傷と輪

高村 芳

傷と輪

 雪が舞う午後、届いたダンボールを開けてみると、そこには天使が横たわっていた。眠っているのか、規則的な寝息が聞こえ、白いワンピースのお腹の部分がゆったりと上下している。天使のデリバリーなど頼んでいただろうか? 頭がぼんやりとして思い出せなかった。一見、人間と変わらない風貌だが、白い髪の上に浮かぶ輝く輪っかと、背中から生えた立派な翼が彼、ないしは彼女が天使であることを物語っていた。

 天使は長いまつ毛をもたげて目を覚ました。あたかも起きる時間が決まっていたかのように。まだ朧なのか、僕のことをぼんやりと見つめてくる。


「こんにちは。名前は?」


 しばらく経ってから、ふるふる、と首を左右に振った。どこから来たのか、誰といたのか。いくつか質問を投げかけてみたが、天使は何も言わなかった。よく見れば顔は青ざめており、そっと腕に触れてみると真冬の空気のように冷たかった。うなだれる左の翼は血で濡れていた。

 僕は天使をおそるおそる抱え、ベッドに寝かせた。濡れた翼をタオルで拭いてやり、包帯を巻く。寝床を奪われた僕は、床で毛布にくるまるしかなかった。思わぬことの連続で疲れていたのか、いつもより早く眠りに落ちた。

 翌朝、僕が目を覚ますと、天使は体を起こしていた。まずは腹ごしらえだろうか。久しぶりに米を炊き、おかゆを作って食べさせた。おいしいともまずいとも言われなかったが、天使は米粒一つ残さずたいらげた。それから温かい風呂に入れ、あがった後には髪の毛を乾かしてやる。最初は嫌そうに体を傾けていたが、僕は否応なしに天使の髪を梳かす。一本一本が、細い絹糸のようにゆらめいて、綺麗だと思った。

 数日後には、だいぶ頬の血色が良くなった。ずっと着ていたワンピースの代わりの服がなかったので、いくつか通販で見繕って買った。サイズがわからなくて大きすぎる上着もあったけど、天使は気にならない様子で黙って僕に着させられていた。

 喋る様子も飛ぶ様子も、僕をどうにかしようと言う気もないようだった。ただ僕の隣にいて、たまに僕の目をじっと見つめてくるのだ。何気なくテレビを見ているときも、風呂に入っているときも、久しぶりに掃除をしているときも。その目は深い深い藍色をしていた。飲み込まれそうで、でもその瞳に内包されている光に触れたくなるような、そんな藍色だった。


「リン」


 僕はいつのまにか天使をそう呼んでいた。天使の輪っかから連想して付けた名前だったが、天使は気に入ったのか、呼ぶとこちらを振り向くようになった。ソファに座る僕の肩にもたれかかり眠るのが、リンは好きだった。二人で過ごす時間が、フツーになり始めた。

 ある日、夢の海に浸っていた僕は体を揺り動かされた。瞼をそっと開くと、目の前にリンがいた。翼をもぞもぞと動かして、何やらもどかしそうな表情をしている。リンは自身の背中を見つめていた。包帯をとると、そこに在ったはずの傷は癒え、ふんわりとした綺麗な羽根が生えていた。


「うん、綺麗に治ったみたいだね。痛くない?」


 リンは確認するように、翼を上下に動かしたり、羽ばたかせたりした。抜けた羽毛が部屋を舞い、花びらが風に巻き上げられたかのようだった。リンは僕の手を引いてくる。その手は日向のように温かい。こんなに力を込めて手を握られたのは初めてだった。リンは玄関を指差している。


「外に行きたいの?」


 リンは頷く。ここに来たときには想像できなかったくらい、軽やかな足どりだ。少し髪も伸びた。玄関の手前、前を行くリンの後ろで、僕は立ち止まる。リンが僕の視線を追う。

 玄関のドアノブにかかっている、麻縄の輪っか。リンはそれを指差してから、自分の頭の輪を指差し、笑った。同じ輪だ、とでも言ってるかのようだった。傷ついた僕が天使になるために必要だった輪っかだ。麻縄を手に取ると、やけに埃っぽく、ざらついていた。微塵も輝いてなどいなかった。


「同じだね。でももう、僕には必要ない」


 僕はリンの手をしっかり握り返してから、数年ぶりに玄関の扉を開けた。

 春の匂いがした。



   了

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傷と輪 高村 芳 @yo4_taka6ra

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