人でなし
河本だ,と煙草の男は短く自己紹介した。
どこの人間で,何のためにここにいるのか,知りたい情報は一切教えてもらえなかったが,聞く気にはなれなかった。
頭のおかしなやつには何人も出会ってきたが,話が分からない野蛮な奴というのがいる。目の前の男もそうなのだろう。それなりのポジションを築き上げたのだろうが,まっとうな道を通ってきたとは思えない。この男の得体のしれない不気味な雰囲気を刺激するなと,本能が訴えている。
「腫物に触るようにする必要はない。こちらから話と要望がある。それを伝えに来た。ノーを言う権利はないが,君を傷付けるつもりはない。今の段階ではだが」
初めて,河本と名乗る男が歯を見せた。不自然に白い歯が,薄暗い部屋の中で際立っている。かろうじて口角が上がってはいるものの,鉛色をした目は笑顔とは対角線上にある。冗談には聞こえない重たさが彼の言葉にはあった。
「やり手の営業と聞いたが,意外と口数の少ない男だな。まあいい。おれは政府の役人だ。単刀直入に言おう。プレミアムリビングに今後一切近づくな」
山下が昨日言ったことと同じ内容が,河本の口から出た。山下の言葉が園児に指図する大人の威圧だったのに対し,河本のものはテリトリーを守る猛獣を思わせる違いはあるが。
これは交渉だ。相手に有利に進められていては,良いことにはならない。
ひるんでいることが悟られぬよう,出来るだけゆっくり,はっきりと口を動かす。
「僕がプレミアムリビングで情報を仕入れることで,何か不都合がありますか?」
河本は一瞬考え,表情を変えずに質問に答えた。
「これからは外回りも無いんだ。時間の無駄だと思うが,今のポストで満足か?」
「今の仕事内容に不満はありません。やりがいも感じています。もちろん,出世もしたいし,いつかは営業ではないポストに就きたいとも思っています。ただ,どうしてそんなに僕をあの会社から遠ざけるのか,その理由が知りたいんです。でないと,僕はきっと,またあそこに行きます」
河本はめんどくさそうにため息をつき,萬田社長と顔を見合わせた。社長が「話した方がこじれないだろう」と呟くと,河本は二本目の煙草を取り出し,ジッポで火をつける。
灰皿役の出番だぞ,と山下の顔を思い浮かべ,そんなことを考える余裕があることに自分でも驚く。
「話してください。そうすれば,割り切れます」
炎が上がるのではと期待してしまうほど,勢いよく火種を作って肺に煙を取り込む。そして,口の端から細長く煙を吐き出した。その一吸いで満足したのか,そのまま煙草を床に落とし,革靴で踏みつぶした。
「今から話す情報を漏らしたら,考えられる最悪の事態が待っていると思え」
「山下課長の代理で,灰皿係をやらされるとかですか? あれはあの人にしか出来ません」
「余裕が出てきたな。だが,冗談だと思わないでくれ。お前の家族にも,身内にも災難が降りかかる。そして,お前がちょっかいを出しているプレミアムリビングの従業員に直接関わる話でもある。そいつをスクラップにしたくなかったら,他言無用で頼むぞ」
つばを飲み込む音が響く。災難ってなんだ。スクラップ? 言葉としては理解できているのに,単語と情景かみ合わない。どう意味だと訝しみながら,河本の次の言葉を待つ。
「プレミアムリビングが,倒産目前の会社だったのは知っているか?」
「知っています。今は経営者が変わり,業績が右肩上がりであることも,それにまつわる黒い噂も」
「そうか。それなら話が早い。どんな噂を耳にしたかは知らんが,事実だと思ってくれてもかまわない。いや,もっと衝撃を受けるかもな」
「はっきりと言ってください」
焦燥感から,苛立ちが隠せない。あの会社に何が隠されている。アイさんは,何を抱えこんでいるのだろうか。
「あの会社のやつらは,人じゃない」
部屋の中を沈黙が支配する。河本が言った言葉を理解するのに,時間が必要だった。言葉を咀嚼し,脳内で変換されると,怒りが押し寄せてきた。
「ふざけるな! 経営にあなたがどう関わっているのかは知らないが,そんな考えのやつがいるから企業の体質がああなんだ! 社員が何時に帰っているか知ってるか? どんな生活を送っているか知っているか? あの人たちにも人生がある。幸せに生きる権利がある。それを踏みにじって売り上げを立てて,いったい何になるんだ!」
息が上がる。言いたいことはまだあるのに,呼吸が整わず頭がくらくらしてくる。
河本は睨みつけたが,おれとは対照的に冷え切った態度で座れと合図をした。萬田社長がおれをなだめる。河本も,おれが落ち着くまでは話をする気がないようだった。仕方なく,おれは荒っぽく椅子に腰を掛けた。
「もう一度言う。言葉通りに受け取ってくれ。あいつらは人じゃない。生物学的に,人間じゃないんだ」
「どういうことですか」
萬田社長の方を見るが,社長は何も言うつもりがなさそうだ。訳の分からないまま,再び河本と向き合う。
「感情はないし,言葉も理解しない。メンテナンスは必要だが,働きすぎて辛いことはない。染色体の数が違うどころが,そんなものは存在しない。やつらを形作っているのは,細胞じゃないんだよ。機械なんだよ」
河本の説明を受けても,整理がつかなかった。
感情がない? 言葉を理解しない?
さっき聞いた言葉が,破片となって自分の中をぐるぐると回り続けて渦を作っている。その渦が深くなることはあっても,収まる気配はない。
目の前が真っ暗になるような気分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます