アイ
「この壁紙なんて素敵ですよね。住田さん,触ってみてください。きっと何か気付くはずです」
重厚感のある壁紙のサンプルを指さして,彼女は華やかに笑う。
グレーのレンガを思い起こさせるその壁紙は,指先で触れると少しだけざらざらとしている。不思議な材質でできた壁紙を近くで見た後,彼女に顔を向ける。楽しそうなその表情を見ると,なんだかデートでもしているような気分だ。
「知っている壁紙とは確かに違うね。耐久性は高そうだけど,それだけではなさそうだな」
ぴんぽーん,と軽くおどけて,彼女はロングスカートのポケットを探った。
タカタカと,重厚感のあるものがぶつかり合う音をさせながら何かを探していたが,取り出したのは拍子抜けするほど小さなボトルだった。
「さすが住田さん。では,ふたを開けて,中身をかけてみてください」
そう言うと,彼女は白い手袋を身に付けた手でそれを差し出した。
手袋越しに感じる彼女の素肌。仕事柄か,ここのスタッフは全員手袋を身につけているし,やりすぎなぐらい肌が見えない。
もっと親密になれば,手を握ることも出来るのにと考え,頭を振る。
ちょっと顔見知りになったぐらいで何をいい気になっているんだ。彼女の名前すら知らない男が,手を握る日を想像するなんて。
「住田さん,どうしたんですか?」
首を傾けて覗き込まれる。ショートヘアの横髪が唇にかかる姿を見て,幼さと妖艶さが愛おしい。
「ごめんごめん。えっと,本当にかけていいの?」
不安になって,ボトルの中の液体に鼻を近づける。無味無臭で,変わったものとは思えない。
「大丈夫ですよ。ただの水です。壁紙も,性能をお見せするためのサンプルですから」
はやくはやく,と聞こえてきそうな仕草で彼女が促す。
思い切って,ボトルの中の水を全てかけた。
きゃっ,という声が聞こえた時にはもう遅かった。
勢い余って,水しぶきが彼女にかかっていたのだ。
「ごめん! 大丈夫ですか?」
慌ててポケットからハンカチを取り出したが,渡すよりも先に彼女はハンカチを取り出し,顔を拭いた。その仕草があまりにも焦った様子で,申し訳なくなる。肩を落として,ただただ丁寧に水を拭きとる姿を見ているしかなかった。
おれが暗い顔をしていると,彼女は不意に顔を上げて笑った。鼻と眉間の間にほんのり皺がよるこの笑顔に,体が軽くなる。
「気付きました? 壁紙」
何事もなかったかのように明るく話す彼女。その指先が示す壁紙のサンプルを見て,思わず息をのんだ。
思いっきりかけた水をかけたはずなのに,サウナの石に水をかけたように,跡形もなくなっていた。
「驚いたでしょ。私が時間稼ぎをしている間に,この通りです」
舌を少しだけ出してユーモアたっぷりに言う彼女に,どういうことか尋ねる。
「これはですね,今はやりの商品で,珪藻土のように水分を吸収して蒸発させる壁紙です。リビングの一面に張り付けるのもアクセントになりますし,キッチン側の壁紙だけに取り付けても,おしゃれで機能性もグッと上がるんです。ぜひ,お客様におすすめしてみてください。きっと,喜ばれますよ」
頑張ってくださいエース,と抑揚をつけて話す彼女から,目が離れなかった。おれは彼女に恋している。そう自覚した。
一通り店内を巡回した後,時計に目をやる。今から帰ると自宅に着くころには九時を回るな。それに,これ以上の長居は彼女にも悪い。システムキッチンの前で二人でやり取りした時間は,夢のようだった。だが,夢もいつかは覚める。未練を断ち切るように,言葉を切り出した。
「今日はどうもありがとう。勉強になりました。それに,とっても楽しかったです」
「そう言っていただけて良かったです。それに,私もとっても楽しかった。水をかけられた時には,お花になった気分でしたし」
冗談を交わしながら,おれたちは笑い合った。月並みな表現だが,彼女は本当に花のような人だった。
今しかない。なぜかそう思った。喉元まで出かかって,今まで口に出来なかった言葉を,なんとか口にした。
「ここのスタッフって,名札に役職はかかれているけど,名前は書かれていないんですね」
インテリアコーディネーターと書かれた彼女の名札を見ながら,役職とも違うかと考える。まあ,こまかいことはどうでもいい。問題はそこではないのだ。
「良かったら,お名前を教えていただけませんか」
首をほんの少しだけ傾けたまま話を聞いてた彼女は,すぐには返事をせず,そのままおれの顔を見つめる。ただそれだけなのに,やけどをしそうなくらいなくらい耳が熱い。
「アイです」
「アイさん?」
こくりと頷きながら,華やかに笑う。
下の名前を教えてくれたことに有頂天になり,おれはおかしくなっていた。
「その,今日,この後予定はありますか? アイさんが良ければ,食事でもどうかなって」
言い終わって,どっと体温が上がるのが分かる。脇にはじっとりと汗がにじんでいるに違いない。顔なんてゆでだこみたいで,こっちが調理されそうなくらいだ。
勇気を出して誘ったが,おれは落胆した。
食事という単語を出した時には,アイさんは申し訳なさそうに目を細めていた。
「ごめんなさい。今日は遅くなりそうで。でも,誘っていただけて本当に嬉しいです」
そう言って笑う彼女の表情には,社交辞令とは思えない透明さがあった。
外まで送りますね,というアイさんと,軽い足取りで出口に向かった。
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