言葉

 空に浮かんで前へと進む。台地を目指していた。魔物は殺す、その当然を成すために。


 傷は癒す。村は守る。魔物は殺す。そして救いは無い。


 僕は罪だった。ノウィンの森で世界で一番尊いものを跳ね飛ばした時から、僕は既に人間では無かった。自分とか心とかではない何かのため、そうでない全てのためにだけ動く事象的な存在を体現する事こそが僕の使命であるはずだった。


 強さ、丈夫さ、素早さ、火、水、雷、風、氷、土、木、光、力、聖、魔。


 こんなにたくさんの僕の中身はほぼ全てが何かを壊す事に帰結する。はじめからそれが解っていなければいけなかった。もう何を壊すかを間違えない。僕は人々を幸せにしなければならなかった。


「まっすぐだ。一瞬の飛行だ。そのための力だ」


 数多の視線を感じる。眼下に広がる地上には大量のドロシーの死体が転がっている。もう動かない不格好な人型のうつろな瞳がこちらへと向けられている。


 景色はめまぐるしく過ぎ去っていく。何処かに近付けている意識など微塵も無い。何かを成し遂げるためではなく、何にもならないのを終わるための飛行。地の底が地の底を維持し続けるためだけの可能性の閉じた航路。


「もうすぐだ、もうすぐ」


 台地が見えてきた。地上は黒で敷き詰められ、空は無数の視線に覆われている。切り立った台地だけがハッキリと僕の目に映り、時が近づいてくる。



 迷いを終わらせる。世界を元の暗さに戻す。


 世界は罪と似ている。ただ黒く、ただ暗く。何処までも広がり、何処からもこちらに来て。終わりが見えず、終わりにならず、いくら歩いてもそこはまだ世界で。苦しくて、痛くて、叫びたくて そして


 そこには歌が響いている。



「……え?」


 どこまでも広がる空の下、切り立った崖に囲まれた台地が眼下にそびえている。


 何か聞こえた気がした。声のような、音のような。だけど風のような、風に揺れる木の葉のような。


 魔法で干渉し、木の檻を抜ける。下を向くと、いつも通り木や石の家具が佇む台地。だけど近付くにつれ耳まで届いてくる。切り立った台地の端、風に揺れるように紡ぐ言葉の旋律。



 そこには白の魔物がいた。切り立った台地のふちに座り、風に向かいながら空と話すように口を動かしている。なびく髪が囲み木の隙間から刺す光に透き通り、高く通る声と交じり合って淡い虹を思わせる。聞くと見るとの区別が曖昧になるその感覚に従うのなら、魔物は歌だった。視線の先で音を奏でるその姿そのものこそがきっと歌だっただろう。



 風を操りながらゆっくりと眼下の地面へと降りる。足が土を踏みしめるのとほぼ同時に、目の前の歌は終わりを迎えた。


「魔物にも歌があるんだな」


 独り言のようにそう呟く。魔物は声で初めて気付いたのか、座ったままこちらに振り向いて笑いかけた。


「今日も来てくれたんだな」


 いつもと変わらない調子でこちらに声を掛けるプラチナ。なんとなく体の軸をずらし、手ぶらを隠してしまう。


「歌を歌っていたのか」


 誤魔化しのように口に出す。終わりにすると決意していたはずの僕は、目の前の魔物と同じ高さで話し掛けている。その言葉にプラチナが頷いて応えると、何故かそれだけでまた次のその場しのぎを探し始めてしまう。


「魔物にも歌があるなんて知らなかったからな。驚いたというか」


「あはは!」


 何の気なしに言った僕に、プラチナはおかしそうに笑う。


「魔物に歌なんてないよライト」


「なに?」


 さっきの今での発言に今度は素直な疑問の声が出る。プラチナは立ち上がり、脚の裏側をはらった。


「これは何処かで聞いた人間の歌をうろ覚えで歌っていただけさ。魔物は歌なんて歌わないよ、歌えば見つかるんだから」


 当たり前のようにそう言う。確かに森を歩いていて歌が聞こえてきたなんて話は聞いたことが無いが。


「魔物は何も持たない。もしも何か持っているとしたら、それは生まれた時にダンジョンから与えられたか、拾ったものだ。考えればわかるだろう」


 特別な事もないといった様子のプラチナ。


「だって、魔物には文化など無いんだから」


 そう言うプラチナの顔はついさっき僕に笑いかけた時と何も変わらなかった。


 何も持たない魔物。周りのほぼ全ての魔物には自我が無く、他の誰かから受け継ぐという事が無い。自分を生み出した魔王の事すら知らず、知ったとしてもそれは全て人間由来のもの。


「今日は何かあったのか。疲れている顔だ」


 思考の最中に目を合わせられ、ドキッとする。無造作に少しかがんで僕の顔を覗き込むプラチナに、思わず身を引いてしまう。


「まさかお腹が減って何か食べにでも来たのか? 私のとっておきの食べ物を奪いに来るとは小さい鳥と変わらないな君は」


 そう言いまたおかしそうに笑う。ほんの小さな事をからかうその様は日常の延長のようで、どこにも持っていけない感情で心が溢れそうになる。僕はもう食べ物の事なんて考えない。僕の行こうとしている場所に同じ卓を囲む魔物なんていないのに。


「お前、怖くないのか」


「え?」


 思わず口を開いてそう訪ねてしまう。魔物は唐突な質問に目を丸くしている。


「そんな距離の近い態度、怖くないのか。僕の機嫌を損ねて殺されるかもって思わないのか、こんな生殺与奪を握られた場所で」


 今まであえて言わなかったような事をわざわざ口に出す。今だってこんな事を言う必要は無い。目の前の魔物の困惑する顔を見たい訳じゃない。


「それは……思うけど……」


 プラチナは一瞬目を逸らした。誤字を指摘された生徒のような居心地の悪そうな顔。これで関係性が変わってしまうのではないかと、もはやどうでもいいはずの事を考える。


「だって、それは仕方がないじゃないか。言葉を……覚えてしまったんだから」


 なんだそれはと思った。言葉を覚えてしまったから? プラチナの返事は僕が想像していたどれとも違った。ずっと以前にこいつが言葉を覚えた事、それ自体のせいだとでも言うつもりなのか。


 考える僕の目は台地を見渡していた。近くの棚に本が置かれているのが目に入る。大袈裟な文体の大衆向け雑学本。町の市場で売られていた。


「ああ、その本読んだよ。色々な事が書かれていて面白かったな。でも文字が多くて読むのが大変だった」


「何?」


 先日置いていった本が読まれていた事を知る。そんな事はどうでもいい話だった。ただほんの少し気になっただけ。


「本は読み慣れているんじゃないのか?」


「何でだ? 本なんて人里にしか無いから手に入らないよ」


 確かに言われればその通りだ。人目を避け続ける魔物が本なんてそうそう手に入れられるはずがない。最初にこいつに会った時、おそらく人間の知識に精通しているのだろうと思った。それはこいつが多弁で理論派だった事と、それから……。


「そうだライト、って知ってるか!」


 唐突に勢い込んで話を振ってくる。日にきらめく瞳。


「この本に書いてあったんだ、マナはいずれ魔族を通して人間に収束すると! 私もそう思ってた! この戦いを持久戦に持ち込むと魔物の負けは確実なんだと! ワイアーム達は呑気に傍観者を気取っているが、やはり私の方が正しかったようだな!」


 それは一般的観点でただただ何を考えているのかわからないような言動だった。自らの身を置く戦争の戦略について、正にその敵対者に対して語る不合理さ。ついさっき指摘されたばかりの事をもう忘れたかのようにタブーを考慮しない語り口。


 思えばこいつは最初からそうだった。ワイアームと対立していた時、初めて会って質問した時、怪我が治った後に話をした時。こいつは圧倒的な格上に対してまでずっと可能な限りその口で言葉を紡ぎ続けていた。状況と噛み合わない理解不能に思えた行動原理。だがもしもその異様に納得できるただ一つの理由があるとすれば、それは


「……そうだったんだな」


「ああ! ワイアームは仕方のない臆病者達だよ!」


 辿り着いた先の言葉が口をついて出ていく。プラチナは僕の言葉を聞いて満足そうに頷く。


 ああそうか。そう。ただそれだけの事だったのか。


 前からずっと疑問に思っていた。何故明らかに強大な相手を前に不遜な態度なのかと。危険だと思わないのかと。


 明日の命さえ知れない無常の価値観によるものかとも思った。あるいは内に秘めた底知れない狂気のせいかとも。でも違った。そんなのは全く違った。



 こいつはただ人と話すのが好きなのだ。


 人と言葉を交わすのが好きで。複雑な打算よりも目の前の相手に自分の思いを口にする事が常に前に来てしまう。想像の中の大局よりもそこにいる一人の人間の方にいつも目が向いてしまう。ただそれだけだ。本当にただそれだけのやつでしかないんだ。


 星の数ほど生まれた同胞。その中でたった一人だけ言葉を覚えた自分。どんな事を考えてどんな風に生きてきたかなんてわからない。ただ一つわかるのは、その魔物は今人間に対して笑って話し掛けているという事。


「そもそもマナの加工技術を魔族が持たない時点で……なあライト、聞いてるか? わかりにくかったか?」


 こちらの様子をうかがうプラチナの顔を、僕もまた黙ってうかがう。今まで学術的知識にほとんど触れて来なかったと思わせない、高い知性のうかがえる着眼点と語り口。


 こいつはずっと隠れながら生きていた。話す事も歌う事も本を読む事も、何も満足にできた事はなかった。誰も出られない入れない檻に入れられて、初めてこいつは明日の事を考えずに生き始めた。自分の目が向く先を、本当の姿を知り始めた。


「なんだか今日は本当に静かだな。どうしたんだ」


 プラチナはそれがどんな意味を持つかなど気付かずに不思議そうに尋ねてくる。


「……なんでもないよ」


 背を向けて台地の崖に立つ。もう話していたくなんかない。魔物の話なんか聞いたってどうしようもない。


「なんでもないって何だ? いつもみたいに今日あった事を話してくれよ」


 口を閉じた僕はもう何も言う事はない。言葉など必要無い。今日まで交わした会話は全て無駄だ。


「いつもみたいに今日あった事を」、まるで日課のように言うじゃないか。僕がお前に毎日色んな事を話していたみたいに。そんな事は決まってない、話したところで何にもならない、僕の秘密はずっと僕だけのものだった。


 この世には言えるような事ばかりじゃないんだ。誰とも共有できず、孤独の中でただ持っている事しかできない言葉だってあるんだ。お前にはそれがわからないだろ、ただ一人で馬鹿みたいにべらべら喋るだけの魔物風情が。何も知らないくせに。何も知らないくせに。何も、何も


「私は君の事が聞きたい」


 耳の奥まで夕空が通り抜けるように、その声は僕の中に浸透する。全てに背を向けたはずの僕の世界で、遠くの木々がばさばさと揺れる音がする。


 数秒、何も考えなかった。そこに思考は無く、ただ感情だけがあった。僕はおかしくなってしまったのかもしれない。人のいない台地でずっと立ち尽くし、何かを見失ってしまったのかもしれない。


「僕は……」


 僕の知らない言葉が僕の口から聞こえる。思えばずっとそうだ。さっきからずっと、頭より先に心が僕を動かしている。僕みたいな存在の中で心がずっと動いている。


「僕は……ステラに酷い事をしたんだ……」


 それはこの世界に初めて言葉として紡がれた思いだった。合理は無い、打算もない。ただそこに生まれたから口にされた、それだけの言葉。


「ノウィンの?」


 僕は黙って頷いた。プラチナはこちらの顔をじっと見つめている。


「取り返しのつかない事だ……もう何かを言う事もできない……」


 立つ力も入らないように、台地のふちに座り込む。焼けた空を雲が流れていく。


「どうしてかな……どうしてこうなったのかな」


 いつも思っていた。どうしてこうなったのかと。僕は一体何処を歩いているのかと。


「ステラはいつも近くにいたはずなのに……なのに、いつの間にか僕は世界で一番彼女から遠い場所にいる」


 空に投げ出した足の裏に支えとなるものは何も無い。道の無い空の上でも唯一無二の僕は歩き続けてしまった。


 いつからだろう、彼女の姿を思い出さなくなったのは。彼女の声を忘れようとしていたのは。こんな場所には誰もいない。ここには僕しかいない。


 横で腰を掛けたプラチナは黙って僕を見ている。透き通る白の髪が風に揺れ、夕日に色を返している。


「笑いたきゃ笑えよ。僕は馬鹿みたいだ。僕のやっている事は全て間違っている」


 自嘲するように笑ってみせる。何を考えているのだろう。こんな事、こいつには関係ない。僕とこいつは何も関係が無い。言葉にしてどうする。ただ笑われるだけなんだ。


 だがプラチナは何も言わずに僕をじっと見続けていた。そして最後にそれと同じ顔で空を向き、少しだけ目を閉じて、開く。


「ずっと考えていたんだ。初めて君と会った日、君がなんであんなに怒ったのか」


 口にしたのはもはや忘れていたような話だった。魔物の嘘を問い詰めた。僕とこいつの最初の出来事。


「君は、ステラに謝りたかったんだな」


 心臓の近くを熱い何かが通り抜けた。急激に跳ねた訳ではない。だが僕の中を血が巡るのと共に何かずっと忘れていたようなものが目の奥に滲みだす。


「なんだよそれ」


 言い表せない感情に顔をそむける。上手く唾が飲み込めない。顔を見せる事ができない。そうして視界に地面を映していると、閉じていた手に何かを握らされた。


「あげるよ」


 顔の前に持っていって確認すると、それは一言で何と言えないものだった。色の違う鳥の羽根がやや不格好に重なった、綺麗と思えば綺麗かもしれない飾り物。粘土で接着しているのだろうか。僕の絵を馬鹿にしたくせに、自分だって言えたもんじゃないレベルの工作じゃないか。

 

 こんなのガラクタだ。もらってもしょうがない。使い道も無い。なのに何故か少しだけここにいてもいいような気にさせられる。握った手の中でその感触を確かめ続けている。


 僕が黙っているとプラチナはまた空へ向けて歌い出した。透き通った声の良く通る、だけどよく聞けばくだらない歌。台地の上で何を話したとか、紅茶を飲んだとか、そんな子供が考えたようなありふれた日常の歌。


 僕はほんとにおかしくなってしまったのかもしれない。魔物とこんな風に話をして、殺す事もしなくて。ノウィンの事も探し物も何も上手くいかないのに、なのにずっといつまでも一緒にいて。


「魔物にも、歌があるんだな」


 口の中で溶けて消える誰にも届かない呟き。僕だけが知る、僕だけが聞こえるこの思い。心の奥から世界へと現れた、僕だけの言葉。



 僕はこいつを殺さない。



 魔物が人を襲い、人が魔物を討つこの世界において。

 それでも。こいつだけは。



 赤く染まる景色に木々と大地が広がっている。空を鳥が飛んでいる。顔を上げていなくても、世界に存在する様々なものが解る。出会って初めて何も持たずに訪れたこの場所で、僕らはただ隣り合って座っていた。

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