第88話 悪友は相変わらずだった



 目を覚ましたら、また一日が始まる。

 そうして一日一日が過ぎ、楽しい日や悲しい日なんかを経験して年を取るものだと思っていた。

 それが当たり前だって。

 俺だけじゃない、この世に生きてる人みんなが思っているはずだ。




「よお、具合はどうだ?」




 病室で窓の外を眺めていると、相変わらずの胡散臭い笑いを浮かべた男が入ってくる。

 その手には缶コーヒーが二つ。

 コンビニの袋ではなく無地の小さな袋に入っていた。

 たぶん、パチンコの景品で貰ったコーヒーなんだろうな。

 黒鉄らしいと、ずっと会っていなかったわけじゃないのに懐かしいと思った。




「まあまあだな」


「そうか。で、記憶喪失に二重人格の最強コンボにかかった感想を聞かせてくれよ」


「容赦ないな」




 変に気を使われないのが、逆に有難かった。

 冷たくもなく熱くもなく、ぬるい缶コーヒーを渡された。




「記憶喪失……というか、まあ、最近の記憶が無いのは違和感あるな。長い間、眠っていた感じだ」


「長期休暇ってやつだな。新入社員にしては、いいご身分だな?」


「うるせえよ。……二重人格ってのも、正直なところ燈子さんの嘘なんじゃないかって思ってる。それぐらい、なんも感じないんだ」




 ──燈子さんから聞かされた。

 俺は二重人格で、つい先日まで別の人格がこの体を動かしていたんだって。

 なんの冗談かと笑った。

 だけど燈子さんは、笑ってくれなかった。

 だから真剣に考えた。そしたら、この数週間で記憶が無い部分やいきなり意識がはっきりとした感覚があった。


 ……目を開けたら、ラブホでメイを犯していた。


 まるで夢のような出来事は、俺が俺としての人格を取り戻した瞬間だったらしい。

 だけどすぐにまた眠ったような感覚に襲われ、次に目を開けたのは──病院の病室だった。




「……メイは?」


「ああ、あいつな。この病院、出禁だってよ」


「出禁?」


「病人を夜中に連れ回して、ラブホで盛ったことで出禁だ。まあ、それだけじゃねえけど。お前が目を覚ましてからあいつ、毎日のようにこの病院に忍び込もうとしてんだよ。『メイの先輩を返して!』ってな」


「メイ……」


「お陰で警備会社は大繁盛だ。待合所で騒ぐ厄介な客が来ないか警備員の数を増やさねえといけないからな」




 黒鉄は些細なことでも笑い話に変えようとしてくれていた。

 普段じゃ絶対にありえない優しさに、言葉にはしないが気を使わせているのが伝わった。

 



「彩奈は?」


「……さあな。あれ以来、病院には来てねえよ。お前に嘘付いていた罪悪感があんじゃねえのか」




 彩奈のことも、燈子さんから聞いた。

 話を聞いたときは、少しだけショックだった。

 二重人格と言葉では簡単に表せる。だけど自分が二人いるのとも、同じ体だというのも違う。


 ──自分だけど自分じゃない別人、他人だ。


 もしかしたら意味は違うかもしれない。

 だけど”彩奈が選んだのは俺じゃない俺”だと思ってしまった。

 メイが俺じゃない俺を選ばなかったように。




「何ニヤついてんだよ」


「誰が?」


「いや、お前だよ。なんか楽しいことでも思いついたのか?」




 黒鉄に言われて首を傾げる。

 でも確かに、少し気分が高揚していた。

 彩奈が俺を選ばなかったと悲しんでいたはずなのに、なぜだろうか。




「ああ、そうか」




 楽しみなのかもしれない。

 俺を選ばなかった彩奈を、俺の女にするという行為ができることに。


 ──メイにご執心だった神宮寺からメイを奪って、俺に依存させたときみたいに。




「今まではさ、クソみたいなこと思いついても考えないようにしていたんだよ。倫理的に駄目だとかいろんなこと考えて。だけど目を覚ましてから、そういうのがすっぽり抜け落ちたみたいなんだよ」


「善人の部分をもう一つの人格が持って行ってくれた……とかってやつか? 随分と都合のいい二重人格だな」




 メイを依存させて、これ以上は一緒にいたら駄目だと思い別れた日。

 今の俺だったらたぶん、あの日──メイから逃げなかっただろうと思う。

 むしろもっとおかしく、それこそメイを壊してしまっていたと思う。

 そうなった光景を想像しただけで心が躍る。黒鉄の言うように、善人の部分をもう一つの人格が持っていったのかもしれない。




「じゃあ逆によ、悪人のお前の人格が消えて善人のお前が残ったら、めちゃくちゃいい奴が誕生するってことか?」


「聖人の誕生だな。もしそうなったら、もう一つの人格に総理大臣になれって言ってくれよ。そしたらこの日本がいい国になるぞ?」


「あ? 聖人がいい総理大臣になるとも限らねえだろ。悪い奴に騙されて、この国を破滅に導くかもしれねえだろ? 人の上に立つのは悪知恵が働く今のお前みたいなののほうがいいと思うぜ」


「それもそうか。じゃあ、総理大臣にでもなるか」




 窓の外を眺めながら、自分でもくだらないと感じるような思い付いた話をしていた。

 



「じゃあ、総理大臣になったら俺に国の金よこせよ。ギャンブルで何倍にもしてやるよ」


「絶対に0になるだろ。総理大臣になったら、お前とは縁を切るな」


「チッ、薄情な奴だ」




 そう言うと、黒鉄は立ち上がり伸びをする。




「本当に善人と悪人の人格に分離したなら、俺は悪人のお前なら大歓迎だぜ。退屈だった俺の一日が楽しくなるからな」


「お前が楽しみたいだけかよ」


「ああ、そうだ。なんか悪いのか? ……人間なんて所詮、自分が一番大事でいいんだよ」




 何か言いたげな表情の黒鉄。

 だが何も言わず、部屋の出口へと歩く。




「そういえば、明後日には退院だってな。聞いてたか?」


「ああ、もう怪我は完治したからな」


「じゃあ、退院祝いに飯でも奢ってやるよ」


「黒鉄が奢り? その退院祝いって、カップ麵でのお祝いか?」


「はっ、ちゃんとした牛丼屋だよ。並盛に卵トッピングしてやるよ」


「最上級の退院祝いだな」


「だろ? ”今のお前にだけ”特別だからな」




 騒がしい奴は帰っていった。

 一瞬にして静かになった病室で、俺は天井を見つめる。




「あいつが俺に何度も気を使ったか……。隠し事してんのか」




 付き合いは短くとも、黒鉄のことはそれなりに理解しているつもりだ。直観でそう思った。

 だけどそう思えたのは、黒鉄と会う前に燈子さんと話をしたからだろう。

 燈子さんも俺に何か隠しているように感じた。燈子さんと黒鉄は、その隠し事を共有しているんだと思う。




「記憶喪失のことか。二重人格のことか。どっちにしろ、楽観視できないんだろうな」




 記憶喪失になる人も。

 二重人格に目覚める人も。

 この世にそうはいないはずだ。

 たった一回の人生で同時に体験できるなんてラッキーだなと、笑えないようだ。

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