般若(ぱんにゃー) -かぐや姫は「スイッチを切り替えますか?」と聞いてくる-
田中ざくれろ
第1話 トロッコ問題
緑葉に桜花咲く、風の気持ちいい季節。
市立雨情学園高等学校の三階の教室の窓辺に立った黒髪ロングストレートの彼女の名前は『実相寺般若』。
珍しい名前だが読みは更に珍しく、般若と書いて『ぱんにゃー』と読む。
何故そういう読みになるかというと古代仏教に由来があるらしい。
般若というのは元元、仏教的には『深い智慧』とかいう意味がある言葉だという事だ。般若心経とかの般若ね。
その般若をパーリ語という言語ではパンニャーと言うらしい。
まるでペットの猫の様でおおよそ日本人らしくない名前だが、れっきとした日本人だ。
あたしだったらぱんにゃーなんて名前をつけられたら、親を恨んでグレるかもしれないけれど、彼女はそれを気に入っている。
そして、名前の不思議さが彼女の神秘的な美しさを際立たせている。
般若という名前から口が耳まで裂けた鬼を連想する人が多いと思うけれど、鬼女じゃない。
美少女だ。掛け値なしの。
その般若が今日も放課後に呼び出され、愛の告白を受けている。
二人きりじゃなくて、あたしもいるんだけれども。
「あ、あの……」
教室の机の天板に座ってじっと見ているあたしをちらちら見やる。
吉永君、あたしの事は気にしなくていいから。といっても気になるか。
でも般若はそう簡単にはあたし『六郷薫子』とは離れない。幼稚園からの親友だ。
恋の告白程度ではあたしは離れない。二人きりにはさせない。それはこの学園に通う人間なら誰でも知っている事だ。
これまでの恋の告白でもいつもそうだった。あたしがいつも特等席でくっついてる。それが嫌でも二人っきりの告白なんてさせない。
「あ、あの、実相寺さん。僕は今までずっと君の事を想っていました……」
同級生の吉永君の告白が始まった。そうそう、あたしの事は気にしなくていいから、般若にバーン!とぶつかっていきなさい。
「どうか、僕とつき合ってください! 僕はあなたの恋人になりたいです!」
よ-し、よくそこまで言った。度胸は人並みにあるな。
般若は幼小中高が一緒になっている市立雨情学園一の美人だ。立てば芍薬という奴だ。
普段、性格はとてもいいし優しい。
ほとんどメイクもせずとも、すれ違いざまにほのかにかぐわしい香りが香ってくるほど、清潔感がある。
これまでに彼女に愛の告白をしてきた男子は両手両足の指で数えてなお余る。
吉永君の告白だったら、あたしは受けるな。眼鏡君だけど顔は悪くないし、性格も難はないし。悪い噂は聞いた事がない。
たとえ一時でも恋人づきあいをするにはお得だ。
でも、どうせ般若はあれをするんだろうな。
小学生の時から恋の告白を受ける度にずっと繰り返してきた『あれ』を。
「吉永君……」
般若の態度に臆するところや変におごったところはない。いつも通り、切れ長の黒い眼が愛おしげに秀才君を見つめる。
「あなたの告白はとっても嬉しいです。……でも」
始まったみたいだ。般若が男子の告白を受ける度に繰り返している、いつものあれを。
「もし私を大事にしたいというのなら、この質問に答えてください」
やっぱり、また始まった。かぐや姫か、あんたは。告白する男子に対し、何十回、試練を与えれば気がすむんだ。
「……あなたは線路の傍にいます。その線路は物凄いスピードで走ってくるトロッコがあります」般若は一語一句違わずにいつもの質問を問いかけ始めた。「あなたは線路の分岐点で線路の切り替えスイッチの横にいます。線路のまっすぐ先には五人の人間が縛られていて、そのままトロッコが進めば五人は轢かれて死んでしまいます」こう言っては何だけどこの質問だけは悪趣味だよ、あんたは。「その線路は分岐路があって、あなたがスイッチを切り替えれば、トロッコは分岐路に入ります。しかし、その分岐路の先には一人の人間が縛られていて、トロッコがそちらに進めば、その一人が確実に轢かれて死んでしまいます」
何故か、いつもここで彼女は言葉を溜めて微笑む。
「ブレーキはありません。あなたはスイッチを切り替えて五人を助けますか? それともそのままトロッコを切り替えずまっすぐ進ませて一人だけ助けますか?」
ほーら、悪趣味なこの質問だ。
彼女は必ずこれを訊く。
般若は暴走するトロッコで五人を死なすか、一人だけを殺すかを問うているんだ。心理テストか。それを訊いてどうするというんだ。
「……『トロッコ問題』ですね」
吉永君はあまり驚いた様子もなく、この質問の通称を口にした。さすが成績常に二位の知識は伊達じゃない。
ちなみに一位はいつも般若だ。え、そこは読めていた?
しかし、彼はそこでしばしフリーズした。
そりゃ、そうだ。ここから先は頭のよさで答えるんじゃない。人間性を問われているんだ。
どちらが正解か。
選ばなければいけない。
このシーンに何十回とつき合ってきたあたしにも納得いく答が解らない。
あたしは調べた事があるんだけれど、トロッコ問題とは「ある人を助ける為に、他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で功利主義と義務論の対立を扱った倫理学上の問題、らしい。
自分の意思で切り替えるか。
自分の意思で切り替えないか。
答はシンプル、だけれども。
どちらが彼女に気に入られるか、吉永君は事前に考えてきたのだろう。
般若が恋の告白をしてきた相手に必ずこのかぐや姫問題を突きつけるのは、学園内ではもはやよく知られている事だった。
だから今では先に考えておく事は出来る。
それならば告白してきた男子は皆、答を考えておく時間はたっぷりあっただろう。
だが、しかし。
「言っておきますけれど」般若は微笑む。罪深い、無垢の笑みだ。「答えない、という答はありません」
三人だけの教室で無言の時間が過ぎていく。
春の教室には開いた窓からのそよ風が入ってくる。
思わず壁の時計を見たらじっくりと三〇秒がすぎていた。
「……僕は」吉永君の口がとうとう開いた。自分の未来を決断する真剣さだ。「自分がスイッチを切り替えて、五人を助けます」
胸の前で固く手を握り締める熱弁だった。
「でも、僕は見捨てたその一人の死を絶対に忘れません! 自らが行った許されざる行為を行った過去を決して忘れず、ずっとその罪を自分の心に秘めて生きていきます! 僕は罪を背負い、五人の方を助けます!」
おお。これが二位の秀才の答か。ここまで熱く語った奴は初めてだ。
それが正解かどうか解らないけれど、少なくともあたしは共感出来る。
そして、吉永君は自分の手を般若にとっておらう為に右手を彼女に向けて、差し出した。
それに対して、般若は、
「すみませんが、私はあなたとはつき合えません」
クール・ビューティーとして深深と頭を下げて、交際の申し出を断った。
何十人目だろう。あたしも数えるのを忘れた般若への告白の撃沈記録に吉永君は加わった。
「……この答では不服ですか」
「不服です」
彼は本当に悔しかったか、手を出したままで顔を伏せて肩をしばし震わせながら、やがて無言であたし達に表情を見せないように教室を早足で立ち去った。
泣いているのかもな。あたしはこれまでの撃沈された男子達の記憶を思い出している。記録更新だ。吉永君もその中に加わった。
「ねえ、ぱんにゃん」
二人きりになった教室であたしは般若に呼びかけた。彼女をぱんにゃんと呼べるのはあたし一人だけだ。
「勿体なかったんじゃない。吉永って結構いい奴だよ」
「私の欲する答を与えてくれなかったんだから仕方ありません」
きっぱり言い切る彼女は美しい。
天は二物を与えず、という言葉は彼女の知的さ美しさの前に裏切られる。
あたしみたいに一物も与えられなかった人間だっているのに。
あたし、六郷薫子は学年で古文以外の成績を常に最低域で漂わせているへちゃむくれだ。古文だって大した成績ではない。ただ昔の雑学が好きなんだ。
タレントのビートたけしが漫才師時代に「ひどいブス。整形手術で並のブス」という毒舌ギャグを吐いたらしいが、あたしはメイクして並のブスだ。
そんなあたしと実相寺般若とつるんでいるのは、彼女があたしを自分の美しさの引き立て役としているから、なんて事は勿論ない。
幼稚園からの幼馴染。気が合っている親友だからなのだ。
もしかしたら般若は一生、男子とはつき合うつもりがなくって正解のない答を出し続けているのかもしれない。
と、そんな事を思ったのは一度や二度ではない。
「そういう態度をとっていると一生、彼氏が出来ないよ。一生、処女のままだよ」
あたしは十何度目かの同じアドバイスを彼女にした。
彼女は唇を笑みの形にして、無言であたしの言葉を受け流した。
もしかしたらレズ? そんなことはないと思う、レズであたしの事を気にしている? それは絶対ない。あたし、ブスだし。
解っているのは彼女の究極の質問に答えられた男子は一人もいないという事だ。
風と共に桜の花びらが窓から教室に忍び入ってきた。
帰宅部のあたしと般若は教室を後にして、学園の玄関へと階段を降りていった。
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