第一話 鬼食う鬼

第一話 鬼食う鬼〈1〉

 


 第一話



 ……それは、ともすると薄気味の悪い光景であった。

 月影冴え渡る灰蒼い闇の中。道教式祭壇の前に並んだ十三の人影がゆらゆらと覚束なげに揺れている。

 彼らの姿は薄い紗幕に遮られ、表情はおろか、容貌さえ窺い知ることはできない。

 それに、この霊廟はとても古い。あちこちに蜘蛛の巣が張り、床を毒蟲が平気で這い回っている。屋内の空気も悪く、埃や黴の匂いが鼻をつく。

 それだけではなく、なにか得体の知れぬものの気配までもが嗅覚として感じられるようでもあった。

「僵尸の皆さん、ごはんですよー!」

 そこへ、ひどく明るく場違いな呼び掛けと共に一人の若者が姿を現した。

 この義荘を預かる道士の住み込み弟子であるユーリンだ。

「はい、お線香ね~」

 線香の束を抱えたユーリンは影を隔てていた紗幕を何の躊躇いもなく開いた。

 そこに立ち並んでいた影は――紛れもなく十三の死体であった!

 だが、ユーリンは特段気にする様子も見せずに香炉に線香を立て、短く祈る。

 踵を返すと今度は霊廟に並ぶ棺のすべてに線香を挿し込んで回る。慣れた動きで、きびきびとの支度をしてゆく。その間も並んだ死体はゆらゆらと覚束ない様子で立ち尽くすのみ。それもそのはず、彼らは道士の手により僵尸化された死体であった。その証拠に、額には操作用の符咒を施した呪符が張られ、祭壇の真ん中には彼らを鎮静化させておく為の香が焚かれている。

 もちろんユーリンが線香を挿して回っている棺にもすべて死体が収容されており、彼らも同様に帰郷を待つ客として預かられている身分であった。

 ここは義荘である。いわば死者のためのホテルだ。

 かつて中国では異境に客死した者にとって、故郷に戻りその地の土に還ることこそが望みだった。そこでこのような死体の共同墓地や霊廟を含む一次保管所――故郷の土に還るのを待つ場所が設けられたのだ。今夜も先ほど道長が立ち寄り、僵尸隊を引率していったところである。

「十一、十二、十三……よし、と。今夜も異常なし、ですね」

 白金の髪を揺らし、ユーリンはすっくと立ち上がる。

 その容貌は眉目秀麗、細く華奢な体つきがどこか儚い印象を与える十代前半の少年といったところだ。ユーリンの翠眼は暗闇の中で猫の眼のように丸く広がり、今も炯々と輝いている。前髪の両側を長く伸ばしたお下げ髪は中々に個性的だが、本人はこれを気に入っていた。

「……夜中に動きだしたらことだね」

 灯明から芯を引き出し、再び火が安定したのを確かめると、ユーリンは霊廟を後にした。


 §


 ユーリンが応接間に顔を出すと、ちょうど来客中であり、師であるグウェンが人好きする笑顔で対応していた。

 ……本当に、先生は猫かぶりなんだから。

 ユーリンは呆れ顔で支度をし、茶器を運んで行く。

「先生、お茶の支度ができました」

「ああ、ユーリン。よいところにきましたね」

 椅子に座っていた青年が振り返る。この義荘の管理を任されている道士のリー・グウェンだ。丸眼鏡を掛け、長い黒髪を後ろに撫でつけたのを三つ編みに結えている。中途半端な長さの前髪一房が右目を隠すように垂れているが、その相貌が人並み外れて整っているのが分かる。

 どこか底知れぬ妖気を漂わせているが、それがまたこの男の持つ魅力を引き立てていた。

 グウェンは紺碧の瞳をすがめ、ヤオに向かって柔らかく微笑んだ。

「ヤオさん、この子は僕の弟子のユーリンです。働き者でね、法術の覚えもいいので、とても助かっているんですよ」

「よろしく、ユーリン」

「よろしくおねがいします。ヤオさん」

 握手した手には高そうな指輪が三つも嵌められていた。ヤオは相当な金持ちらしい。初老の男性で、見れば服装も相応に立派である。

「……それで、あの、ヤオさんはどのようなご相談を?」

 自分は席を外した方がよいか、そのような意味合いも込めて問うと、構わないというようにグウェンが言葉を続けた。

「先日、ヤオさんのお父上が亡くなってね。今日は葬儀の日取りを相談をしていたのです」

「それは……お悔やみ申し上げます」

「ありがとう。先祖の慰霊も兼ねて、葬儀は盛大に執り行いたい。そこで、よい日取りがないか段取りを組んでもらっていたんだよ。つい長居をしてしまったがね……」

「いいんですよ」

「では、そろそろお暇することにしよう。リー先生、くれぐれもよろしくおねがいしますよ」

「もちろんですよ。……ユーリン、すまないがヤオさんをお送りしてくれるかな?」

「はい。では、こちらへどうぞ」

 外歩き用の提灯を持ち、ユーリンは戸口に立った。


 §


「リー先生に君のようなお弟子さんがいたとは知らなかったよ」

「弟子入りして日が浅いものでして。それに私はあまり外にも出ませんから……」

 曖昧に微笑み、ユーリンはヤオの半歩先を歩く。

 左手に掲げた提灯が辺りの濃闇を淡く照らす。薄く霧の煙る夜、周辺を埋め尽くす墓石群は不気味なことこの上なく、柳の木の影からは得体の知れぬ何者かが今にも飛び出してきそうだ。

「やれ、ぞっとしないね」

「明日は満月で、陰の気が高まっております。幽鬼や物の怪の類が出てもおかしくはありませんよ。どうか、これをお持ちください」

 ユーリンは呪符を取り出し、ヤオにそっと手渡した。

「魔除けの札です。私が祈りを込めておきました。街の入り口までは私もご一緒しますが、ご自宅ではその護符が加護してくれるはずです。どうか肌身離さず持っていてくださいね」

 ユーリンが薄く微笑めば、ヤオは一瞬呆けたようになって頬を染めた。

「き、君、そ、その……どうだね。今度一晩……リー先生には内緒で」

 ヤオはもうその気なのか、ユーリンの手を取って迫り始める始末だ。

「私が夜出歩けば、まず先生が気づくでしょうね。それに、ヤオさん――私は……女の子ではありませんよ?」

「えっ、てっきり君は……、そんな、本当に?」

 くすくすと可憐に笑い、ユーリンは頷いた。灯が照らす体躯は細く、腰がきゅっと締まっており、独特の艶めかしさがある。ただ、胸板は薄く、外見的特徴からは男女の別がつきにくい。

「これは失礼を……いや、男であってもこの際かまわないのだが……」

「どちらにしろ、私は修行中の身です。情欲に駆られ、修行を破るわけにはいかないのです。あ、ほら、出口に着きましたよ」

 そうこうしているうちに墓地の外れに辿りつき、ユーリンは何事もなかったかのように微笑んで、持っていた提灯をヤオに手渡した。

「では、私がお送りできるのはここまでです。大丈夫、城門はすぐそこですよ。どうか真っ直ぐお行きくださいね」

「その、なんだ……すまないね」

「いいえ。では、御葬儀の際はよろしくおねがいしますね」

 ややぎこちない様子で去っていくヤオの後姿を見送ると、ユーリンはその場からそっと姿を消した。その様はまるで幽鬼のようであった。


 §


「おや、ユーリン。戻りましたか。思ったより少し……早かったですね?」

 ユーリンが戸を閉めると、書斎で書きものをしていたグウェンが気づいて顔をあげた。その表情は吹き出す寸前、おもしろおかしそうに歪んでいる。

「なにが早かった、ですか! 先生、知っていて私を寄こしたんでしょう。最悪ですよあのスケベ親父!」

「まあまあ。邪な気持ちを抑え、自らの修行を破らないこと。これも修練の一環ですよ」

「私の側に邪気などございません!」

「フフ、だとしても相手が僕ならばどうですか?」

 怒りを滾らせ詰めよると、グウェンは相好を崩し「んちゅ~!」と唇を尖らせてユーリンの顔に自らの顔を近づけた。瞬間、破裂音が響き渡る。

「いっでェ……!」

「ッああああ! どいつもこいつもォッ!」

「……ひどいなァ、ちょっとふざけただけじゃないですか」

 弟子に思い切り頬を張られて、グウェンの眼鏡は擦れ、口元には血が滲んでいた。にもかかわらず、彼はまだ愉快そうに笑んだままだ。ただし、眼鏡を外し、唇を袖で拭うと――その表情はがらりと変わっていた。

「――で? オマエ、首尾はどうだったよ」

「……はい。彼、ちゃんとおふだを持って帰りましたよ」

「はん、これで今夜のところは凌げるだろうがねェ」

 そう吐き捨てると、グウェンは脚を延ばして机の上で組み直す。

 さきほどまでの穏やかな態度はどこへやら。すっかり本性を露にした青年は、つい今しがた眼前の弟子に殴られたことなど意に介さず、獰猛な笑みを浮かべた。

「ヤオ・ジルイ」

「え?」

「奴の親父の名さ。オマエは……まァ、知らんでも仕方ないが、この辺では有名な業突張りのジジイでね。上品とは言えん方法で上海人から土地を買い上げ、サスーン一族に売り払って財を成した男だよ」

「それは……売国奴……いえ、大変な欲張りですね。って、それじゃ、まさか……」

「そのまさかさァ。生前の強欲――現世において自らが成した財への執着心は、死者を僵尸に転化させる。それに明日は満月だ。奴が転化して僵尸となり、親族を襲う可能性は極めて高い」

「それでヤオさんに呪符を渡すように言ったんですね。でも、あれだけじゃ到底僵尸は防げないのでは……」

「そこで、だ」

「ひゃっ!?」

 グウェンは、ぴしっ、と指で弾き出すように呪符を取り出し、ユーリンに突きつけた。

「ユーリン。オマエ、明日の夕方、ひとっ走りしてヤオの家に忍び込め。そんで棺の内側にこの札を貼ってこい。そうすりゃ少なくとも転化は防げるだろうからな。成仏できるか否かはさておき、あとは埋葬されて終わりさ」

「え、と……それはどうしても、私が……行くのですか?」

「そりゃ、忍び込むには多少身軽なオマエの方が都合がいいからなァ。見つかったら見つかったで適当に色仕掛けして誤魔化してこいよ。かわいこチャン?」

 ニヤリと悪戯っぽく頬を歪め、師であるグウェンは弟子のユーリンに言い渡す。これはすなわち命令であり、ユーリンとしてはもう逆らうことは出来ない。

「あの……先生、なんか面白半分で私に役目を押し付けていませんか……?」

「オマエから面白さを取り除いたら後はもう外見しか残らねえだろうが?」

 師はいつも通り呼吸するように暴言を吐き、ユーリンを困惑させるのだった。

 さきほどの打撃で少しひしゃげた眼鏡を掛け直すと、グウェンはにこやかにトドメのひと言を発した。

「では、お願いしますね。ユーリン」




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