第31話 内裏にて

 桜音に背を押され、紗矢音は内裏を目指してひた走っていた。

 本来、貴族の姫は走らない。だとしても、この状況で桜音の思いに応えずにいられようか。元々駆けることが好きな紗矢音にとって、誰に何と言われようと辿り着かなければならない。

「あっ」

 いくら整えられた道であれ、時には石が落ちていることもある。小さなそれにつまづき、紗矢音は思い切りこけてしまった。

「……痛っ」

 ずるずると体を起こすと、膝と手のひらが痛む。見れば、どちらも傷がついて血がにじんでいる。道理でと納得すると同時に、紗矢音の目に涙が浮かぶ。

 それでもこの時刻、大路を歩いている人などほとんどいない。夜が来れば、そこは人の世ではなくなるのだ。

 丑三つ時とならずとも、夜には人ならざるものがはびこる。人々はそう信じて、ある者は自宅で、ある者は恋人の家で夜を過ごす。

 紗矢音は何かが自分の弱い心に付け入ることを恐れながら、同時に何もかもを弾き飛ばす強さを信じて立ち上がった。こんなところで泣いていては、約束を守ることなど出来ないのだから。

「行かなくちゃ」

 足を動かせば、膝が痛む。痛みに耐えながら、紗矢音は一心に内裏へと向かい再び走り出した。


 同じ頃、内裏では儀式がゆっくりと始まろうとしていた。天照殿を中心に植えられた桜は満開を迎え、徐々に花が散り始めている木もある。盛りを迎えた花は篝火に照らされ、美しく夜の闇から浮き上がっていた。

 静かな雰囲気の中、儀式の衣に身を包んだ貴族たちがそぞろ歩く。彼らの手には儀式で使う道具や供え物、それに飾るための桜の枝などがある。

 枝は天照殿の正面に飾られ、いそいそと行き交う人々の気持ちを和ませた。

 支度が整う様子を見せる頃、天照殿の中にも動きがあった。帝がやって来られたのである。

 天照殿はにわかにざわめき、そして帝の側近を務める男が皆を静めた。そして帝がおわす几帳に向かって平伏すると、儀礼通りの口上を口にした。

「これは帝。ようこそお出で下さいました。帝に置かれましては……」

「口上は良い。して、儀式の首尾はどうだ?」

「はっ」

 滅多に多くの人の前に姿を現さない貴人の登場に、静かながらも人々は色めき立つ。その中にありながら、男は汗一つかかずに早速内容に入った。

「ほとんどのことは、無事に進んでおります。春を迎えるにあたっての首尾は、ほぼ上々と言って申し分ないかと」

「……ほぼ、なのか?」

 帝の声に険が乗る。後ろで平伏する人々に緊張が走る中、男は「はい」と生真面目に応じた。

「舞い手を務める姫君が一人、まだここに来ておりません。彼女が来れば、すぐに儀式を始めることが出来るのですが……」

 そこで言葉を濁すと、男はちらりと几帳の裏に目をやる。それに気付いてか、一人の壮年の男がびくっと体を震わせた。紗矢音の父、紗守である。

 決して少なくはない貴族のうち、帝に直にまみえることが出来るのは極々一部だ。側近の男もそのうちに入るのだが、今は現場を取りまとめる立場上そちら側にはいない。

 紗守は貴族の中でも冠位は低いが、特殊な役目を持つために帝が傍に置いていた。彼は側近の目に気付くと、わずかに顔を青くする。

「我が娘が、まだ来ていないというのですか?」

「はい。お邸に人をやりましたが、何故か誰も応対に出ないとか。しかも中からは物音ひとつせず、使いの者は恐ろしくなって逃げて来たと言っておりました」

「誰もいない? そんなはずが……」

 邸には、いつも誰かがいる。それが娘や息子であれ、家人であれ。その誰もが不在で反応がないというのは、これまでに経験のないことだ。紗守がその理由を考えている間に、側近の男は帝に対して再び言葉を発する許しを求めた。

「帝、桜守は以前から宮中での動きに疑いの目を向ける者もおります。そして今宵、このまま姫が無断で欠席するなどということになれば……」

「……」

「む、娘は必ず来ます。あの子は私よりも余程聡さとく、行動力も申し分ない。あの子が約束を守らないなどということはあり得ません。ですから、もう少しだけ、お待ち頂けないでしょうか」

 側近の男の疑心に満ちた言葉に対し、帝は何も発しない。しかし紗守は、懸命に娘のことを弁明した。紗矢音は必ず来る、彼にとってそれが真実であり揺るぎない信頼なのだ。

 宮中に置いて、桜守の立場が決して盤石でないということは、紗守自らが肌で感じている。だからこそ、紗矢音にも守親にも不安定な立場は譲り渡すつもりはない。

 紗守の言葉は止まらない。側近の男が口を挟む余裕を与えず、言葉を繋ぐ。

「邸には、この国を守る千年の時を経た桜があります。あれの霊力は人が扱える代物ではないものの、これまで何人もの不届き者がそれを狙ってやってきたという記録が残ります。その度に、桜は強力な結界を張ったとか。それはそれは強く、はた目には何が内部で起こっているのかわからない、外部との遮断された異空間」

「……つまり、先程この者が言ったことは、内部での異変が原因だと?」

 帝が割り込み、紗守は頷く。身内の恥をさらすようだが、桜守の家と共に栄えて来た帝の血統を持つ彼に判断を委ねるより他はない。

「可能性が充分にあります。ここ最近、娘も息子も親の私には内緒で何かをしている様子ですので、知っているかもしれませんが」

「そうか」

 帝は言葉を切り、しばし思考に落ちた。誰もが固唾を呑んで見守る中、帝は不意に顔を上げる。

「……誰か来たか?」

「……ら、ここは……だからっ……!」

 ざわめく渡殿の方角から、誰かがやって来る。天照殿には決められた者以外に誰も入ることのないよう、見張りを立てているはずなのに。

「失礼致します」

 そこに現れたのは、一人の姫君。衣擦れの音すら涼やかに、黒髪をなびかせた美しい娘である。

「きみは……舞い手の」

「お世話になっております。儀式の始まりはいつか、その辺りのことをお聞かせ願えればと思い、参上致しました」

 にこり、とわずかに微笑む。その姫君の表情に仕草に、人々は見惚れていた。

「これはこれは。御自らお越し頂くとは思いませず、申し訳ない。姫君、少々こちらに不手際がありましてな」

 側近の男が言うと、姫君―章は妖艶に微笑み彼の言葉を止めさせた。

「舞い手のことでしたら、ご心配には及びませんわ。……、必ずや春の神への思いを伝えてみせましょう」

「だがしかし、娘は……っ」

「ご安心なさいませ。娘さんの分も、お任せを。――では」

 姫君はそれだけを言い残すと、紗守たちが制止するのを無視してその場を去って行った。その後ろ姿に、誰もが声をかけるのを躊躇う。

(何だ、この威圧感は!?)

 冷汗が背を伝うのを自覚し、紗守は膝の上で拳を握り締めた。

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