紅鏡のヴァンパイア

宮杜 有天

01:夜籠

 薄暗い街の路地を一人の女性が走っていた。石畳を叩く靴音が誰もいない通りに響く。

 屋内ではようやく電灯が普及し始めたとはいえ、外ではまだガス灯ばかりだ。その柔らかな、しかしどこか頼りない光に浮かび上がるのは質素なワンピース姿の若い女性だった。


 女性は時折、背後を振り返る。その度にロングのブルネットが乱れた。彼女の蒼い瞳の見つめる先には誰の姿もない。だがそれでも女性は背後を気にしながら走り続けた。

 ふとその足が止まる。何度目かの振り返りの後、進行方向に人影が現れたからだ。

 立っているのは中年の男性だった。薄灰色のスーツにコート姿。頭にはシルクハットを被っている。男は女性が動きを止めたのを見てニヤリと笑った。女性を見るその瞳は赤い。


 男が動いた。立ちつくすだけの女性に向けて、矢のようなスピードで。両手で掴みかかるように。大きく開けた口からはやけに発達した犬歯が覗く。それは牙だ。

 女性の首筋に牙を埋め、溢れ出る温かい液体で喉を潤す。そのことだけを考えて男――吸血鬼は獲物へと迫った。

 だがその手が女性を掴みかけた瞬間、吸血鬼の動きは止められる。


「女の子へのお触りは厳禁です」


 いつの間に現れたのか、女性の後ろから若い男の声が聞こえた。彼女の肩越しに伸びた手は、襲って来た男のシルクハットをはじき飛ばしその額を掴んでいた。

 吸血鬼が驚いたように飛び退いた。普通の人間ではあり得ない素早さと跳躍力で距離をとる。女性の背後に立つ声の主が見えた。


 黒茶色のジャケットに身を包んだ二十歳くらいの青年。その顔には少年の面影を感じさせる無邪気な笑顔を浮かべていた。そして青年の髪は、頼りない街灯の光の中でもはっきりと分かるくらい鮮やかな赤毛だった。

 それを認識した瞬間、吸血鬼は躊躇うことなく背中を向け逃げ出した。顔には焦りが浮かんでいた。振り返ることなくただひたすらにその場から逃げることだけを考える。

 幸いにも赤髪の男が追ってくる様子はない。このまま逃げ切れる。そう考えた瞬間、吸血鬼の向かう先に黒い影が現れた。


 背の高い黒いスーツ姿の男だった。黒髪に整った顔立ち。顔の前には軽く握りしめられた、白い手袋をした手。切れ長の目がしっかりと吸血鬼を見つめている。

 だが吸血鬼が足を止めることはなかった。この状況で現れた黒髪の男に対する不信感よりも、背後の赤髪の男への恐怖がまさったのだ。少なくとも黒髪の男は人間に見える。

 今の自分は立て続けに人間を襲い血を飲んでいる。仮に黒髪の男が吸血鬼狩りハンターであったとしてもそうそう遅れをとることはない。そう、同類でさえなければ。


 そう考え、吸血鬼は速度を落とすことなく黒髪の男へと迫った。吹き飛ばすつもりで腕をひと振りする。だが吸血鬼の腕は空を切った。変わりに感じたのは顔面への衝撃。

 気づくと吸血鬼は地面に仰向けに倒れていた。同時に自分の鼻が曲がり、歯もほとんど折れていることも理解する。そして吸血鬼になって以来、感じたことのなかった痛みがあった。焼け付くような痛み。


 吸血鬼である自分がそんな痛みを感じるとすれば、それは太陽の光に焼かれた時か、聖別された品物で傷を負わされた時だ。あの黒髪の男がやったのだろうか。しかし武器を持っていた様子はなかった。

 更には体が思うように動かなかった。ならばやはり聖別された品物による攻撃を受けたのだろう。

 足音が近づいて来た。赤髪の青年が吸血鬼の顔を覗き込んできた。


「ちょっとはしゃぎすぎたね、キミ。一週間に三人はやり過ぎだ」赤髪の青年が言う。

「そのあふぁgみ……のろふぁわれtしぞぉk……め」


 吸血鬼が喋る。その言葉は聞き取りにくい。だが赤毛の青年は内容を理解したようだった。


「そう言うキミは、はぐれ者かな? それとも誰かの眷属? どちらにしろこの街は初めてだね。この街で好き勝手してると怖い婆さんに目をつけられるんだ。覚えておくといい」


 青年は笑ってみせる。その口元からは牙が覗いていた。

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