絡新婦のおはなし

kgin

第1話 絡新婦のおはなし

 むかし、阿波の国のさびしい山中を一人のおなごが歩いておった。おなごは、滑らかな白肌のたいそう美しい姿をしておったが、体中におそろしい傷を受けて息も絶え絶えじゃった。ようよう細い小川の縁までたどり着いたけれど、そこで力尽きて気を失ってしもうた。


 夢の中で、おなごはひたすら人里から逃げておった。こちらに向けて弓矢を射る猟師たちや「よくもせがれに取り憑きおって」とにじり寄ってくる庄屋が、後から後からおなごを追うてくる。逃げて、逃げて、元おった山を一つ越え、二つ越え。目が見えぬおなごは、ふと足がもつれてばたりとその場に転けてしもうた。すかさず、おなごを囲う猟師たち。あわやとどめを刺される、というところで庄屋の息子の声がした。


「殺すんだけはやめてくれ!」


 おなごに生き血を吸われて痩せ衰えた声が山に響いた。おなごは、殺されかけた息子が身をていしてかばってくれたことに、たいそう驚いた。そして、優しい息子を殺そうとした我が身の浅ましさを恥じて、涙を流した。すると、それまで口々に罵っていた猟師たちは消え失せ、あとには冴えた月灯りとぼろぼろのおなごだけが残った。おなごは、何か生温い綿のようなものでくるまれておるような心地じゃった。痛くもなく、つらくもなかった。「ああ、これが死ぬということか」と、見えん目をそっと閉じた。




 ぱちぱちと薪のぜる音を聞いて、おなごは夢から覚めた。小川のせせらぎも獣のけたたましい鳴き声も聞こえん。風の音も聞こえんところ、ここは家の中じゃろうと思えた。煙のにおいに混じって、何かを煮炊きするようなにおいがする。身を起こすと、おなごの胸から煎餅布団のようなものがするりと落ちた。どうやら、誰かが倒れたおなごを助けてくれたらしい。体の傷には、薬草が当ててあるようじゃった。


「おう、気づいたかいな」


 戸ががらっと開く音がして、その方から癖のある男の声がした。


「はあ……お前さまがわたくしを助けてくれたのですか」

「そうじゃ。犬が吠えるもんじゃけん、行てみたらおまはんが倒れとる。山で倒れとる者を手当てするんは当然のこと。こんなあばら屋ですまんけど、連れて来たんじゃ」

「そうでしたか。ほんまに、何とお礼を言うたらええものやら」

「たいしたことちゃうわ。何もないけんど、治るまでゆっくりしていったらええ」


 おなごは「とんでもない」と遠慮したが、ええでないかと笑う男の声が心地よく、ついついほだされてしもうた。「では、治りましたらすぐに出て行きますから」と、しばらくここへおらせてもらうことにした。


 それからというもの、おなごは男の作った粥をすすり、煎じてもろうた薬を飲んで過ごした。男はたいそう世話好きじゃった。熱が出たおなごの額に当てた濡れてぬぐいを一晩中変えたり、おなごの体を拭いてやったりするのを全くいとわんかった。男の看病の甲斐あって、おなごは日一日とよくなっていった。

 傷が癒えてきたおなごは、何か男に恩返しがしたいと言うて聞かんかった。「まだ治りきっておらんから無理はせんでええ」と言う男じゃったが、おなごはどうしてもと言うて家のことを何やかやとするようになった。掃除、洗濯、犬の世話……。何より男が驚いたのは、おなごのつくろい物のうまさじゃった。目が見えんはずのおなごはいともたやすく糸を扱うて、破れた男の服を繕うていった。それはまるで蜘蛛が糸を吐いて巣をはっていくような鮮やかさじゃった。おなごは何をやらせてもそつなくこなしたが、たった一つ。男は炊事だけはおなごにはさせようとはせんかった。おなごに食わせる粥とは別に、いつも何やらわからんものを煮炊きして、自分だけ食うておった。男は実にうまそうに何でもよく食うた。貧しい食事時でも、男がにこにことうまそうに食うのを聞いておると、おなごは心がほっと温かくなるような心地がした。けれども、おなごは男に心を寄せる我が身に気づく度に、なんとも悲しそうな顔をするんじゃった。


 季節は巡って、おなごがあばら屋に来てから半年が経とうという頃、おなごの傷はすっかりよくなっておった。傷がよくなるにつれて、おなごはなにやら思い詰めたような顔をすることが増えた。


なんぞ気がかりなことがあるんか。何でも言うてみい」


 男はなんべんもおなごに問いかけたけれど、ただただ首をふるばかり。しまいに、真珠のような涙をぽろりとこぼしたかと思うと、わっと泣き出す始末。なんとかなだめて、泣き疲れて眠ったおなごの肩を抱きながら、「これは一体どのようなおなごじゃろう」と、男はますます不思議に思うのじゃった。


 ある日、男が山から帰って来ると、おなごは板間にきちんと座って待っておった。


「今までたいそうお世話になりました。お前さまのおかげで、傷もすっかり治りました。急ではありますが、今晩お暇させていただきとうございます」


 驚いた男は、


「傷が癒えてもずっとおったらええでないか。いつまでもおってくれてもええんじゃぞ」


 と、必死に引き留めた。それでも、おなごは暗い顔をしてうつむいたままじゃ。


「おまはんは、昔のことを気にして遠慮しとるんかもしれんけどな。わしはそんなん、いっちょも気にしてないけんな。……わしは、おまはんさえよければ、夫婦めおとになってもええと思いよるんじゃ」


 それを聞いたおなごは、はっと顔を上げて男の方を向いた。一瞬顔がぽーっと赤うなって、それが嘘じゃったかのように赤みがさあっと引いていった。あとに残ったのは、青い顔をしてうつむいてしまったおなご。しばらくそうして黙りこくっておったが、覚悟を決めたように座り直すとぼつぼつと語りだした。


「わたくしは、元々貧しい村から売られた女郎でございました。つらく苦しい女郎屋暮らしでしたが、あるとき商家の若旦那と出会うて恋仲になりました。いずれ身請みうけをしてやるから、そうしたら夫婦になろうと誓ってくれておりました。そんな折、わたくしは悪い病にかかって、終いに目が見えなくなってしまったのです。わたくしの目が見えなくなったと知るや、男はあっさりわたくしを捨てて、その後すぐに嫁をとったと聞きました。なんでも、嫁入りしたおなごは幼い頃から許嫁の間柄だったとか。わたくしのことは、婚礼前の遊びだったのです。男への恨み、憎しみのために、わたくしは人の心を捨てました。」


 おなごの瞼がすうっと開くと、瞳が何とも悲しく輝いた。


「山に入ったわたくしは、物の怪になりました。わたくしを捨てた男を祟り殺しましたが、憎しみは晴れません。ついには大きな家で婚礼がある度に、里に降りて婚礼前の男に取り憑き、生き血を吸うて殺すようになりました。一人殺せば殺す度、憎しみと悲しみは増していきました。

 あなた様と出会ったあの日、わたくしは例によって里に降りて庄屋の息子の生き血を啜っておりました。そこを猟師に襲われて、あわやとどめを刺されるかというところで息子にかばわれて……命を助けてもらいました。優しい息子を殺そうとした我が身の浅ましさに耐えかねて、山で死のうと思ったところをあなた様に助けられたのです。

 あなた様と暮らしておりますと、わたくしがほんまに求めておりましたのは恨みを晴らすことではなく、恋うた男と夫婦になって幸せに暮らすことじゃとわかって参りました。けれどもわたくしは、幸せに暮らすには人を殺め過ぎました。あなた様のお言葉はほんまに嬉しいのですが、わたくしは何人もの人の生き血を吸うた醜い物の怪です。わたくしのことを思うていただけるなら、どうか引き留めてくださるな。このままあなた様と暮らした幸せを抱いて、死んで行きとうございます。」


 聞くもつらけれど語るもつらし。おなごはさめざめと涙を流したのじゃった。


「おまはんにどんな過去があってもかまわん。わしはおまはんを好いとるんじゃ。」

「そう言えるのは、わたくしのほんまの姿を知らんからです」

「おまはんが物の怪でも、わしの心は変わらん」

「……わかりました。それでは、しっかと目に焼き付けなされ。わたくしの醜い姿を」


 そう言うたおなごが腕を伸ばすと、白く清らかじゃった腕は見る間に節くれ立った毛だらけの脚に変わっていく。胴は黄、赤、黒の斑模様。鋭い牙と長い脚を持ったそれは、畳一畳はあろうかという巨大な女郎蜘蛛じゃった。


「どうじゃ、お前さま。とてもでないけど、こないなおなごと夫婦にはなれんとお思いじゃろう」


 男は口をあんぐりと開けて、呆けたようにその場に座り込んでおった。しばらくそうしておったじゃろうか。男はすっと立ち上がると、炊事場の壺を手に取った。この壺は、男が山から捕ってきた飯の材料を入れておくのに使っておった。男はおなごの前でこの壺の中身をぐわっとぶちまけた。


「……!何ということじゃ」


 その壺の中からは、出るわ出るわ。蛇やら百足むかでやら蛙やら。おぞましいほどたくさんの虫たちがうごめいておって、まるで蠱毒こどくのようじゃった。


「……わしがこんな山奥で住んでおるのは、これのためじゃ。げてものばかり食うておったら、里の者らに嫌われてな。今や一緒におってくれるんは、おまはんだけじゃ」


 そこで男は、座り直して言うた。


「おまはんが死にたいと言うなら死になはれ。じゃが、死に急ぐことはなかろう。わしと夫婦になって楽しゅう暮らして、それでもやっぱり死にたいと思うたときは言うてくれ。わしは、蜘蛛は好きじゃ。おまはんがどうしても死にとうなったら、わしが食うてやる」


 目が見えんおなごでも、男がまっすぐこちらを向いて真剣に言うておるのがわかった。おなごはたいそう戸惑うたが、男にそっと頭を抱かれるにつけて、そっと目を閉じて身を男にまかせたのじゃった。


それから、二人はおなごが死ぬまで幸せに暮らしたそうな。女郎蜘蛛はその後、二度と里に姿を現すことはなかったということじゃ。



めでたし めでたし

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