第17話 山奥の邸に住まう者
紗矢音は桜音の傷を洗い、薬を付けてさらしを巻く。彼の衣のはだけた姿を見るのは
刀で斬り刻まれてしまった狩衣を見て、紗矢音はおずおずと桜音に問いかけた。脱ぎ捨てられた狩衣を引き寄せる。
「あの、兄のもので良ければお貸ししましょうか? このままでは、風邪をひいてしまいます……」
「助かるよ、ありがとう」
「――はいっ」
待っていてください。そう言い置いて奥へと速足で消える紗矢音を見送り、桜音はさらしで隠された右腕の傷に触れた。そこは真穂羅と名乗った謎の男に傷付けられた箇所であり、疼くような痛みが続く。
「あの男、この国を真に統べるべき者に仕えていると言ったな……。それは、誰だ」
この国、和ノ国を統べるのは帝である。それ以外にはあり得ず、千年前から少しずつ形作られて来た国をまとめ治めるための在り方だ。
その在り方を壊す価値のある者、その対象を桜音は思いつかないでいた。
同じ頃、
都から遠く離れた山林の更に奥、人里離れたその忘れられた地。誰も足を踏み入れるはずもないその場所に、真穂羅の仕える大切な人が住まいしている。
広大な敷地に造られた、都の貴族もかくやという大きな邸。更にその前には山と一体化した庭が広がり、湧水から引き込まれた水が大きな流れを
真穂羅は誰ともすれ違わないまま、足音もなく簀の子を歩いて行く。その衣は桜音によって傷付けられた時とは違い、黒と紫を基調とした直衣。烏帽子も被り、凛とした印象が強い。
やがて真穂羅は屋敷の奥へと辿り着き、几帳の前に平伏する。その部屋の中に誰がいるのか、気配を感じて既に察しているのだ。
「……殿下、真穂羅でございます」
「入れ」
「はっ」
今深く平伏し、真穂羅はゆっくりと立ち上がった。そして几帳を手で上げ、中へと滑り込む。
部屋の中の調度品は限られ、必要以上のものはない。更に華美なものを好まない主人の趣向に合わせ、最低限の品に抑えられている。
机に向かい、何か書き物をしている青年がいる。背を向けているために表情は窺えないが、真っ直ぐに伸ばされた背中と着こなされた直衣からは彼の気品が垣間見えるようだ。
「殿下」
「よく来たな、真穂羅。……そして、首尾はどうだ?」
筆を止め、殿下と呼ばれた青年が尋ねる。それに対し、真穂羅はもう一度平伏した。
「はい。千年桜に『呪』を埋め込むことには成功し、化身にも影響が見られます。ただ、桜守と奴らと共に動く陰陽師を把握しました。桜守には妹が居り、そいつはより千年桜に近い存在のようです」
「……桜守と陰陽師、そして桜守の妹か。成程な」
「如何なさいますか?」
真穂羅は問いに対する返答を推測しながらも、殿下に答えを求めた。
「決まっていよう」
殿下は鼻で笑うと、くるりと振り返る。その焦げ茶の瞳は信念に燃え、きりりとした眉を動かさずに言い放つ。
「真穂羅、我らを邪魔するもの全てを殲滅せよ。手立ては問わん」
「かしこまりました。……
「期待しているぞ、真穂羅。下がれ」
再び書き物を始めた一晴の言葉に、真穂羅は素直に応じた。深く頭を下げ、音もなく退室して行く。
真穂羅の気配が遠ざかった時、一晴の背後に別の気配が立った。それは真穂羅のように静かではなく、ぴょんっと一晴に抱き付く音が響く。
「
「……
「あ、ごめんなさいっ」
軽い身のこなしで一晴から離れたのは、彼によく似た一人の少女だ。黒髪をなびかせ、その身にまとうのは狩衣に似た白い衣である。更に烏帽子を被っており、舞台で舞を披露する白拍子に酷似していた。
章と呼ばれた姫君は一晴の前に正座すると、兄に向かって平伏した。滑らかな黒髪が床に広がる。
「兄様、都では未だ千年桜の異変は噂にもなっておりません。ただ、一部の殿上人は知り得ることですから、広まるのもすぐかと」
「そうか。……さっさと混乱に呑まれてしまえば良いが、そうもいかないようだな。先程真穂羅がここへ来たが、あちらには幾人かの味方がいるようだ」
「桜守と陰陽師、ですね。桜守を継いだ男は内裏でも見かけますから、接触を試みましょう。陰陽師も、やって来ることがあれば。……しかし」
「お前が案じているのは、真穂羅が直に接触したという妹の方か」
一晴の問いに、章は深く頷いて見せる。桜守の妹、つまり紗矢音は内裏に出仕していないため、接触の機会が極めて少ない。何かの折を作らなければ、会うことすらも叶わないだろう。
しかし、と章は笑ってみせた。
「兄様が案じることは何もありません。桜守と陰陽師さえ
「油断するなよ。お前の弱みは、その慢心だ」
「兄様こそ、わたくしを見くびらないで下さいませ」
舞に使う扇で口元を隠し、章は妖艶に微笑んで見せた。そして一晴が命じるよりも早く、邸から姿を消す。
再び静かになった邸に、一晴の墨を
この邸と周囲一帯には、桜がない。若葉を茂らせた木々を見やり、一晴は口元をわずかに弓なりにした。
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