夕立ちの野良猫

カラミティ明太子

ある寒い日の話

 彼らは恋人のように──しかし、おおよそ似つかわしくない冷たさを内包して見つめ合った。

 足元を縫うように吹き抜けた風になされるがまま、オオバコの茎が頭を垂れる。

 地面に伏す一匹の鼠は朧気な眼差しで自分に近づくそれを見上げていた。


 鼠を仕留めたのは一匹の猫だった。それは若く虎模様の猫だった。生気に満ちた瞳は飢えを凌ぐべく目の前に横たわる小動物へ近づき、舌先をほんの少しだけ見せて口元を舐めて湿らせた。

「悪く思うなよ」

 若猫は続けた。

「明日倒れているのが俺だったらいいんだがな。そうすればアンタの気も少しは晴れるだろう」

 鼠に猫の言葉は届いていなかったが、猫は言葉を続けた。

「でも、まだしばらくは生きていたいもんでね」


 ほんの少しだけ牙を立てて鼠を咥えて寝床に運ぼうとした時だった。

 進む道の先から一匹の猫がやってくるのが見えた。咥え上げた鼠を再び地面に置き、若猫は前方を見つめた。

 目を細めて見つめていると、徐々に近づく影の輪郭がハッキリとした線に変わっていく。

 まず最初に首元を確認した。首に輪を掛けられた猫──ニンゲンとやらに子飼いにされることを良しとする腑抜けた同族──であれば恐れることはない。奴らは野生に生きる誇りも矜持も捨てて温かい布の上で過ごす堕落した猫たちだ。堂々と鼠を咥えて真横を通り抜けてやればいい。

 問題は首に輪が無い猫だ。自分と同じく野山を駆けて暮らし、その日の糧を自分の爪と牙で得ている流浪の猫。ニンゲンに媚びず、孤高に生きる四つ脚の同志。彼らであれば話は変わってくる。横取りしても構わないと思われれば連中はさっと飛びかかり、この顔に傷の一つでもつけて颯爽と鼠を奪い去るだろう。

 せっかく仕留めた獲物を横取りされるのはたまったものではない。舐められる前に睨みを飛ばして牽制するところから始まるのだ。

 さてどいつだ、と注意深く観察すると前からやってくる猫の首元がハッキリと見えるようになってきた。首に輪をされていない。


──野良だ


 若猫の背に緊張が走る。静かに鼠の前に立ち、爪先で死体を少し弄りながらやってくる猫を見た。

 薄灰色の毛にはところどころに黒い斑点がある。この辺りでは見ない猫だった。そう気づいた時、若猫の胸の内には恐れよりも怒りが湧いた。

 若輩者とはいえこの地域では野良として生きている身分である。他の野良猫たちとしのぎを削り、獲物を取り合い、家猫に負けないよう時には見栄を張って寒さに震えながらも毎日を生きてきた。そうして得た今日の獲物が他所者に奪われたらと考えると無性に腹立たしくなってきたのである。


 野良猫は頭を垂れてゆっくりと歩いてくる。その顔は伺えず、何を考えているのか分からない。しかし一直線に静かに若猫へ近づいてきてきた。

 若猫は喉奥を震わせ、地を這うような低い声色で鳴いた。近づいてきた野良猫は若猫の前でピタリと立ち止まった。

「そんな睨み方じゃあ、まだまだ甘いな」

 野良猫の声だった。その声はたっぷりの落ち着きを含んだ声だった。低くしわがれた声は自分よりも歳上の老猫であることがすぐに分かった。そして、若猫はその声に覚えがあった。

「自分だけで鼠を捕れるようになったか、坊や」

 野良猫が顔を上げた。やはりその顔は既知の顔だった。

「アンタか。いつ以来だ?」

「お前がまだ小さく鳴いていた頃から、葉が枯れる時期を二回だ」

「それで、何の用だ?」

「恩猫にそんな口を聞くものじゃない」


 まだ若猫が仔猫で、他の兄弟と共に箱の中に入れられて路上に捨てられた時に導いてくれたのがこの老猫だった。ある朝起きたら箱の中で食いちぎられて死に絶えた兄弟たちを見て青ざめていた時、箱の中を覗き込んでいた老猫と目があった。

 それが出会いだった。

 老猫は若猫に様々なことを教えた。獲物の狩り方からニンゲンから逃げるための経路、綺麗な水が飲める場所によく陽が当たって温かい岩。決して優しくは無かったが、猫が猫として生を全うするための生き方を彼は若者に教えた。そして、その教えは今も若猫に息づいていた。


「恩猫、ね」

 若猫は老猫の言葉を反芻してから続けた。

「突然いなくなっちまうような奴、俺は恩人とは思わないな」

「薄情だな。誰に似た?」

「さあてね。ふらっとどこかに行っちまうような野良猫だと思うぜ」

 老猫は少しだけ足元──鼠に視線を落とすと呟いた。

「あの時のお前はちょうどそれくらいだったな」

「ああ。アンタは俺を拾ってくれた。兄弟達が死んで、飢えるしかなかった俺に腹の満たし方を教えてくれた」

 感謝してるよ、と若猫は言った。

 老猫が顔を上げた。その瞳は何かを決心した瞳だった。

 若猫はすぐに悟った。そして、鼠を弄っていた前脚を地面に置くと老猫を見据えた。

「本気かよ」

「ああ」

「わざわざ俺から奪うのか」

「そうだ」

 いつかはこんな日が来ることは分かっていた。例えそれが仮の関係だとしても親子だと思っていた。しかし、野良であれば話は別。独り立ちした野良猫は家族と無縁。血を分けた兄弟だろうと、共にニンゲンから逃げた友がらであろうと一つの獲物を前にすれば互いに獲物を奪い合う敵同士であった。

「何故戻ってきた?」

「さあな」

「アンタはまだ現役だろう。誰かの獲物を横取りしなくたって、十分自分で狩れるはずだ」

「それはどうかな」

 老猫が少しだけ顔を傾けた。見せつけるようにした右目は少しだけ濁っていた。

「俺はもう右目が見えない。右耳だって遠くなってきた。十分老いぼれたさ」

 若猫の中に怒りは消えていた。哀愁と憐憫が募っていた。あれほど大きく見えていた猫が途端に小さくみすぼらしい野良猫に見えてしまった。

「無理をするな。この鼠はアンタにやるよ。だからどうか、無事で生きてくれ」

「甘いな」

 老猫は呟くと低く唸った。

「あの日、俺は腹を空かせていたんだ」

 その言葉は何かに対する問いでも、明確に若猫に向けられたものでもなかった。自分に、あるいは空高くにいるといわれる神とやらに告白しているようだった。

「今にも倒れそうだった。このままいっそ死んでしまおうかと思っていた。その時、何かの声が聞こえた。その声はとても小さいが複数だった。鼠かと思ったよ。そして声のする方へ行くと……箱の中で無く数匹の仔猫がいた」

「……何の話だ」

「その時のことは今でも覚えている。俺はまだ目もろくに開けていないような仔猫どもが眠る箱に顔を突っ込み、一匹に牙を突き立てた。牙は簡単に肉を裂いた。久しぶりの感触に俺は震えたよ。生の肉を噛む喜びといったらあの時以上のものは無いだろうな」

「やめろ、それ以上話さないでくれ」

 頼むから、と。しかし若猫の言葉は老猫に届かない。老猫は明確に若猫の目を見つめた。

「そうだその目だ。あの時、最後に残ったお前はその目で俺を見ていた。俺は……何を思ったか、お前を育てることにしたんだ」

「嘘だと言ってくれ。頼むよ……」

「哀しそうな目だ。憐れな無力の目だ。あまりにも無力すぎたその目はありのままの俺を映していた。その目に映った自分を見て、俺はお前を殺せなかった」


 雨が降り出した。

 ぽつりぽつりと小さな雨だった。野良猫たちの毛にこびりついて固まった泥や埃がゆっくりと毛並みに沿って洗い落ちていった。

「お前は十分に育った。獲物も自力で捕れる」

「どうしてだ。どうして、今、俺にその話をしたんだ?」

「俺はもう長くない。どうせ死ぬなら、喰い残した一匹を胃袋に入れてから死のうと思ってな」

「さっきの話は本当なのか?」

 老猫は笑った。口角をキュイと吊り上げて鋭く尖った牙を見せた。その目は確かに若猫を見ているはずなのに、焦点の無い瞳のようにも見えた。

 獰猛な野生の笑みそのものだった。簡単に捕まえられると確信したときについ出てしまうような笑みだった。

「つまらない嘘は俺の主義じゃあない。……知ってるはずだろう、坊や?」

「そうかよ」

 若猫はまっすぐ老猫を睨んだ。胸の内に徐々に膨らんでいた老猫を憐れむ気持ちは雨粒が洗い流していた。

「兄弟たちは共食いしたと思っていたが、違ったらしいな」

「あの日喰いそこねた最後の一匹が、よくそこまで大きくなったものだ」

「育ての親が仇とはな。つくづく俺は運が無いらしい」

「どうやらそうらしいな。運が無いのは誰に似たんだ?」

 と老猫は問うた。呆れたように少しだけ笑みを浮かべ、そしてすぐにその笑みを消すと若猫は答えた。

「アンタだろうな」

 今度は老猫が笑った。

 二匹は低い唸り声を最初は小さく、そして徐々に大きくして互いにぶつけあった。互いの野良猫としての意地を見せ合うような鳴き声は遠雷のように雨模様の空に響き渡った。

 雨足が一層強まった瞬間、彼らはそういう段取りだったのかと思わせるほど同時に跳び上がった。

 身を屈め、足を伸ばし、前脚は爪を光らせて飛びかかったその瞬間、若猫は二回目となる死が近づく気配を感じた。

 跳び上がり、老猫と交差して着地するまでは一瞬だった。けれどもその時間は若猫には──きっと老猫にも長く感じられた。落ちてくる雨粒は止まり、毛先が触れれば重く感じるような、時間が遅滞した空間の中でお互いのこれまでを互いに聞かせ合うように視線を交わし、爪を相手の皮膚へと突き立てていた。

 流れるように互いの爪が毛の合間を縫い肉を裂く。相手の肉が抉れた感触を確かめながら地面に脚をついたが、続けて一撃を入れようと振り返ることはしなかった。

 互いに結果は分かっていた。

 雨に混じって足元に赤い水が流れていった。若猫の顔には少しの傷ができていた。

 後ろで何かが倒れた音がした。パシャリと水が跳ねた。赤い水溜りはそこから生まれていた。

 若猫は振り返り、倒れて背を震わせる老猫を見下ろした。

「成長したな、坊や」

 老猫の首元から右半身にかけて深い傷ができていた。そこから赤い水が小川のように流れて水溜りをより色濃くしていた。

 二匹はそれぞれがあの時互いに感じていた目線を知った。


 見下ろす者と見上げる者。


「アンタ、これからどうするんだ」

「このまま死ぬさ」

「そうか」

 若猫は腰を下ろすと顔についた水滴を前脚で払った。

「なあ──」

 言葉を投げかけて、すでに老猫が息絶えていることを知った。

 何て言おうとしたのか思い出せなかった。

 小さく頷き、若猫は鼠を咥えて歩きだした。


 雨は降り止まなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕立ちの野良猫 カラミティ明太子 @Calamity-Mentaiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ