ワイアームだった(感想)

 世界を這い回る大蛇とも評される、ドラゴンという種の中でも最上位のモンスター、ワイアーム。


 その瞳にはおよそ敵意とか警戒のような感情は欠片も宿っているように見えない。当然と言えばあまりに当然過ぎる話だ。ワイアームが誰とをするというのだ。


 ワイアームはその巨大な体を叩きつける事も強大な魔法を放つ事もせず、ただスッと口を開けた。その冥府の門のような深淵を抱えた口を。


 そしてワイアームはそのまま音もなく猛烈な速度で山の表面をはい回り始めた。死へと続く冥府の門をその身体の先頭に携えたまま1ミリたりとも山を削る事なくその巨大な体を進ませる。


 阿鼻叫喚のようなモンスターの声が響き渡る。ワイアームの巨大な口の中に次々とモンスターが飲まれていく。ワイアームが戦おうなどと考えないように、他のモンスター達も戦おうなんて考えない。ただその口から逃れようと行き場の無い山頂をやみくもに走り回るのみだ。


 思わず息を飲む。目の前をウロコの大壁が行ったり来たりしながら生き物を食い尽くしていく様は迫力があるとかないとかのレベルではない。でかいという事はただそれだけでその巨大さに比例する威圧感を持つ。どれだけ力の強い者がいたとして、体の小さな僕達人間がこの威圧感を真似する事は絶対にできないだろう。


 と、そこで目の前から壁……ワイアームの尻尾が横にはけて視界が開ける。その目の前にはこちらへと迫るワイアームの大口があった。


「うお!」


 相手のその巨大さ故に思考が追い付かない。剣を構え直しても意味がない。おそらく何処を斬っても薄皮一枚。剣では駄目だ。剣ではなく……剣ではなく……


 と、そこでそのままこちらを飲み込まんと迫ってくるかと思われたワイアームが向きを変えて曲がっていった。


「え?」


 そのまま行けば僕を飲み込めたはずのワイアームが何故かその直前で進路を変えた。それも一度だけではなく、その後も意図的としか思えないレベルで何度も僕を飲み込む直前で横にそれていく。


 嵐のように山を這い回るワイアーム。凄まじい勢いで一掃されていくモンスター達。僕はそれをただ横で呆然と眺めながら、突っ立っている。


 思い出していた。バリオンの街でパーティを組んで間もなく、モンスターについての講釈を受けていた最中に聞いたよもやま話を。




━━━━



「ワイアームは人を襲わない?」


 話の流れで耳に入ってきた言葉をそのままオウム返しに発言する。


「はい。一般にワイアームと呼ばれる最上位のドラゴンは人を襲わない個体が多いと言われています。もちろん伝説に残るような数多の人里を滅ぼした存在もいるのですが……」


 パーティメンバーとして数日の付き合いであるマリアは特に言い間違いとも言わずに説明をどんどん重ねてきた。魔物は本能で人間を襲う。だが上位のドラゴン、とりわけワイアームは人間に危害を加えない個体が多いという。


「なんで」


「ワイアームは力の強い魔物ですから、創造主に打たれた本能の楔すら断ち切る事ができるのですよ」


 マリアはしたり顔で言うが、納得いかない。


「説明になってないだろ。本能から解放されたところで、最強のドラゴンがちっぽけな小型生物に危害を加えない理由はないはずだ」


 人間だってわざわざ蟻を踏みはしないが、それは本能に抗えるからではなく哀れみの心があるからだ。ワイアームにもその慈悲があるのだろうか。


 マリアは少し目を細めて視線を上に向けた。


「うーん……そうですね、誤解を恐れずに言うなら……」


 先ほどの触りだけの説明と比べて、彼女は言葉を探すように間を開けながら喋る


「人間がからですね」



━━━━



 縦横無尽に巨大な竜になめ尽くされた山の表面にはもはやモンスターは一匹たりともいなくなっていた。


 最後にワイアームはスッと静止して僕を一目見た。特に何の事もなさそうに、それこそただ風景の一部を見るように。僕を見ていながら僕のことなんて眼中に無いかのように、その瞳には一片の興味を見出すこともできなかった。それこそ人間が路傍の蟻を見て、その蟻がどんな事が好きで何ができる蟻なのかなどと考えないように。


 竜はそのまま視線を逸らし、音もなく空へと昇っていった。僕はその巨大な姿が見る見るうちに小さくなっていくのをじっと見ていた。


「人間が怖いから……か」


 あの頃はまるでピンと来なかったその言葉。だが今ならその意味する所がハッキリと理解できる。


 ワイアームは目の前のちっぽけな僕のことなど見ていなかった。目の前の人間からはるか遠く……そのちっぽけな一つの生き物から連なる『人間』という種そのものを鋭く見据えていたのだ。


「最強の生物ワイアームにも……触れがたいものがある」


 人間は弱い。

 だが……その弱さは酷くだ。ともすれば世界そのものさえ飲み込んでしまいかねないほどに。


 僕はペンを握り込んだ拳を緩め、改めて山脈の反対側へと下りていったのであった。

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