第62話 知らない、第一歩
僕の名前は橘恵。
22才、大学を卒業して、GG株式会社に就職した。
業務内容は主に配信者さんのマネージャー業務をしている。
趣味とかはなくて、運動とかもあんまり得意じゃない。
……らしい。
僕の言葉の語尾には全て”らしい”と付く。それは僕が記憶喪失だからだ。
担当する女性をストーカーの魔の手から救い、庇った時に僕は階段から落ちた。
その影響で頭を打ち記憶喪失に。
右手も骨折していて、体のあちこちを縫う大怪我を負った。
それでも生きていたのは、病院に搬送されたのも早く、手術も迅速に行ってもらえたかららしい。
「恵、お母さんもう少しで来てくれるって」
「え、ああ、お母さん……お母さん、僕のですか?」
「そう、恵のお母さん。それと私に敬語は使わないで。私はあなたの彼女なんだから」
眩しい日差しが降り注ぐ早朝。
記憶喪失だという僕に彼女──
肩ぐらいまでに切り揃えられた黒髪に、整った輪郭。モデルさんのように高い身長に、すらっとした細身の体型。
男性女性問わず人気のありそうな綺麗な女性。
そんな誰もが見惚れる彩奈さんは、どうやら俺の彼女らしい。
「あの、彩奈さん」
「もう、またさん付けで呼んで」
「えっと、彩奈……?」
「うん、なに?」
「その、本当に彩奈は僕の彼女なんです……えっと、なの?」
信じられない、こんな綺麗な人が僕の彼女なんて。
「そうだよ。実家がご近所さんで、ずっと一緒に育った幼馴染で……中学生の頃に一回、別れちゃったけど。だけど仕事で再会して、今はマネージャー兼恋人」
「そう、なのか……。ごめん、そんな大事なこと忘れちゃって」
「……いいの、そんなこと」
彩奈はベットの上で体を起こす俺に顔を寄せ、優しく口づけをする。
「ちゅ……。これからたくさん”新しい”思い出を作ろう?」
「あ、うん」
「恵、顔真っ赤。キスするの恥ずかしい?」
「そ、それは、まあ」
「ふふ。前のあなたは、こういうとき自分からしてくれたの」
「僕から……?」
「そう。はい、キスして……」
頬を赤らめた彼女が唇を突き出す。
記憶はない。だけど求められているならしてあげるべきだ。
俺は照れながらも、これまで何度もしたであろう彼女にキスをする。
「んっ、優しいキス、好き……ねえ、もっとして?」
「え、はい、わかりました」
「ふふ、また敬語になってる……んっ」
目を閉じた彩奈に何度も唇を重ねる。
蕩けるような心地よさに、気付いたらお互いの手の指を絡めながら求めていた。
たぶん僕は、これまで何度も彼女とキスしていたんだろう。
何も覚えてない、何も思いだせない。
それでも体がキスの仕方を、この心地よさを覚えている。そんな感じだった。
「……こほん!」
「「──ッ!?」」
ずっとしていられるぐらい夢中になっていると、ふと咳払いが聞こえた。
僕と彩奈は同時に顔を離すと、知らない女の人が立っていた。
「お、お母さん!」
「お付き合いしているのだから、そういうことするのも結構だけど……周りが見えないぐらい熱くならないでね? 一応ここ、他にも患者さん入院してるんだから」
「す、すみません」
「まったくもう。……それより、無事で本当に良かったわね、恵」
「え」
その女性はさっきまで苦笑いしていたのに、俺を見るなり涙を流して喜んでいた。
理解できないでいると、彩奈が女性の肩を抱きながら、
「恵、あなたのお母さんよ」
「僕の、お母さん……」
だそうだ。
なんて言えばいいかわからず固まっていると、お母さんは僕の手を握る。
「彩奈ちゃん、恵の記憶はもう、何も覚えてないの……?」
「……はい。先生も全ての記憶を失ってしまったと仰っていました。せめて子供の頃の記憶だけでも残っていたら」
「そう。そうなので。……ううん、残念だけど、命が助かっただけでも神様に感謝しないと」
「お母さん。本当に、今回は私のせいで──」
「謝らないでちょうだい、彩奈ちゃんも被害者なんだから。全て犯人が悪いんだから。……犯人、逮捕されたのよね?」
「はい」
犯人というのは彩奈のストーカーで、須藤という女性らしい。
「そう、良かったわね。彩奈ちゃんもこれで安心できるもの」
涙を拭ったお母さんは椅子に座り、隣に座った彩奈に問いかける。
「そうですね。ただ今回の件で、お仕事を少しの間おやすみさせてもらうことにしました」
「そうね。それがいいわね。犯人が逮捕されたといっても怖い思いしたもの。休めるならたくさん休んでね」
「はい。それに……」
彩奈は俺の手を握る。
「お仕事をおやすみして、恵の側にいたいんです。私のせいで記憶を失って、右腕も骨折して……。ずっと側にいて、支えてあげたいんです」
「いいの? 無理してない?」
「全然無理なんてしてません。それでお母さんに相談があるんです」
「私にできることならなんでも言って」
「記憶喪失の恵を知らない人と同室にするのは心配なので、個室の病室に移動しようかと思ってます」
「個室に?」
彩奈は「はい」と大きく頷いた。
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