上司と部下
「住田くん,悪いね,忙しいのに。最近調子はどうだい」
管理職なんだから,おれの営業成績ぐらい頭に入っているだろう。山下は足を使った営業こそしなくなったが,部下の管理は適切だし,頭の切れる男だ。まさか,部下の仕事の進捗状況や,担当部署の売上高が計画通りに進んでいるかは理解しているに違いない。社交辞令はいいから,さっさと要件を言えと吐き捨てたくなる。
「課長の指導のおかげで,今年のノルマも達成できそうです」
「住田がおれの指導に従ったことなんてあったかな」
芝居じみた考え込む仕草をして,「まあいい」と課長はおれの目を見据えた。その目の奥は,鉛のように鈍い何かが光っていた。
「単刀直入にいこうか。仕事の後,何をしている?」
「仕事の後ですか? 帰って飯食って,風呂入って寝る。それの繰り返しですよ」
「とぼけるのはよしてくれ。お互い時間の無駄だ。君が働き者で,わが部署に貢献していることは重々承知だ。その働きを続けてくれていたら構わないし,君の仕事を妨げたくもない。もう一度尋ねよう。仕事終わり,何をしている?」
わが部署,という言葉に血が上る。山下は初対面の時から気に食わなかった。
異動でやってきてすぐ,この営業所は自分のものでここに勤める部下は自分のコマだという不遜な態度がにじみ出ていた。この仕事は,上司に気に入られなければ出世コースに乗るのは難しい。多くの同僚は,この傲慢な課長に媚びへつらうように接したが,おれは到底そういう気分にはなれなかった。自分の力でのし上がってやろうと,そう決めた。
「プレミアムリビングのことですか。それなら,仕事と言えば言い過ぎかもしれません。ですが,提案にはつながりますからね。いわゆる,研究と修養ってやつです」
研究と修養,とゆっくり二度繰り返す。この言葉は,山下が部下によく使う言葉だ。特に,営業成績が振るわない社員に。
「結果がついてこないのは,やる気がないからだ。勤務時間だけで結果を残そうとするな。テクニックや知識を磨き続けろ。どうすれば売り上げを叩けるかだけを考えて,どんな時も研究と修養に努めろ。会社の研修だけに頼るな。研修の場は自分で作れ」
これらが山下の口癖であり,怒鳴り散らしているところさえ見たことがある。
おれが話すことを,山下は苦虫を噛み潰したようにして聞いた。
「嫌味なやつだな。まあいい。そのことだよ」
とんとんとん,と机を人差し指で叩いて,山下は苛立ちをあらわにした。激務をこなしているようには見えないが,指にタコでもできているのだろうか。固いもの同士がぶつかり合う,嫌な音が響いた。
「今後,一切プレミアムリビングには出入りするな」
これ以上話すことはないと示すように,山下は椅子をくるりと回して背中を向けた。
その背中を睨みつけながら,おれは噛みついた。本当に噛みついてやろうかと思ったぐらい,イラついていた。
「どうしてですか? おれは必要なことだと考えています。客単価が一気に上がることも知ってるでしょ。何が気に入らないんですか」
「口のききかたには気を付けろよ。とにかく,おれの言うことは絶対なんだ。分かったな」
「納得できません」
「いいか,お前が納得できるかどうかなんて,こっちはどうでもいいんだ。理解を求めているわけじゃない。以上だ。さっさと契約取ってこい」
握った拳がしびれてきた。手のひらに爪が食い込んで,ジンと痛む。
「話が出来ないのは分かりました。せめて,説明だけでもしてください。誰からの指示ですか? 何が絡んでいるんですか? あなたの判断には同意しかねますが,事実ぐらい教えてください」
山下はめんどくさそうな顔をして,ゆっくりと首を横に振った。そして,内ポケットから煙草を取り出して,火をつけた。
「知りたかったら,この椅子に座れるように精進することだな」
「こんな小さな部屋で満足できそうにないですけど,頑張ります。壁紙がヤニで変色しないように,急がないといけませんね」
そう言って頭を浅く下げ,出口へと向かった。
顔を見ずに「失礼します」と告げて,わざと音を立てて扉を閉めた。部屋の中から,煙草の箱を投げるような音が,やけに小さく聞こえた。
「長かったですね」
荷物を取りに部屋に戻る途中で,これから営業に出掛けるところの守田に出くわした。
「コーヒー,やっぱりやめとけば良かったよ」
「マーキングしてやれば良かったんですよ」
「それも考えたけど,犬っころって認める気がして嫌な気分になってな」
「住田さんの媚びないところ,まじで尊敬するっす」
笑って返したが,守田は生真面目な顔をしている。こういうところが,人に好かれるんだろうなと思うと同時に,愛される営業マンになると確信した。守田は必ず,お客様といい関係を築ける男になる。
「ところで,どんな話だったんですか? いい雰囲気には思えなかったですけど」
「まさか,左遷とか」と本気で寂しそうな顔をする守田の頭をはたく。
「おれを誰だと思っているんだ。あいつは自分の担当の成績しか考えていないんだ。たとえ気に食わないとしても,おれみたいな有能な男を手放すわけはないだろ」
「住田さん,言うようになりましたね~。じゃあ,なんだったんですか?」
「まあ,おとなしくしとけってさ」
「プレミアムリビングの件で?」
鋭いやつだ,と思わず舌を巻く。いい意味で無神経で,憎めない鈍い男だと思っていると,ふいに確信をついてくる。
「やっぱりそうだったんですね。課長がくぎを刺されたと言うことは,外部から何か圧力があったんですかね。いよいよきな臭くなってきましたね」
探偵のような仕草をして,守田は半ば楽しそうに言った。
腕時計を指さして,時間を教えてやると「いけない」と慌てた様子で出口へと向かった。見えなくなる間際に,振り返って握りこぶしを作る仕草で頷く守田を,しっしっと追いやる。
ほんと,つかみどころのないやつだとため息をついた。
おれも準備に取り掛かって出なければいけない時間だ。
守田にはよく書き乱される。苛立っていた気分がいつもの間にかほぐされたようだ。
よし,と自分を鼓舞して,駐車場へと向かった。
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