第56話 天国から地獄



『さあ、スタートしました!』




 実況の声と共にゲートが開く。

 俺を含めた数名の男たちが中継の画面を食い入るように睨み付ける。




「いけぇ……ゴラあッ! 逃げろ逃げろ、おい下げんじゃねえぞ横田あああああッ!」




 隣に立つ黒鉄が豹変する。

 怒号を吐き散らしながら単勝を買った馬の騎手の名前を叫ぶ。

 すると周りの連中も次から次へと自分の夢を託した馬や騎手の名前を叫ぶ。


 一瞬にして動物園と化した。

 こうはならまいと、俺は一人冷静に見守る。




「よし、逃げたな……おいおい、外の馬、被せてんじゃねえぞッ!」




 黒鉄が何か言っているが、何を言っているのか一つもわからない。




「俺たちが買った馬は単騎で逃げてこそ本領を発揮する馬だ。いいぞ、そのままそのままだ!」

「あ、ああ。ちなみにお前の予想に乗って1万円の単勝を買ったが……当たったらいくらになるんだ?」




 そこんとこ聞かないで、というか、買った瞬間に購入締め切りになって気付いたらレースが始まっていた。




「……15万だ」

「15万!? えっ、マジ!?」

「ああ。そして俺は5万買ってる」

「ってことは……」




 俺が15万なら、こいつは75万!?

 それを聞いた瞬間、俺は唾を飲み込んだ。

 そしてレースは最終直線、俺と黒鉄が買った馬が──先頭だ。




「よし……よしよし、そうだ。そのまま逃げろ、まだ余力を残してんだろ、なあ、横田ああああああッ!?」

「いけ……」




 気付いたら声を発していた。

 拳を握り絞め、画面を力強く睨み付け、大きく息を吸う。




「そのまま、逃げろおおおおッ!」

「差されんな、そのままいけ……ッ!」




 他の客が他の馬の応援を始めた。

 その大きな声援に負けじと、俺と黒鉄も叫ぶ。

 何年かぶりにこんな大きな声で叫んだ。しかも人の目も気にせず、ただの画面を見ながら。




「逃げろッ! 逃げろッ!」

「後ろの馬くんじゃねえッ! 俺の、俺たちの万馬券だぞ……ッ!」




 残り200メートル。

 未だに先頭を走る俺と黒鉄の夢、いや希望。

 だが後ろから他の客たちの希望が力強く迫ってくる。


 叫んだ。叫んで叫んで。

 残り100メートル。

 俺たちの希望のすぐ隣を、他の客たちの希望が並び──。




「「ぐああああああああッ!」」




 俺と黒鉄は同時に膝から崩れ落ちる。

 クビ差の二着。たったクビの上げ下げで俺は15万を、黒鉄は75万を手に入れられなかった。




「う、うう、うあああああッ! なんで、なんでだよおおおおッ!」




 黒鉄は何度も床を殴った。

 そんな黒鉄の姿を見て、俺も一緒に──とはなるわけもなく、むしろ一瞬で冷めた。




「やっぱ、ギャンブルってクソだわ」




 一万円で買った紙切れをゴミ箱に捨て、俺はすぐ近くのもつ煮込みを売っているおばちゃんに500円のもつ煮を注文する。

















 ♦

















「あとちょっとだったんだ、クソ……あとちょっとだったんだぜ」

「ああ、そうだな。というより、なんで二着でも当たるやつにしなかったんだよ、単勝15倍なら二着のやつでもそれなりの配当付いただろ」

「複勝な。ああ、付いた。だけど自信あったんだよ、絶対に勝つって。昨日あんだけ新聞読んで、過去のレース映像も見たんだぜ? なのに、なのに、二着って……」




 二着でも十分凄いだろ。

 というより前日から新聞を読んでレース映像見てって凄いな。

 まあ、買い方が下手くそなんだろうな、たぶん。




「まあ、呑めや。奢ってやる」

「うう、すまねえ……今日は俺が奢ってやろうと思ったのによお」




 馬券も俺の金だしもつ煮もビールも俺の金だが、まあ、めっちゃ悲しんでるから言わないでおくか。




「ん?」




 と、そこでスマホが鳴った。




「あのエロ狐の用事ってのが終わったのか?」

「っぽいな、じゃあまたな」

「おう、楽しんでこいよ」




 へっ、と笑った黒鉄に「何をだよ」とため息をついて立ち上がると、電話の相手はメイじゃなかった。




「え」




 だから立ち上がったまま固まって、再びイスに座った。




「どうした?」

「いや、メイからじゃない……彩奈からだ」

「彩奈? って、たしか幼馴染で中学校の頃の元カノか?」

「ああ。なんだろ、メッセージしてから電話が基本なのに」




 俺は不思議に思って電話を出た。

 騒々しい場所から離れてという考えが出なかった。




「もしも──」

『恵、助けて!』




 周りの騒々しさよりも大きな助けを求める声が耳元で響く。




「助けてって、ど、どうしたんだ!? 何かあったのか!?」

『わ、わか、わからないの、な、なんか、包丁を持った人が家に!』

「包丁!?」




 そう言った瞬間、俺は立ち上がった。

 黒鉄も箸を止め、ビールが注がれていたマグカップを置くと外へと出て行く。




「彩奈、一回落ち着け。包丁を持った奴が家に来たのか?」

『ち、ちがっ、家に帰ろうとしたら、いきなり声かけられて……それで、それで、怖くなって逃げようとしたらバックから包丁を取り出して』




 電話越しであっても彩奈の震えた声から相当な恐怖状態にあることが伝わってくる。



 

「今、彩奈はどこにいるんだ?」

『近くの公園……でも、たぶん近くにいる』

「いるって、その包丁を持った奴か?」

『う、うん、目が、目が怖かった……たぶん、あ、あの人だと思う』

「あの人?」

「おい、タクシー呼んだぞ!」




 外に出ると、黒鉄が気を効かしてタクシーを呼んでくれていた。

 俺と黒鉄はタクシーに乗り込み目的地を伝える。




「あの人って、その犯人のこと知ってるのか?」

『た、たぶん……前に恵に相談した、SNSで私のプライベートのこと言ってきた人』

「それって」




 すぐに出てこなかった。

 だけど少しして思いだした。

 あれはそう、俺が彩奈のマネージャーになってすぐにSNSで執拗にプライベートのことを忠告、警告──そして、強制してくるファンのことだ。

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