俺の進路をやたらと理系にさせたがる茶道部の先輩の下心が透け過ぎて困る
森里ほたる
俺の進路をやたらと理系にさせたがる茶道部の先輩の下心が透け過ぎて困る
大宮 律(おおみや りつ)は夏休みが終わったとは言えまだ暑い教室でうなだれていた。しばらくは続きそうな残暑のせいもあるが、手元にある一枚の紙が律を机にへばりつかせている原因であった。
『文理選択希望調査票』
律のいる桜ヶ丘高等学校では高校一年生の夏休み明けに最初の文理選択希望調査を行い、そこから色々各自で調べて年末に最終希望調査票を出す。そうして年明けの一月から仮の文理分けを行って、二年生への進級と共に正式に文理選択が決まる。
律のクラスでも担任からは文理の違いや進学や将来の仕事とかも含めた説明があったが、いきなりそんなことを言われても分からない。学校的には毎年こういう時期に進めているのであろうけど、実際に選択する本人たちがそれを素直に受け入れられ、パッと進路を決められるかは別問題だろう。そんな思いがあり、律は少し不貞腐れた気分になっていた。
ただ、担任の話ではこの調査票はすぐに提出しなくて良いらしく、律は一旦忘れようかなと思っていた。来月の予定もまともに立てていない自分にそんな先の事を決めるのは無理だとも。
その時、律の頭にとある人物の顔が浮かんだ。"何かあった時は何でも相談して欲しい"と言われていたことも思い出し、進路について相談することにした。
とはいえ、残念ながらまだ部活までは時間があるためその人物にはすぐには相談しに行けない。けれども相談すると決めただけで律の気持ちは幾分か楽になっていた。当の本人は気がついていなかったが。
放課後、律は目的地である部室棟三階の和室入口前まで来ていた。入口の扉を開けると、内履き用の下駄箱と奥の部屋とを仕切る襖が見えてくる。律は手慣れた動きで靴を下駄箱に入れて、軽く襖をノックした。
「こんにちは、大宮です」
返事を待たずに襖を開けて部屋の中に入る。すると、畳の優しい香りが律の鼻に届いてきて、それと同時に優しく丁寧な声が聞こえた。
「こんにちは、大宮君。久しぶりだな」
肩ぐらいまである綺麗な黒髪の美人な女性がそこにいた。律の部活、茶道部所属の二年生である二条 薫(にじょう かおる)がいた。ぱっちりとした二重で鼻も高く、色白で小顔。そんな薫は校内でとても有名だ。
薫は律が来る前に和室に来ており、お点前の準備を先に始めていた。律も鞄を和室の隅に置くと、一緒にお点前の準備を始めた。
桜ヶ丘高等学校茶道部はそれなりに歴史のある部活で長らく続いていた。しかし、近年は新人不足に悩まされており、部員は律と薫の二人だけになってしまった。
今後の事も考えて人がいないとさすがにまずいと思う律は薫にたびたび部員募集について相談するが、どうも薫は乗り気ではない様子である。薫としては無理して入ってもらわなくても、自然と興味がある人は集まるから大丈夫という形でまずは進めたがっていた。
それもあって部員数は増えず、二人しかいない部員で手分けをして準備をテキパキと行う。
それから間もなく準備が終わり、どちらが先にお点前の稽古をするかといういつもの流れになり、薫が律に聞いてきた。
「さて、今日はどちらが先にお点前をやろうかな? ……うん、夏休み明けで大宮君はしばらくお茶を飲んでいないだろうから、私から先にお点前をしようかな」
「そうですね、しばらく薫さんの薄茶を飲んでいないので先にお願いします」
律は薫のことを"薫さん"と呼ぶ。それは薫から律への強いお願いがあったからだ。どうも薫のクラスに二条という苗字の男子生徒がいて、紛らわしいから下の名前で呼んで欲しいとのことだった。
薫は律のことを"大宮君"と呼ぶ。律からは苗字でも下の名前でも大丈夫だと、それに呼び捨てでも構わないと伝えているが「まだ、流石に早すぎる……」という薫からの要領を得ない意見により"大宮君"という呼び方になっている。
準備が終わりお点前に入る前で一区切りできたので、ここで律は本題に入ることにした。
「ところで、実は薫さんに相談したいことがあって、先に少しだけいいですか?」
茶巾の準備をしようと立ち上がろうとしている薫に律は話しかけた。
「ああ、もちろんだよ。どうしたんだい?」
薫は律の方に体を向けた。
「実は夏休み……」
律としては"実は夏休みが終わって文理選択の希望を提出で困っている"と言おうとしたのだが、途中で薫が言葉を遮ってきた。
「え、も、もしかして、夏休みに何かあったのかい? こ、高校一年目の元気な夏休み……。あっ、な、なるほど。そ、そうか、それでは私は君に祝福の言葉を送った方が良いのかな」
薫はぎこちないロボットのような動きでいきなり早口でまくし立ててきた。今までそんな薫の姿を見た事が無かった律は驚いて少しフリーズしてしまった。そんな律の様子も目に入らないのか、薫は止まらない。
「ま、まあ、大宮君なら当然だろう。見た目も格好良く、普段の立ち居振る舞いも堂々としていて、きちんと挨拶もできる。茶道の稽古も辞めずに続けていて少しずつだが確実に上手くなってきている。そんな風な君ならば当然の結果であろう。そうか、そうか、いや、めでたいな。こんなにめでたい日はなかなかないぞ。ん、あれ、どうやらめでた過ぎてうれし涙が出てきてしまったようだ」
薫は言いたいことを言って一人で暴走している。なんとかフリーズから戻った律は薫にツッコむ。
「薫さん、なんの話をしているんですか? 夏休み中の話ではなくて、夏休み明けの文理選択についてですよ。どっちに進んだ方が良いか薫さんに相談したいって話です」
「え? 文理選択?」
薫はさっきの暴走状態から急に通常状態に戻り、ポカンとしていた。
「そうですよ。本当に何の話をしていたんですか?」
「い、いや、なんでもないんだ。すまないが、忘れてくれ」
そう言うと薫は急にいつものような冷静さを取り戻していた。ツッコみ所が多かったが話が進まないと思った律は流すことに決めた。
改めて律は文理選択や今後の進路について薫に相談した。もちろん薫も自分の進路で悩んでいると思っていたが、律よりも一年先輩の薫には色々と経験があるという期待があった。
薫は一通り律の話を聞いて、少し考えを巡らせているようであった。それからゆっくりと話始めた。
「うん、だいたいの話は分かったよ。確かに文理選択は今後の君の人生にも影響するだろうから、私でよければ一緒に悩ませてくれると嬉しいよ」
そう言って薫は律に優しい目を向けた。
「……それに、大宮君からそういう風に相談されてとても嬉しいよ」
そこでにっこりと優しく笑った薫。それを見た律の心は温かい気持ちになったし、この表情を自分以外の他の誰にも見せて欲しくないと思ってしまった。
「さて、文理選択の基本だけど、私としてはやりたいことがあるのであれば、それに向かう道を選ぶことが良いと思うよ」
薫は律の目をしっかり見てそう言った。そうして続ける。
「もちろん、君もそのようなことは理解していると思う。それを分かった上で、悩んでいて私に相談してくれたんだと思っているよ。だから一つ提案させて欲しい」
薫はゆっくりとけれど力強く話す。
「まずは、文理を決める前に、大学に進んで色々なものを見聞きしてみるという将来を想像してみるというのはどうだろうか」
律は自分の人生を投げ出している訳ではなかったが、どんな風に進んで行くのかも上手く描けていなかった。絶対に就職や絶対に進学という希望もまだよく分からなかった。
「……大学ですか。別に進学が嫌ってわけじゃないんですけど、大学っていいんですかね?」
律としては、なんとなく進学はお金がたくさんかかりそうだし、強い意志が無いのに行くのはどうなのだろうかと思っていた。それと律の周りには大学を出ていないけど、幸せな人生を送っている人も多くいる。
「もちろんその人の考えや環境があるから一概には進学は良いとは言い切れないけれど、私は基本的には大学に行って多くのことを経験することは良いことだと思う。私自身も大学に入学したことが無いから想像と見聞きしたぐらいの話なのだけれども、人生で一番多くの人と出会える機会の一つは大学での出会いだと思うんだ」
「……『人生で一番多くの人と出会える機会』ですか。たくさんの人と会えることって大事なんですかね。別に今いる友達とか家族だけでも十分だと思いますけど」
律は今までの人生で人との関りが少なくて困った経験は無いし、これからもそれで生きていける感覚がなんとなくある。
「もちろん、今の人間関係は大事だし、絶対に多くの人と関わらないといけないということはないと思う。それに多くの人の中には絶対に意見の合わない人もいるし、嫌いな人もいるだろうから」
薫はそう言って律の意見も肯定した。そこから薫はより優しい声色で続けた。
「だからこそ、色々な人やものと触れ合うことが大切なんだと私は思う。自分の本当に好きなものや嫌いなものというのは中々気づけない人も多いと思うんだ。恐らくそれに気がつかなくても人生を過ごすことはできるとも思う。だけど、もし何かのタイミングで自分自身を見つめ直す時にきっと見えてきてしまうんだ。『本当に自分が好きなものは何なのだろうか』と」
薫は視線を窓の方に向けて外の遠く、空よりも先の何かを見つめるように視線を送っている。
「私は父親の仕事の関係でよく知らない土地に赴くことがあって、多くの人と出会ってきた。日本国内だけではなく、少しではあるけど海外の人とも出会ったんだ。そこで私は自分の中の本当に好きなものが何なのかを考える機会があって、最後には自分の好きなものに出会えたんだ」
「……それってなんだったんですか?」
律は薫に尋ねる。
「物理学だよ」
薫は間髪入れずに答える。
「私はこの世界がどうやって成り立つのか、どうやって動いているのか、なぜそうなるのかを知ることが好きなことに気がつけたんだ。それは色々な人と話をして、色々な試してみてやっとね。実は、昔はパティシエになりたかったんだよ。イチゴのショートケーキが好きだったからね」
少し照れるように笑った薫。
「でも、いくらイチゴのショートケーキが好きでも寝ても覚めてもその事ばかり考えることはできなかったんだ。むしろ毎日考えていたら嫌いになっていたかもしれないな」
薫は一度大きく瞬きをして、そしてすぐにまた律の目を真っ直ぐ見た。
「でも、一つだけずっと考えていても嫌いにならないものがあったんだ。それは物理学。この世界がどうやって成り立っているのかを考えることだ」
「物理学ですか」
「ああ、その当時は物理学というものを知らなかったのだけれども、世界の成り立つを説明するものの一つに物理学があるという事を知って以降、物理学はずっと私の心を焦がし続けているんだ。今も。そしてそれが私を私としてたらしめる大事な一本の柱となっているんだ」
薫の話を聞いていると律はだんだんと目を背けたくなってきた。律自身、そんなに自分のことを見つめてきたことは無いし、遠い将来についてより今日の夕飯の方が気になるぐらいである。
そんな自分自身と薫を比べると、いかに自分が空っぽな存在である見せつけられているようでいやな気分になる。もしかしたら文理選択程度で悩んでいる律を薫は呆れているのではないかと疑ってしまう。
この人と俺は違う。そう決めつけてしまいそうな時だった。
「だから、もし大宮君が悩んでいるのであれば、ここで一歩踏み出してみてはどうだろうか」
薫が律の目をしっかり見て、律の手を両手で包むように掴んでいる。
「君の悩みを私が100%理解してあげることは難しいだろうし、解決なんてもってのほかだと思う。だけど、こうやって君の話を聞いて、手を取って一緒に悩むことならできる。それにその悩みは前に進むためには必ず必要な人生にとってとても大切な悩みなんだよ」
薫の顔が律に近づく。
「薫さん?」
「それに私もここまで言ったんだ。もちろん途中で放り出すようなことはしない。君のそばに居られるように努力する。私は至らない所が多いから少しずつでもきちんと直していくよ。だから一緒に前に進んでみてはどうだろうか」
「えっ、薫さん?」
「も、もちろん、二人で決めないといけないこともあるし、色々気持ちの準備とかもあるだろうし。あ、いや、嫌というわけではなくて、私も全く分からないことばかりだし、初めての経験だから……」
「薫さん、一旦ストップ!」
律は薫の肩を掴みガクガクと揺さぶって、薫の暴走を強制的に停止させた。
「……はっ! す、すまない。私としたことが」
「……いえ、全然大丈夫です」
二人の間に沈黙が下りる。本日二回目の暴走。律は夏休み中に薫に何かあったのかと割と本気で心配になってきた。
それから少し経った後、律が口を開く。お互いが落ち着いたところで。
「でも大学か。そこまで言われるとなんだか行ってみるのもいい気がしてきました」
律は自分と彼女は違うと思う反面、ここまで本当に歩み寄ってくれる人を拒絶することも違うと思った。格好悪いかもしれないけど、まだ歩み寄って導いてくれると言ってくれる人がいる間は少し頑張ってみようかなとも思った。
「そ、そうか。そういう風に考えてもらえたら私は嬉しいよ」
「でもそうなると、どの学部と学科に進みたいかですよね。んー、まぁ、色々な人に触れ合うのことが大切であれば、どこでもいいかな。夏休み前のテストは国語が良かったし文系にしようかな」
律がそう言った途端、薫から並々ならぬ圧が発せられた。
「いや、理系だ」
「え?」
「間違いなく、理系だ」
「なんで理系一択なんですか? それは自分自身を振り返ったり、今興味があるものを選ぶでいいんじゃないですか?」
律の正論に薫がたじろぐ。
「それはそうなんだが、しかし、そうなると……」
「そうなると?」
律の聞き返しに薫が段々小さくなっていく。それでも、薫はどうしても言いたかったのかすごく小さい声でぼそぼそと呟くように喋る。
「……それだと、せめて同じ学部という夢すら潰えてしまうではないか。一緒に居れる時間が全然なくなってしまうぞ。それに文系で一部の学科だと男女比が程よくて大宮君が誰かと仲良くなり過ぎてしまうじゃないか」
「え?」
「あ、いや、ゴホン! 大宮君は理系顔だからきっと理系に進むと大成するに違いないと思うぞ。だから理系でどうだろうか」
「おい、今までいい話はどうした! さっきまで感動していた俺の気持ちを返してください。……なんでそこまで俺を理系に進めたいんですか」
さすがに律も意味不明な事を言う薫にツッコみを入れた。
「くぅぅぅ、大宮君はいじわるだ。……本当に分かっていないのか?」
「……何がですか?」
「うぅぅ。……まぁ、良いか。まだまだ時間はある」
そう言って涙目になる薫は恥ずかしさもあってか、お点前の準備に戻ることにした。
「でも、本当にありがとうございました。自分でよく考えてみます」
お点前の準備を進める薫に律は心からのお礼を述べた。
本日の干菓子は夏に合う色鮮やかで水をイメージした涼しげな落雁。風炉からはふつふつと心地よいお湯の音が聞こえてきて、外からはまだセミの鳴き声が聞こえてくる。
***
俺は薫さんの俺に対する気持ちに気がついている。だが、素直にその気持ちを受け取れる覚悟ができていない。そう簡単にできるわけがない。
二条 薫。肩ぐらいまである綺麗な黒髪の美人。俺の部活、茶道部所属の二年生。ぱっちりとした二重で鼻も高く、色白で小顔。そんな薫さんは校内でもとても有名だ。
だがそれは、その容姿だけから来ているものではない。彼女、薫さんはこの学校創設以来の天才なのだ。いや、"この学校"というくくりではあまりにも狭すぎる。
薫さんは世界から認められている天才なのだ。
IQのテストで世界の数%未満しかいない点数をたたき出し、両親に連れられた海外で複数の語学も完璧に習得している。実際に母国語でもない難解な科学の論文をいとも容易く理解して、権威ある学者と高度な議論を交わしているらしい。
恐らく今後、物理学に進んでも世界を驚愕させることを成し遂げるだろう。しかし、それは物理学だけではなく、化学、工学、数学、生物学、俺も知らないような分野に進んでも間違いなく大成するだろう。薫さんはそんなかけ離れた存在なのだ。一般人である俺とは違う存在なのだ。
理系に興味があることは知っていたが、今日初めて物理に強く惹かれていることを知った。俺は薫さんには自由に好きな世界へ羽ばたいて欲しいと思っている。俺なんかに囚われずに。
それに俺には彼女の横を歩くことは荷が重すぎる。彼女を支えることもできないだろうし、幸福にする自信もない。
……ただ、そこまで分かっているのに、彼女を、薫さんを拒絶することができない。あの人のそばに居たい。あの笑顔を独占したい。誰にも渡したくない。
ならばあとはどうすればいいかは決まっている。改めて自分が自覚したこの気持ちと決意はあまりにも重すぎるが、それでも譲れない。そう思うと文理選択なんてものは些細な悩みなのかもしれないな。そう思わせてくれるあの人は本当にすごい。
まったく、俺の進路をやたらと理系にさせたがる茶道部の先輩の下心が透け過ぎて困る。
俺の進路をやたらと理系にさせたがる茶道部の先輩の下心が透け過ぎて困る 森里ほたる @hotaru_morisato
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