1.Viola mandshurica
簡素な文面だった。
「アルバイト探しています。」
職歴、技能については一切書かれていない。ただ、片隅に給料要相談、と書いてある。A4の用紙にそれだけタイプしてあった。そんな白い紙が花屋の硝子戸にしわ一つなく、丁寧に貼ってある。
花屋に特段興味があったわけではない。生活費も今のバイトで事足りていた。それにその花屋は私の帰り道にあるわけでもなかった。途中駅で降りて寄り道をし、ネットで調べたクリーニング屋にコートを預けた帰り道、いつもと違う路地に入ってみただけだった。ただそれだけのことなのに、私はその花屋の前で立ち尽くしてしまった。
「アルバイト、探しています…」
つい某然と私は紙面を読んでいた。
硝子戸は曇り一つなく、その向こうにはモザイクのように鮮やかな色彩が硝子戸に浮かんでいた。覗き込めば、入り口に鮮やかなグリーンの植木鉢や小さな多肉植物のカラフルな寄せ植えが並んでいる。
硝子戸を開くと、そこは色の洪水のようだった。
こんなに色があふれているのを見たことがなかった。様々な大きさの硝子の容器に、赤や黄色の極彩色の花が生けてある。長い冬の薄暗さに慣れてしまった眼には、急に夏が訪れたかのように鮮烈な光景だった。
真っ白な壁に、赤や黄色、橙色、ピンクがきらめいている。
店内は以外と広いようだった。音もなく、静まりかえっている。よく耳を澄ませると、モーターの動くような音がかすかにした。奥には白い木製のカウンターがあり、その周りには真っ白な花々が並んでいた。カウンターは花に埋もれるように配置されている。
私の瞳がきゅっ、となるのが分かった。子どもの頃、雪の日に庭に出ると雪の白さに目が驚いてよくそうなったのを思い出す。
こんなにも白い花があるものかという程に様々な白い花があった。
まるで春夏秋冬、すべてがこの空間に閉じ込められているようだった。
「あの」
声をあげると、店の奥から気配がする。身を乗り出したのは男性だった。短髪で、眼鏡をかけている。少し神経質そうに見えた。
「……何か」
ここはいらっしゃいませ、ではないだろうか。いらだったような声色だった。その顔はみるみる不機嫌になっていく。
「表の、求人をみたので…」
一瞬、男性が目を細めた。
「お引き取りを」
つい、え、と言ってしまった。まるで忌々しいものでも見るかのように、眉間をよせ、溜息をついてから、男はもう一度言った。お引き取りください。
私の何がこんなに彼を不機嫌にしたのか、さっぱりわからなかった。そもそも会話らしい会話もしていない。有無を言わさぬその剣幕に、私はすごんだ。
「わかりました、また来ます」
そう言うと、男は顔をあげた。
私はそう言い残して、踵をかえす。
こんなに美しい花に囲まれて仕事をしている人が、こんなに不機嫌を振りまいていては、美しい花もたちまち色褪せて枯れてしまうのではないだろうか。私は思った。
踵を返した私の目の前にはアンティークの姿見があった。カウンターから店の中を見渡せるようにだろう、上手く角度が調整されている。角にはドライフラワーで作られた花の冠が乗っていた。
その中に、私がうつっている。
キャメルのコートにお気に入りの青いワンピース。
私は気付いた。
こんなに沢山の色の花がそろっているのに、この空間には一輪たりとも青い花がない。だから、鏡の中の私は妙に浮いているように思えた。花たちも、知らない色を前にしているようで心なしかざわざわしているように見える。
私は鏡の前で立ち止まった後、男を振り返りもせずにすぐに扉を開けて店を出た。そして、店名をみて思わず二度見してしまった。
「青木青花店」
青い花なんて、ひとつもなかったじゃないか。私は笑ってしまった。
私は、一週間に二度はそこを訪れた。
試してみたかったのだ。
店主が怒った理由を知りたかった。あの短時間で店主が予測できる訳はないだろうが、花を粗末に扱ったり、水やりを忘れたりしたことはなかった。時々プレゼントでもらう切り花だって、大切に世話した筈だつもりだ。ちょっとくらいならガーデニングの知識もある。
別のことが原因に違いない。そう確信していた。
花屋に通い始めて何度目だっただろうか、私はクリーニングから返ってきたお気に入りのコートを着て行った。
店内に入ると、彼はゴミが何かを見るような大層不快そうな顔をした。一瞬で視線を落とし、無視を決め込もうとした。
「帰れ…ストーカーで訴えるぞ」
私は、すぐに理解した。お気に入りのコートは、私の大好きなロイヤルブルーだったからだ。つまり、この男は青色が大嫌いなのだ。理知的な見た目を破綻させるほど、大人としての振る舞いを脇に置くほど、接客を蔑ろにしてしまうほど、何らかの理由で生理的に嫌悪している。
現に翌日、キャメルのコートにグレーのセーターで訪れ、カウンターに履歴書を載せた私が「青が嫌いなんですよね」と言うと男は悔しそうな、バツの悪そうな顔をした。
「………そうだ」
男が始めて私を見た。観念したように履歴書を一瞥し、私をもう一度見た。
「大学生のアルバイトなら、もっといい場所があるだろ」
何もウチでやらんでも、と言いたいようだった。そして、ざっと目を通しただけで履歴書を突き返す。
「どっちにしろ、採用しないが」
私が驚くと思ったのか、男はざまぁみろという表情をした。けれども私は分かっていた。履歴書を見たら、そう言われるだろうと検討をつけていた。
「私が、すみれだからですよね?」
男と目があった。
皮肉にも、カウンターで売られているのは、ニオイスミレのミニブーケだった。小さなバケツに入れられている。様々な種類のスミレで作られた可愛らしいものだったが、黄色や白、赤や濃い紫で作られていて、青く見える色、藤色や青紫はなかった。少しでも青く見える花はこの空間からは徹底的に排除されている。それでもニオイスミレは可愛らしく咲き、ふわりといい香りをふりまいていた。
目の前の男も同じことを思っていたらしい。
ニオイスミレに向けていた視線が、またぶつかった。
「…スミレは、青いだろ?」
苦笑いしながら男は言った。
男の胸元のネームプレートを見ると、柚木と書いてあった。店名のように青木だったら、毎日苦しんでいたんだろうか。思わず意地悪なことを考えてにやりと自嘲する。
「良かったですね、私が青木すみれじゃなくて。」
皮肉って言うと、柚木は苦い顔をした。口がへの字に曲がっている。観念したように柚木は私の手から履歴書をひったくると、もう一度と目を通した。
「なんでここのバイトに執着するのか、さっぱり検討がつかないが、いいぞ、採用だ」
柚木は辺りを見回した。
「人手が足りないのは、避けようもない事実だからな」
そう言って笑うと、柚木は後ろの棚から書類を取り出して、明後日までに提出な、と言ってそれを私に押し付けた。シフトは労働法に違反しない程度の範囲なら自由、そしてコンビニのアルバイトより少し高いくらいの時給を告げた。この時の柚木の目線は「ホントにこんな条件でコイツはここでバイトすんのかよ?」と言わんばかりだった。そんな視線を尻目に、私は柚木が淡々と告げる内容に頷いた。
一通り説明が終わって、私が書類をファイルにしまう時、柚木がぼそりと言った。
「菫程のちいさき人に生まれたし、って知ってるか?」
知らないだろ、と言うような言い方だった。
「夏目漱石ですよね」
答えると、ちょっと驚いたように柚木は片眉を上げた。へェ、とにやりと笑う。
「お前は、アレだな。日本人のクセに目立つからすみれ程のおおきな人に生まれたし、だな。」
私の背の丈を見ながら言っているのだ。ものすごく失礼な男だと思った。
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