった。遠くで鈴の音が響いた。

「今の……聞こえた?」

「はい。確かに帝鐘の音色でしたわ」

 グウェンだけは既に闇の奥に瞳を凝らしている。ユーリンたちもその視線を追って、廊下の奥の暗がりに目をやった。

 闇が、濃くなった気がして――再び鈴の音。

 ……ざわり、と。彼らを目にした瞬間、全身の毛が逆立つような気がした。

 古い袈裟を着た僧正が、帝鐘を鳴らしながら姿を現した。背後に、異貌の者共を引き連れて。

「ひっ……」と雪蓮が悲鳴を漏らす寸前の口元を、グウェンがやさしく手で塞ぐ。

「二人とも、なるべく息を殺して。あれが通り過ぎるまで、目を合わせてはいけませんよ」

 素早くそう言うと、雪蓮を支えたままでグウェンが紺碧の瞳――浄眼を閉じた。その腕の中で雪蓮が頷く。

 ただごとではない。グウェンの言葉によってではなく、眼の前のそれを見た瞬間に悟った。

 黒僧正が引き連れた異貌の者たちは、みな異様に上背が高く、屋内にも関わらず唐傘をさしていた。傘の下に覗く体は、紫や紺に赤色の布でもって装飾が施された死装束を纏っている。

 ざり、ざり、ざり、ざり、ざり。

 ざり、ざり、ざり、ざり、ざり。

 ざり、ざり、ざり、ざり、ざり。

 ざり、ざり、ざり、ざり、ざり。

 引き摺るような足音をたてて、彼らが近づいてくる。廊下の幅に沿って、きれいに五名が並んでいる。ユーリンも壁の方へ必死に視線を逸らし、息を殺した。

 あれは、だめだ――。彼らは、けして相手にしてはいけない者たちだ。

 あの世とこの世の狭間の存在。そんな言葉が脳裏をよぎる。

 頬を掠めるようにして通り過ぎる死装束は、ひどい腐臭と血肉の匂いを含んでいた。

 ……そのまま、どれくらい時間が経っただろうか。

「もういいですよ。彼らは去ったようだ」

 雪蓮を解放し、グウェンが自らもほっと息を吐く。冷や汗が一筋その頬を伝い落ちたのを見とめ、ユーリンはあらためて背筋がぞっとするのを感じ取った。

「なんだったんですか、さっきの……」

「あれが何か上手くは説明できないんですけど、ね。でも、二人も分かったでしょう? あれに手を出してはいけないってことが。こういう場所には、時折彼らのような者たちが彷徨っているんです」

「その……あれは幽鬼とは違うのですか?」

「……そうですね。あれはもう、幽霊とはいえない別次元のもの、ですね」

 グウェンが肩を竦める。ユーリンも雪蓮もそれ以上何も聞けず、ただ押し黙るのみである。

「さて、どうします? あれが現れた以上、この階に何者かがいたとしても今夜はもうなりを潜めてしまうでしょうし、一気に四階へ行ってしまいましょうか?」

「先生、気を取り直すの早いですよ」

「霊幻道士には、こういう切り替えの速さが肝心なのですよ?」

 師の豪胆さに呆れながらも、ユーリンは最上階――四階へと向かって螺旋階段を上り始めた。

 先ほどの怪異の出現で一度張り詰めたせいか、少しだけこの場の闇にも慣れた気がする。

 だが、油断してはならない。ルオシーが語った女幽霊にはまだ出くわしていないのだから。

 階段を上りきると、二階や三階と同様の間取りの空間が広がっている――と。眼前をふわりとした白い影がよぎった。

「あれ……! ユーリンが見たという子ではないですか?」

 廊下の奥へと駆けていく後ろ姿を指さして、雪蓮がユーリンを振り返る。雪蓮たちにも見えている。その事実が妙にユーリンを安堵させたが、これは口に出さないでおこうと決めた。

「ひとまず、追い掛けよう」

 姿からして子どもはあの男児のようだった。白い服を着た男児はまっすぐに廊下を駆け抜けていく。速い、というよりもすばしっこい。その気になれば掴まえられそうな距離を保ちつつ、走る。ユーリンとしては子どもがどこを目指しているのかが気になった。

「これはまるで……誘われている、のかな」

「ちょっと、先生。嫌なことを言わないでください」

「おっと。僕の意見はただの見物人の感想として受け流してくださいな。今夜の責任者はユーリン、君なのですから」

「うう……そんな責任がありますか」

「ユーリン、見て! あの部屋の前で止まりますわ」

 突き当たりに並ぶ三部屋のうち、真ん中の扉の前で男児が足を止める。

「……媽媽」

 お母さん、そう呟く声が聞こえ、その姿が扉の中へと煙のように掻き消えた。

 それを目の当たりにし、ユーリンと雪蓮は一瞬息を呑んで沈黙する。

「……消えました、わよね……あの部屋の前で」

「前、というか……あれは完璧に中に入った、よね?」

 短く言葉を交わして、顔を見合わせる。意見は一致している。今すべきことはひとつだった。

「あの部屋を調べようか」



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