プロローグ 意味何か無くとも③
自らを呼ぶ声と腕を引っ張られる感覚で意識が体へと戻ってきた。
完全に死を覚悟していたがどうやら自分は未だ生きているらしい。それが幸運か不運かは分からないが。
下半身に尋常でない重さを感じる。どうやらかなり近くで爆発が発生したらしく、側面の部屋が吹き飛んで壁を突き破りなだれ込んできた瓦礫にへそから先が下敷きに成っている。
これはもう助からないな、そう一切感情の揺らぎを伴う事無く思った。頭を打ったせいか煙を吸ったせいかは分からないが思考がぼやけ、力を抜けばそのまま直ぐに意識を失えそうである。そしてそのまま二度と瞼が開く事は無いだろう。
結局この世界は何もかもがクソだったな。こんな事なら始めから生まれて来なければ良かった。
自分の人生を振り返ってみると碌な事が無かった。若しかすると死んだ方が良いのかも知れない、生とは案外そこまで固執する価値はなかったのではないか。だって今まで苦しい事だけだったのだから、これからだってそうだろう。
『ああ、もう私の事なら気にしなくて良いですよ。此処で死にますから、君は一人で逃げてください』
何もかもを投げ出したく成って、舌に全く力の入っていない
この女も哀れである。どうせ今手を引っ張っている男がどう足掻いた所で助からないと分かっている筈なのに、中途半端に助けられてしまった手前見捨てる訳にもいかず此処に留まっている。
本当はこんな人間さっさと切り捨てたくて仕方がない筈なのに。
『さっきの行動なら別に気にする必要は無いですよ。私は君とこの状況を利用してヒーローごっこをしていただけですから』
別に道連れにしたところで愉快でも何でもないので、女に自分の行動を恩に着る必要はないと言った。しかし返答は何もない。どうやら相手の気が動転していて声が届かなかったようである。
『済みません、聞こえてますか? 私の腕を引っ張ったところでこの瓦礫がどうこう出来る筈がありません、論理的に考えて時間の無駄です。気にせず貴方だけで逃げてください』
また返答が無かった。煙が充満し始めて顔は良く見えないが、変わらず彼女は腕を引っ張り続けている。
『そもそも私はこの世界に未練なんて無いですから、化けて出たりなんかしませんよ。君の事も直ぐに忘れる。だから貴方もこんな男なんてわすれッ』
『うるさいッ!! 黙ってて下さいよッ!! 置いて逃げられる訳無いでしょ……見捨てるくらいなら、私は此処で貴方と一緒に死にますッ』
突然降ってきた余りにも感情のエネルギーが乗った声に呆気に取られる。
そしてとうとう火が回ってきたのか赤々とした光が周囲を満たし始め、女の顔が暗闇の下から浮き上がった。彼女は顔を涙でグシャグシャにし、踏ん張りの聞かない足でも必死に自分の腕を引っ張ってくれていたのだ。
その姿を見ていると、死を悟り全てを諦め凪いだ湖面の様に成っていた筈の心に次々とさざ波が起こっていく。彼女のあふれ出る感情が、腕を伝って全身を振るわせていく。
『辞めてください……ッ。此処に居ても二人共死ぬだけです。だから貴方だけでも逃げてくださいッ』
『嫌ですッ』
『後ろの瓦礫が見えないんですかッ。人間にどうにかできる重さじゃない、そんな事馬鹿でも分かるでしょうがッ!!』
『嫌ですッ!!』
『貴方が此処に居てなんに成るんですかッ!! 仕方ない、どうしようもないって奴です。今話している一秒一秒も時間の無駄ッ、時間を浪費するだけ。いいから……さっさと逃げろって言ってるやろうがッ!!』
『嫌ァッ!!』
何故彼女がここまで自分を救う事に頑なに成っているのか理解できなかった。
自分は所詮仕事上の付き合いの上司に過ぎない筈。共にした時間もそれ程長くはない筈だ。
其れなのに何故他人の範疇を出ない関係の人間にここまで拘る。自分程度の人間の何処に命を投げ出す程の価値を見出しているというのだろうか。
そうだ、自分は愚かで無価値な人間だ。結局何時も逃げてばかり、自分の本心と正面から向かい合う勇気が無くリアリスト気取って傷つかない様にしていた臆病者。
本当は金なんて欲しくない、キャリア何て興味が無かった。本当の自分は、ヒーローに成りたかったのである。運命を己の意思で決めることが出来て、嘗ての自分の様に助けを求め誰かが伸ばした手を掴んであげられるそんな人間に成りたかったのである。
だがどうせ成れる訳がないと諦めて、そして自信に溢れている人間に嫉妬した。その醜い感情を復讐だと言い張り逆恨みしていただけだったのである。自らの意思を貫けた事なんて一度も無い。
今回だってそうではないか、一度助けると誓った筈なのにもう諦めて自暴自棄に成っている。ヒーローに成れなかったのは、ヒーローごっこで終わらせたのは結局自分自身ではないか。
そして何時もチャンスが目前を過ぎ去っていくのを指咥えて眺めた後で、『現実は残酷だ』等とさも物知り顔で言うのである。
『……………グゥッ、誰か、誰か居ませんか!! 此処に未だ人が居るんですッ、助けてくださァい!! お願いですッ。誰でも、誰でもいいから助けてくださいッ!!』
周囲に人の気配は全く感じない、レスキュー隊が駆け付けこの階まで登ってくるにはまだかなり時間が掛るだろう。しかしそんな事は十分に理解した上で声帯が擦り切れる程の大声で叫んだ。
嫌だったのである。きっとこのまま何もしなかったなら泣きながら自分の腕を引っ張ってくれている彼女を言い訳にしてしまう、死ぬ間際でそんな醜態を晒すのは御免だった。
人生の最後くらい、何一つ諦めることなくこの世界に抗ってみたかったのである。
『誰か……ゲホッ、誰かおらんの、か…………ゲホッゲホッ!! 助けてッ、ゴホゴホッ、オエッ! ゴホッゴホッゴホッ!!』
分かっていた事だが、自分の命を削って発した言葉に対する応答は何一つ返っては来ない。そして人生最後の抵抗を嘲笑うかの如く煙は益々濃くなり、其れが肺胞に入って胸の奥が細かな針で突き刺されているかの如く痛んだ。
『だえ、ゴホッゴホッオォッフ…………たすけッゴホッゴホッゴホッ、アァァ、ゴホッゴホッゴホッ……オッ、ゲエェェッ……』
息を吸っても吸っても咳として出ていく。視界から色が抜落ちていき、世界がグルグルと回って上も下も右も左も分からなくなった。痛い、気持ち悪い、熱い、苦しい、怖い、感じる全てが地獄の苦痛を与えてくる。
死んだ方がどれだけ楽だろうかと思った、何度も心が折れそうに成った。それでもあえてこの地獄に身を置き、声は出ないが精一杯助けを求める叫び声を上げる。苦しみしかない生に其れでも固執し続ける。
そして奇跡的に一息だけ、たった一言だけ零す事を許される量の酸素を吸う事に成功した。人生の最後、命残り一滴を絞り出し発したのは自分の最も深い所から出た言葉。
『助けて、ヒーロー……』
ドオオオオオオオォォォォォォォォォォォンッ!!
三度轟音が建物を揺らし、三度目の爆発が発生して遂に建物崩壊の時が訪れたのだと思った。結局助ける事は出来なかった、人生の中で一度たりとも何かを成し遂げる事が出来ないまま死んでいく。
だがしかし同時に安堵も覚えていた。本当に最後の一瞬、苦しみや恐怖に心を揺らされながらも屈する事のなかった最後の瞬間だけは唯一生涯で誇っても良いように思えたのだ。
気が付くと瓦礫に押し潰されていた筈の下半身が軽くなっている。
痛みや衝撃を感じる隙もない一瞬で木っ端みじんに成ったのだろうか。だとすると目を開けた先に広がっているのはあの世の花園かも知れない。
そんな事を考えながら恐る恐る重い瞼をこじ開けた。
『……良かった、意識があるんだな! 待たせて済まない、そしてよく耐えた小さなヒーロー。聞こえたよ、私を呼ぶ声が! 我こそがルネフォンス・ハルトマン!! 君を助けに来たヒーローだッ』
数秒、自分が見ている光景に対して一切のリアリティーを感じる事が出来なかった。
だってそうだろ? 下半身に圧し掛かりあれ程の重さを伝えてきていた瓦礫が跡形もなく消え、瓦礫がなだれ込んできた方とは反対の壁が無くなって夜景が覗いていた。そして目の前にはマントを翻めかせながら音もなく宙に浮び、全てが消えた部屋の中此方へと手を伸ばす人影があったのだから。
その柔らかな笑顔、口元から僅かに見える白い歯、青い光を放つ瞳、全てが自分の頭の中で描いていたヒーロー像そのままだったのである。
『ヒーローは……実在したんやッ」
夢の世界と現実の世界が切り替わり、ディックの腕は真っ直ぐに何もない天井へと伸ばされていた。そしてそれが夢であった事に気付いた途端力が抜け、手の甲が眉間に振ってくる。
懐かしい記憶、今日にピッタリな夢だ。心なしか加齢に軋んでいた体が若返り、十数年前に戻った様である。
あれから随分と月日が流れた。彼は今でも変わっていない、だが自分は随分と変わってしまった。
「気にするな、お前はお前に出来る事をしろ。ワシの名前はプロフェッサーディックや」
仮面を被りながらピエロはそう自分に語り掛け、ベッドから跳ね起き今宵のパティー会場へと向かっていったのだった。
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