奮闘!マルイストアー! 1

@8163

第1話

 ただならぬ雰囲気だった。喫茶店のテレビが国会中継を映し、政商と言われ、首相と刎頸の友と噂される実業家が、証人喚問の宣誓書のサインで手が震え、ペンを何度も落とし書くことが出来ないでいる。

 "国会に召喚され、ビビって震えているのか?"とか、病気で震えているのか?とか、初めは、まさか演技だとは思わなかった。だが、何度もペンを落とし続け、サインしなかった事で目的がハッキリし、証言を拒否し田中角栄を擁護する狙いが見えてきた。日本中がロッキード事件で揺れ、沸き立っていた。驚いたのはその事ではない。炙り出された右翼の大物、政商、松本清張の小説そのままだったのだ。清張が身の危険を感じると書いていたのが嘘ではなく、本当だった事だ。政治の闇が見えてきた。日本が変わるのだ。そんな時に兄がサテンの扉を半分開け、「早く来い」と、呼びに来る。店が忙しくなってきたのだ。夕方でスーパーの掻き入れ時なので、魚屋の兄が呼びに来たのも三度目で、そろそろ怒り出す頃だ。

 卸しの魚屋で働いていた兄が結婚を期に小売に転じ、スーパーの魚屋を開店したのだが、兄嫁が出産の為、こちらに応援を求めたのだ。だから全くの素人だったのだが、少しの間、別の魚屋でアルバイトをし、大体の要領は掴んでいる。

 国会中継はまだ続き、未練がましくカウンターの頭上に設置されている画面を見上げながら喫茶店のガラスドアを押し開けた。

 喫茶店はスーパーの入り口右手にあり、通路を挟んだ前は化粧品屋、お茶屋、こちら側に荒物屋、魚屋、コの字になった通路の奥には八百屋、肉屋、かしわ屋、反対側の通路に酒屋、乾物屋、衣料品屋、小さく総菜屋、その奥にうどん屋が並び、正面外にたこ焼き屋が幟を出し、呼び込みをしている。つまり、店を一周すれば全てが揃うのだ。ただ、駐車場が小さいので来客数が伸びず、目下の悩みの種となつており、テナント社長達は大家の八百屋のオヤジに要望を出すのだが、こればかりは直ぐにはどうしようも無いらしい。だから店の前には自転車がズラリ。車は数台しかない。つまり、近所の主婦がターゲットの昔からの店らしい。

 「ありがとうございましたー」マスターの声が追いかけてきて響いた。小太りで柔和な表情の男は、元は一流劇場に勤めていたらしく、客あしらいに滞りはない。それどころか、客から相談されたり、みやげ物を貰ったりとか、色々と地域社会の世話なんかもしているようで、顔も随分と広そうな感じだ。実家が幼稚園を経営していて、その関係もあるのかも知れない。

 店では兄が板の上に並べた発泡スチロールの小皿に、刺身を盛り付けている真っ最中で、腰を屈め半解凍のマグロを柳刃包丁で切っている。完全に解凍されると切れ目の鋭さが無くなり、見映えが悪い。少し凍っていた方が良いのだ。その完成したマグロをショーケースに出したり、刺身のツマをスライサーで作ったりするのが助手の仕事だ。

 「何を観ていたんだ」

 「証人喚問」答えた。

 「国会中継が面白いのか?」兄が言う。

 「小佐野賢治が出てる。児玉も出てこないかなぁ……」と、呟くように言うと。

 「誰だそれ」と、兄が訊いたので、「右翼の大物」と、答えておいた。ミステリーや推理物が好きな兄だったが、清張までは読んでないようだった。

 漬物桶に水を溜めて作っておいた刺身のツマが少なくなっていた。直ぐに補充しなければならない。でも、こんな時にはスーパーは便利だ。大根は隣の八百屋で貰えば良いからだ。店を出て隣へ行く。

 「おやっさん、大根5本!」と、右手の掌を開いて示すと、「オッ、好きなの持ってけ!」と、奥の電話機のある所から八百屋のオヤジが返事をした。いつもは夜する電話でのコロガシ、今日は昼間から商売繁盛だ。ヨレヨレのジャンパー姿の禿げオヤジ、見かけとは違い、かなりの遣り手で、玉葱など、何トンもの量を電話一本で買い付け、それを問屋へ転がして儲けているらしい。八百屋も博打のような要素があるらしい。このスーパーの土地も建物も、そうして儲けた金で造ったのかも知れない。

 オヤジは殆ど接客はしない。奥さんと一人息子の遼ちゃんが忙しく立ち回って切り盛りしている。店の裏には六畳ほどの冷蔵庫があり、そこから店への品出しと配達は遼ちゃんがしており、座る姿どころか立ち止まって佇む姿もまれで、いつも世話しなく歩き回っている。この遼ちゃんと化粧品屋の娘の菊ちゃんが付き合っているらしく、兄の言を借りればマルイのロミオとジュリエットらしい。

 大根は冬の野菜だ。季節外れのこの時期、白くて長くて太い、立派な青首大根の産地は、多分、北海道だろうか、見かけは立派でも中心には巣が入っていることが多く、使い物にはならない。それでも、ツマの無いお刺身は売り物としては成り立たず、捨てる分を計算して多目に仕入れるのだ。黄色い漬物桶に水を張り、縁にスライサーを噛ませて大根を擦り、水に沈める。中腰なので時間が長くなると辛い。だが、気を抜くと危ない。薄くなってくると指の皮までも剥きかねない。慣れてくると掌の腹の部分で上手く削れるのだが、最初の頃は指の皮を削ってしまい、痛い思いを何度か経験した。それだけではない、包丁、串、ガス、氷、ひとつ間違えれば怪我に繋がる要素は多い。だから、包丁はまな板の奥に刃を向こう向きに置くとか、使った金串は下に並べて置くとか、危険を回避する手順があり、間違うとドヤされる。それは犬の躾のようなもので、乱暴な言葉に驚かれる向きもあるが、ちゃんとした理由があるのだ。

 次は焼き魚、ガスの焼台に火を点け用意をするが、まだ串が打てない。鰻だと串うち三年などと言うが、時間は掛かるが鰻の皮と身の間に串は打てる。だが、鮎や鰺、一匹物が難しい。二本の串でS字にくねらせ、尻尾が跳ねるように打つのだが、それが出来ない。兄のやり方を見ていると、胴の真ん中に皺を寄せるように波を打たせ、尻尾を跳ねらせ、もう一本を通している。魚を遠慮会釈なく、骨が折れるんじゃないかと思うほど、ぐいと曲げ、串を貫通させ、そればかりか、身を尻尾の方から押し積め、表になる方に張りを持たせ、焼き上がったらその身は包丁を入れた所が弾けるように膨らむ。

 先ず、この遠慮会釈なく魚を曲げる事が出来ない。申し訳ない気分になり、死者に笞打つ仕打ちに思え、躊躇う。そして、串を今度は貫通させ反対側から身の中程まで通したら、また裏側に通してゆく。これが難しく、やり直す事になると身が崩れみっともない焼き上がりになる。焼き上がりの表面にある、ペケ印の切れ目の少しの焦げ目に張りがあると、焼いていても旨そうで、満足する。

 焼きは一生と言われ、難しいらしいが、人手がないので最初から焼き場担当だ。初めはひっくり返すタイミングが判らず、何度も見てもらい、串を抜く時にくっついて抜けなくなるので途中で串を回すのを教えてもらい、焼き上がりも何度も確認してもらって覚え、塩焼きの塩梅も、尻尾の先にたっぷりの塩を掌で包んで盛り、飾りにするのを覚えた。

 鰻も焼いた。割いたばかりの鰻は焼き台に並べられても、まだ生きていて、首だけ上下に動かせて最後の抵抗をする。一度、試しにと開けた口に指を突っ込んだら噛まれて慌てた事がある。白焼きにして味醂を刷毛で塗り、ほんのりと焦げたらタレに浸け二度焼きにする。これは難しくはない。少々焼きすぎても焼けなさすぎても、タレの色で誤魔化されてしまうからだ。味醂を塗るとふっくらとし、そのまま塩で食べれば旨いだろうに、と、考えたが、まだ試してはいない。

 夕方の客が一段落すると、お茶屋の篠さんがお盆に湯呑みを乗せ、お茶を運んで来てくれた。忙しいと差し入れをしてくれるのだ。それに、お茶屋のお茶だから、旨い。立ったまま飲むのだが、ホッとして気が緩む。お茶屋はお兄さんの経営らしく、篠さんは単なる店番らしいが、他にも店を出しているらしく、朝、配達の車が来て商品を下ろして行く。もっとも、毎日運んでいるのは豆腐で、お茶はそんなには売れていない。だから豆腐屋と言っても良いくらいだ。

 このストアーは木造の古い建物を壊し立て替えて新装開店したもので、その最初からテナントに入った魚屋なので古いストアーの事は分からない。だが、魚屋はあった筈で、他のテナントの店主達は新しい魚屋がどんななのか様子見をしている雰囲気を感じたのに、お茶屋の篠さんだけが初日からお茶を出してくれた。男二人、開店セール。小売りは初めての兄と、素人の弟。見ていられなかったのかも知れない。食事も朝は仕入先の市場で済ませ、昼は向かいのうどん屋でカツ丼を掻き込み、夜も外食だ。残った刺身でビールを飲めば、もう次の朝が始まる。まだ暗いうちに起き、卸売り市場へ行く。

 市場は朝3時頃から動き出している。大型トラックが続々と到着し荷を下ろし、照明が明々と照らし、誰ひとり立ち止まっている奴はいない。もの珍しさから立ち止まり、眺めていたこちらは、お登りさん宜しく呆れられていたに違いない。

 ここは本場と呼称され、公共の市場だが、もうひとつ卸しだけの市場があり、そちらにも寄って行く。卸売り専用の市場だから競りは行われない。しかし独自の仕入れ先があるらしく、生きの良い物や活けの魚など、寿司屋や料理屋などはこちらで仕入れるようだ。兄も元は卸しなのでこちらが主戦場で、知り合いも多く、慣れ知った所で動きも早く、生き生きとしている。

 本場もそうだが、ここでも何でも揃う。包丁から長靴まで、凡そ必要な物はスチロールの皿から刺身の区分けに使うハランまで、無いものは無い。食事も定食屋から喫茶店まであり、寿司屋もあるのだ。だから自分の売ったマグロを食べるなんて事もあるのかも知れない。

 人混みの中、奥へ奥へと進んで行き、突き当たりの喫茶店に辿り着いた。狭い店で満員だったが、兄の顔を見つけた客が席を空け、何とか座れた。店主もウエイトレスも馴染みらしく、注文もしてないのにカレーとコーヒーが運ばれて来た。まあ、ウエイトレスと言ってもオバチャンなのだが……。

 朝っぱらからカレーなのかと思ったが、兄は伝票に首っ引きで、余分な動作は邪魔だから、スプーンのみで食べられるカレーが良いのだと解る。瞬く間に平らげ、コーヒーを啜る。こちらは予想に反してゆっくりで、伝票を仕舞い込みながら店の人に軽口を叩き、冗談を交わし笑って店を出る。これが朝のルーティーンらしく、後は駐車場の軽トラの荷台の荷物を確かめれば良いだけだ。

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