飛行機雲

杜萌

飛行機雲

 愛に色があるとしたら、どんな色をしているのだろう。


 経年劣化で変色した天井へゆらゆらと消えていく紫煙をぼんやりと眺めながら、私はため息を一つ吐く。

 そんなどうでも良い考えを巡らせていなければ今にも闇に落ちてしまいそうなほど、不安定な場所に私は今、居る。

 

 抱かれた後の身体は熱くて、少しだけ気怠い。

「次、また連絡する」

「りょーかい」

 シーツを身に纏うようにクルリと寝返りを打つと、ベッドがミシッと軋む音がする。

 その視線の先には、クシャクシャになったコンドームの袋とタバコの吸い殻。

 私たちの関係は、それ以上でもそれ以下でもない。


 高居良稔たかいらみのる。それが目の前の男の名前だ。 

 さっさとシャワーを済ませ、咥えタバコのままワイシャツを着ると器用にネクタイを結ぶ高居良の背中を見詰める。先程までぴったりと重なっていた身体の温もりはもうそこには無くて、私の胸はチリっと痛む。

 セックスの相性は最高なのに、二人の関係は出会った頃から何も変わらない。

 そもそも進展などする関係でも、それを望む二人でもなかっただけ。そう思えば何の不思議もないけれど。


 九ヶ月。それが高居良と出会ってから経過した時間だ。

 生まれた子がよちよちと歩き始めるくらいの年月が、いつの間にか経っていた。


 外に出るとすかっとした青空が広がっていて、爽やかな朝の香りが鼻腔をくすぐる。

 「あ、」

 私の小さな声に、あなたは一瞬私を見て、そしてゆっくりと私の見上げた先に視線を向けた。

 「飛行機雲」

 高居良も空を見上げたまま呟く。

 「…ありがとう」

 続けられた高居良の言葉はトラックの音に掻き消され、語尾だけが私の耳に届いた。

 それは何に対しての感謝だろうか、という疑問だけが胸に残された。

「祖父が死んだ後、母は飛行機雲を見つけると、何だか嬉しそうな顔で祖父からのメッセージだって言うの」

「…へえ」

 あの時から飛行機雲を見るといつも祖父を思い出し、そのメッセージは何だろうか、と私は考える。

「最近?おじいさんが亡くなったの」

「違うわ。もう二十年も前の話よ。私、まだ小学校に上がったばかりだった」

 二人して空を見上げた。

 そこには薄く消えていく飛行機雲が見えた。

 


「たかい、りょうねん。かと思ったわ」

「違う。たかいら、みのる」

「珍しい名前」

 それが最初に交わした会話だった。

 珍しい名前の彼は、廊下ですれ違う度、ランチタイムのカフェテリアで会う度、私の心をジワジワと侵食した。

 その理由は、彼の瞳だった。

 その瞳を見ると、私はいつもどこか懐かしさを感じ、あるはずも無い「こころ」という臓器がキリキリと痛むのだ。


 高居良との出会いは偶然の産物で、特別そこに何かの意味を見出そうと思った事はなかった。

 大きな枠組みの中では二人とも組織の一員に過ぎなかったけれど、すぐにその関係は男と女という関係に形を変えた。

 仕掛けたのは私だった。

 仕向けたのは高居良だった。

 今にして思えばお互い様だし、お相子。同罪無罪だ。

 誘惑したのは私かもしれないけれど、誘惑するように煽ったのは高居良の方が先だった。

 何度かランチタイムを一緒に過ごした後、私達は古びたラブホテルで身体を重ねた。

 懐かしさと、切なさと、愛しさと、そして、それは背徳の香りがした。


 何度身体を重ねても、変わらなかったことが一つある。

 お互いの名前を呼ばないという事だ。

 高居良は私のことを「あなた」と呼び、私は高居良の名前すら呼ばなかった。

 それは申し合わせたかのような二人だけの暗黙の了解だった。

 甘くなり過ぎないように。

 恋や愛という世間一般の枠組みにはまり込んでしまわない様に。

 だからこそ、何年もこうして取るに足らない関係を続けていくのだと思っていた。

 都合の良いように呼び出され、欲望を貪り、そして再び日常へと戻る関係。


 その日は、何かが違っていた。

 待ち合わせた駅の改札口で、人目もはばからず高居良は私を抱きしめた。

 普段は飲まないアルコールを飲み、いつもよりも長く愛撫され、その日は行為が終わった後、すぐにシャワーを浴びに行かなかった。


 熱い欲望を貪ったあと、紫煙を燻らせながら高居良が口を開いた。

「あなた、俺のこと好きなの?」

「秘密」

「好きでも無い人と、あなたは寝てるの?」

「秘密」

「何を考えてるの?」

「秘密」

「あなた、秘密ばっかだなぁ」

 呆れたように笑うと、高居良は私の頭をポンポンと叩いた。

 秘密だらけなのは、私の方ではない。

 本心をみせず、誰にも本当の事を話さず、こうしてホテルで婚姻外の女と情事を重ねる、あなたの方がよっぽど秘密めいているではないか。


 仄暗い部屋の中で焦点を合わせると、目前には高居良の顔があって、薄茶色の瞳がキラリと光る。

 愛って目に見えるとしたら、こんな色なんだろうか。それとももっとドロドロとした色なんだろうか。

 そう思って、私は目を閉じ、来るべき優しい衝撃に備える。

 高居良の顔が近付き、柔らかな温もりが唇にもたらされると、二人の間に新たなる火種が灯る。次第にジリジリと燃えるような熱さを感じながら、その先にある快楽へと私たちは手を伸ばした。



あおい

 初めて名前を呼ばれて、私はビクッと身体を震わせた。

「な、に」

「さよなら、をしようと思う」

『別れよう』でも『終わりにしないか』でもない、その言葉が高居良らしいな、と思う。

「そう」

 努めて冷静に、何事もなかったかのようにスマートフォンから一瞬だけ視線を上げて答えた。

「ありがとう」

「何が」

 何が『ありがとう』なのだと思う。

 出会ってくれて『ありがとう』だろうか。

 やらせてくれて『ありがとう』だろうか。

 それとも、すんなり別れてくれて『ありがとう』だろうか。

「ありがとう」

 じっとこちらを見詰めたまま微笑むと、高居良が一度だけぎゅっと私を抱きしめて、そしてバスルームへと消えて行った。


 卑怯だ、と思った。

 その背中に向かって、泣き叫び、めちゃくちゃに罵倒してやりたかった。

 でも全ての感情を飲み込んで、私はまた新たなる一歩を踏み出す。

 緩慢な動作で服を着て、のろのろと髪を整え、アイラインをひく。

 鏡を見る視界が少しだけ歪んで、引いたばかりのアイラインが滲んだ。


 今日私はこの愛には色がないと知った。

 それは無色透明で清々しいくらいにまっさらだった。



 その夏はいつにも増して猛暑だった。

 アスファルトがジリジリと溶けていくような熱さと、胸の中をみっしりと埋め尽くすムッとした空気を吸い込む。

「あつい、な」

 呟いて、空を見上げる。

 夏の空はどこまでも青く、高く、遠い。

 

 

『おじいちゃんの法要には帰って来れそうなの?』

 田舎の母からの電話に、私は額の汗を拭いながら「うん」と答えた。

 二十三回忌の法要の席は寂しいものだった。

 家族だけで厳かに祈りを捧げて、慎ましやかな夕食を囲んだ。

 実家に帰るのは久しぶりだった。

 都会での気侭な生活に加えて高居良との出会いもあって、田舎からは足が遠退いていた。もちろん、高居良と出会ってから初めての帰省だ。


「おじいちゃんは、事故で死んだけん」

「うん、覚えてる」

 まだ小学生だった私はその日、酷く取り乱した母と共だって祖父母の家へと急いだ。

 今もその時の母の横顔を覚えている。

 顔面蒼白とはあの時の事を言うのだと後々思うほど母の顔は血の気が引いて蒼白く、デパートで洋服を着せられている人形マネキンのようだった。

 

「そういえば…おじいちゃんは手術したん?」

 遠い記憶を手繰り寄せながら私は訊ねる。

 幼い記憶の中で朧げながら覚えているのは、病院で手術を受ける祖父の姿だった。

 事故死だった祖父は病院に運ばれて手術をしたけれど助からなかった、というのが私の記憶だ。

「手術っていうかねぇ、臓器提供したんよ」

「え?臓器、提供?」

「身体の損傷が激しくて、望んだようにはいかなかったけど」

「へぇ、そうなんだ」

「おじいちゃん、眼が良かったんよね。だから、角膜を提供できたの」

「角膜移植…」

 どくん、と心臓が大きくひとつ音を立てた。身体中の血という血がドクドクと音を立てて流れ、頭に血が上っていく。

「そう。あの男の子。今ならもう立派な大人になってるはずやね。あなたより少し上の世代やもん」

「おかあさん、その、なまえ…」

 嫌な予感がした。

 カラカラに乾いた喉は粘膜がひっつき、掠れて声がうまく出てこない。

「名前?男の子の?」

「うん」

「個人情報は明かされんのよ。でも、目が見えるようになって初めて見上げた空に飛行機雲があった、って教えてくれたんよ」


 臓器提供者と臓器提供を受けた者は、個人情報保護法の前にお互い直接交流することは許されていない。ただ、協会が仲介し個人を特定しない形での情報は開示され、間接的な交流を図ることはできる、という事を母は教えてくれた。


 12歳男児。

 関東圏在住。


 それが祖父がこの世に遺し、提供された角膜の行方だった。

 胸が締め付けられて、言葉が出てこなかった。

 ただその事実の前にあって、運命の悪戯に気付くことの出来なかった自分を呪い、最後まで笑顔だった彼を思い出して心が痛んだ。

 その帰り道、窓の外を流れる景色を眺めながら、私はずっと思い出していた。

 あなたがサヨナラを決めた時の言葉と、あの日並んで見上げた飛行機雲と。


 

「飛行機雲がきれいに見えました。これから飛行機雲を見かけたら、それは僕からの『ありがとう』のメッセージだと思って下さい」

 帰り際、そう書かれた手紙を母が見せてくれた。

 

 幼い頃から母が口にしていた〝メッセージ〟は祖父からの物ではなかった。

『ありがとう』

 高居良が最後にそう伝えたかったのは、〝私に〟では無かったのかも知れない。

 新幹線から降りると、ムッとした空気に身体を包まれ、一気に私は日常へと引き戻される。


 見上げた空には真っ青のキャンパスに白い線を描く飛行機の姿。

 あなたもこの空を見上げて、同じ飛行機雲を見ているのだろうか。

 高居良。

 

 今、あなたに会いたい。

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