転生空気の彩晴嵐紀(リウェザロア)

墨兎

第1話 目覚めの空気

「はい! いえ! たいへん! 申し訳! ございませんでしたああアァァンッ!……ふう。」


古いアパートの玄関先で、おれは深々と頭を下げていた。ようやく自宅に着いたところで、お叱りの電話がかかってきたのだ。


「なんだよ、もう……。」


背筋を伸ばし、会社支給の携帯ガラケーをしまう。景気の悪い溜息をつくと、鍵で自室のドアを開く。安っぽい扉を閉めながら、自分のスマホをチェックする。そして言った。


「——アーたん、ただいま!……おつかれおつかれ疲れたにゃんにゃん……♪ 」


狭い玄関でスマホを見つめ、俺は画面に浮かぶ金髪美少女——レア度SSSRの戦女神アーシェたんに、帰宅のご挨拶をしたのだった。


部屋は3畳。畳3枚の狭小にベッドとシャワーとキッチンを詰め込んだ、むかし流行った格安物件。建物を細かく小分けにすれば、それだけ多く家賃が取れる。そんな業者の策略にハマったってわけで、住み心地などは皆無だった。


……ああ、つらい。現実つらい。


「大丈夫? ご主人様マスター、元気出して!」


ありがとう。いつもアーたんは優しいなあ……。でも、社会では、俺はいてもいなくても同じ存在。

いわば空気だ。


30過ぎて、友だちなんて一人もいないし。

話し相手は俺の女神アーたんと、たまにゴミに湧く小蝿コバエくらい。


「大丈夫? ご主人様マスター、元気出して!」


ありがとう。でも。

空気のように、無味無色。

個性がない。つまらない。

みんなが言うんだ。

それがおれだよ。

しょうがないだろ……?


みんなは俺を利用するばかり。毎日、毎日、朝から晩まで。なんなら朝から朝まで働かされて。それなのに。仕返しの気力も、言いたくないけど能力も、おれには何にも、ないんだよな……。


「大丈夫? ご主人様マスター、元気出して!」


ありがとう。泣いちゃうぜ。

こぼれる涙をこらえながら、俺はもう一度キャラ画面のボイスを再生した。


「大丈夫? ご主人様マスター、元気出して!」


ふぅ……尊い。

さて寝るか。寝るのが唯一の楽しみだ。


しかし、空気。空気。空気か……。

どうせ見えない空気なら、風に生まれてきたかったなあ。

世界を旅して、自由を謳歌する的な?


はあ、もう、つかれた。アーたん、おやすみ……!

小さなベッドに倒れるように、疲れ果てた体を放り出す。


ガッ。ゴォン。


え。

あれ。

痛?

え?


——頭を打って呆気なく。おれは意識を手放した。


…………。


…………………。


* * * * * *


——次の願いは……なによ、これ? まあいいや、『願いよ叶え〜!』——はい、《実行》っと!


あどけない女の声が聞こえた。


——ねぇ、ほら、さっさと目覚めてくれる? 女神も暇じゃないんだから。はいはい、じゃあね、さようならー! あなたにとっての理想の世界が待ってるわ♡  ……はい、次のかた〜!


女神は言った。


目を覚ますと、おれは空気だった。


ちょっと何言ってるのかわからない?

だって、そこにそう書いてあるんだもの。


半透明の四角に文字が浮かぶ。

あれだ、ステータスウィンドウってやつ。


^^^^^^^^^^^^^^

名前 : 未設定 ◁

種族 : 空気

Lv. : 0  (Exp. 0/100)

スキル : 拡散

^^^^^^^^^^^^^^


うんうん。空気ね。

レベルはゼロ。

まあ、まだなにもしてないからね。


うんうん……空気?

ウィンドウ?

おれは辺りを見回した。


石の床。

上には天井。

横には壁と、鉄格子の嵌まった窓がひとつ。

宙に浮かんだ光る文字。

他には何も。何も無かった。


なに、ここ、どこ?

ステータス?

ってか、あれ? 体?


(……はいはい、そうね。空気だもんね見えないよね……っておい!)


声も出ないし。

独り寂しくノリツッコミを楽しむことも許されない……のはまあいいか。

なにがなんだかわからない。


(目もないのかな……そもそも、おれは……?)


ただ、ひとつだけ分かることがある。

この狭い部屋の透明な空気の、どこまでが自分で、どこまでが他の空気なのか。

ちょうど人間——172cm 65kgのフツメン(写真加工済み)1人ぶんの領域だけは、たしかにおれの気体からだだった。


(おれの、からだ、か。)


おれのからだ。

おれは、おれ。

少し冷静さを取り戻し、改めて部屋を観察する。


れんがを積んだ厚そうな壁。

窓には太い鉄格子。

窓と反対側にある古めかしい扉も鉄でできていて重そうだ。


(中世、っぽい。ステータス。つまり、もしかして……来ちゃった? 異世界?)


異世界か……。

異世界……転生?


え? おれ、死んだ?

まじ?

ベッドに頭をぶつけて……空気?


(……やれやれだぜ。そうだ、素数を数えるんだ……1?……2、3、5、7……9……? あれ? なんだっけ?)


頭の中身も空気なので、素数を数えるのはあきらめた。

それでも、ちょっとは落ち着いた。

神作品は偉大である。


なんだか、ため息のひとつもつきたいところだ。

息、無いけど……。

なんならおれが息だけど……。


しかし、この部屋。


おれの部屋の倍——6畳くらいはあるけど、それでも狭いよ。

なんで、転生してまで狭小に悩まなきゃいけないんだ?

牢屋みたいで気分がわるいな。


(そうだ……スキル!)


スキルは【拡散】と書かれていた。

うまいこと、隙間とかから抜け出せるかも。

もしかしたらチートで、壁なんか爆散できるかも。


でも、どうやって使うんだ?

わからんけど……試しにちょっと念じてみるか。


(スキル……【拡散】!!)


瞬間。

自分の存在が大きくなるかのような万能感。

気体からだが——拡がる……!


あっ、ちょ、すごっ……?


あっ、あっ、あっ……。


あっ、あっ……消える……。

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