意識不明
嬉しそうな顔をしてモデルハウスを出ていく夫婦を見届けたころには,夕日が沈みかけて遊んでいる子供たちも引き上げる時間になっていた。
今日案内した夫婦は,契約に至ったも同然の状態になった。土地が決まり,間取りも固まった。あとは,内装の色にこだわったり,予算と相談しながら細かいオプションを決めていったりしている段階だ。
より良い提案するなら,やっぱりプレミアムリビングの情報提供は外せない。マイホームは大きな買い物だ。契約さえ決まれば,こちらとしてはそんなにこだわることもないのだが,せっかくなら満足してもらいたい。成績に関係ないところでも,お客様目線でこだわってあげたい。
アイさんのことが気にならないといえば嘘になる。でも,仕事にこだわる姿勢も信実だ。
山下に言われたことはもちろん頭に残っているが,あんな上司の言うことを聞くつもりは毛頭無い。
車のエンジンを入れて,はやる気持ちを押さえながら国道を走った。
「こんにちは。忙しいのにすみません。注文住宅を建てるお客様に,いいものを紹介したくて。マンションに住んでいるときは,トイレ周りの掃除に苦労されていたということだったので,タンクレスのものを紹介しようと思うのですが,いいのがありますか?」
昨日のことなどなかったかのように,笑顔で迎え入れてくれたアイさんにさっそく要件を伝えた。実物を見ながら話ができるとありがたいと伝えると,さっそく案内してくれた。比較的人が少ないところに移動できるのでありがたい。
「トイレ周りのお掃除が大変ということでしたね。でしたら,これなんて絶対喜ばれますよ。少し割高にはなりますが,生活の満足度が上がることは間違いなしです。きっと,頻繁にお掃除されているのでしょうからね」
そう言って紹介してくれたのは,便器が宙に浮いた状態のタンクレストイレだった。蛇口がタンクから離れたものはよくあるが,トイレの背面だけが壁と設置してある。確かに,これだと手の届きにくいところも掃除がしやすそうだ。
「このトイレだと,ぼくも掃除をする気になりそうです。住田さんは,トイレをきれいに使っていそうです」
汚してばっかりだよ,と答えそうになったのをグッとこらえる。変な意味に捉えられても損だし,清潔感がある人だと思われているのなら,その印象をわざわざ覆す必要もない。
そんなことより,もっと気になっていることがある。アイさんがもし苦しんでいるのなら,何とかしてあげたい。おれに出来ることなんて,何もないかもしれない。何かできるなんて考えていること自体が,思いあがっているのかもしれない。それでも,力になりたい。話を聞くことぐらいなら,できる。
「アイさん,昨日も遅くまで仕事をしていたんですね。休めていますか?」
アイさんは,すぐに答えずに間を置いた。何と答えるべきか悩んでいるように見えたが,よく掴めない表情だ。
「しっかりと休ませていただいておりますよ。ご心配ありがとうございます」
「仕事がない日は? 仕事がない日は,何をしているんですか?」
「いろいろと・・・・・・,ゆっくり過ごしてます。仕事の勉強も嫌いではないですし」
「楽しそうに仕事をされていますもんね。そうだな,仕事ではないことの趣味とか,好きではないこととか,なんでもいいので教えてください」
変なことを聞いてしまったな,と思った。言った直後に恥ずかしくなったが,おれが思った以上に,アイさんは困った顔をした。困ったというより,どこか苦しそうでもあった。
すみません,と言ってアイさんに背中を向ける。
質問攻めにした挙句,あんな顔までさせてしまった。これ以上ここにいると,もっとアイさんを苦しませてしまう。
帰ろうとしたところで,後ろから呼び止められた。振り返ると,アイさんは辛そうな顔をして立っている。
「住田さんに,不快な思いをさせてしまいましたね。許してください」
そんなことない,と否定する声が,必要以上に大きく出た。何人かがこっちを見る。その様子が視界に入ったが,気にせずアイさんと向き合う。
「今日は失礼しました。また,ゆっくりお話ししましょう」
「住田さんが来てくれると,とっても嬉しいんです。また来てください。でも,しっかり休んでくださいね。住田さん,最近疲れているように見えます」
頑張れ,とでも言うように,アイさんはにぎり拳を作って笑った。
彼女の優しさに,もっと頑張らないとなと力が湧いた。
適当にファミレスに入って食事に済ませてから,おれはまた昨日のコンビニでつまらないラジオを聞いていた。
人影もほとんど見えなくなり,正面に見えるプレミアムリビングの明かりだけが,寂しくあたりを照らしている。
「今日も忙しそうだな」
誰もいない車内に呟いた声が,虚しく暗闇に吸い込まれる。
信じたくはなかったが,悲しい現実が目の前にある。
今日もあの近代的な見た目をした建物からは,誰も出てこない。昼間は美しく見えた外観が,捕まったら二度と出ることのできない要塞のように見える。
ぷつり,ぷつりと各階の電気が消えた。手元を見ると,時計の針は十一時を指そうとしている。いつの間にか,芸人が質問に答える耳障りなラジオ番組は終了していた。
何も聞きたくない。くだらない情報を耳に入れることを脳みそが拒否している。音の発信源を切ったつもりだったが,無音の空間の中にも何かしら音がある。服の擦れる音,猫の鳴き声,コンビニの駐車場にいる人の話し声,月が動く音までが聞こえてきそうだった。
建物の全ての電気が消えたことを確認して,深くため息をつく
帰って休もう。
パーキングに入ったギアを変えようとすると,助手席側の窓をこつこつと叩く音がした。
二日連続で長時間駐車していたのだ。店員が咎めに来たのだと思い,窓を開けて「すぐ出ます」と伝えると,返ってきたのは聞き覚えのある声だった。
「やっぱり住田くんだね。相変わらず勉強熱心だ」
山下,と腹の中で呟く。ブルーな気持ちに黒色を足したような気分になる。どうしてこいつは,こんなに人の気分を害するんだ。
「これも人事の評価につながるといいんですけどね」
「そうだね。車の中で時が経つのを待っているんだから,評価につなげなくてはな」
嫌味を言う山下に,「明日も早いのでお疲れ様です」と伝えた。そのまま窓を閉めうとしたが,山下の手が社内に侵入してきた。
「まあ,そう言わずに車から降りるぐらいはしたらどうだ」
ちっ,と今度ははっきりと音に出して舌打ちが出る。めんだくさいやつだと心底うんざりする。さっさと終わらせよう。何を言われても「はい」とだけ答えていればいい。それが一番手っ取り早いし,この顔を見なくて済むなら満足だ。
ドアに手をかけ,外に出る。暖かい季節とはいえ,夜は違った感触を皮膚に与える。
嫌な寒気を感じながら,山下に向き合う。
「何か話でも?」そう言おうとしたとき,首元に電気を浴びたような衝撃が走った。
おれはそのまま,意識を失った。
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