第30話 美しい夏
「悠星がコーヒーを淹れるなんて知らなかった」
休業日の喫茶『渚』のキッチンで悠星はコーヒーを淹れていた。
お客様は夏弥と那雪だけ。
「似合わないよ」
「あと10年もしたらダンディになって風格が出るだろうよ」
「引退後は、喫茶店でも開くの。競合は潰さないと」
「そんな未来の話はおいて、今日、どこ行くんだ」
とりあえず、喫茶『渚』に集合ということになったデートの日。
朝からモーニングセットモドキとして軽食を頂き、貸切状態の一階の店舗でまったりとくつろいでいた。
「女の子はリードして欲しいんだよ」
「ピッチャーもそうだな」
「じゃあ、那雪。発案者が、スポットを決める義務を負うのがこの世の――」
「そうですね。ここでまったりするのもいいですね」
「那雪、答えになってない。まぁ、那雪がいいならいいけど」
「外は暑いしな」
「高校球児が何を言っているのやら」
「まぁ、コーヒー飲みながら行く場所决めようか」
悠星はコーヒーを淹れおえて、テーブルに座る姉妹の前に置いた。
「波美さん、今日は朝からいないの」
「用事。今朝、突然出ていった。お姉ちゃんと同じ」
「変な気をきかせたと」
「夕ご飯まで帰ってこないって」
「それはずいぶん長い用事だな。休みの日に」
姉妹が、ちょうどいい温度になったブレンドコーヒーをカップから口に含む。同じような動作で、姉妹らしい。
「うん。悪くない」
「美味しいです」
それぐらいしか30年の人生で身についていないからな。肉体は怪我をして衰えたし。
まだ、夢の中で、夢が続いている。甲子園、できるだけ長く楽しもう。もう目標には行けたのだから。そこまで気負うことなく――。
じゃないと、せっかくの野球がもったいないから。
「少し柔らかくなった」
「甲子園行けて上機嫌なのよ。さらになんでも聞いてくれそうだよ。優しいお兄ちゃんに那雪はなんかお願いしておいたら」
「ふふ。お姉ちゃん、そんなにお願いごとなんかないよ」
「甲斐性ないだって」
「高校生に甲斐性を求めないでくれ。将来性を見てくれ」
「元甲子園球児、犯罪、逮捕――」
「おい、ネットのネガティブなサジェストを読むな」
人生は色々あるんだ。色々。
ちょっとしたことが勝負を分けるように。
「大丈夫。わたしが養いますよ」
那雪が冗談でそんなことを言う。
「ダメダメ。昔の武勇伝だけの男に引っかからないように」
まだ将来は未定だよ。栄光と転落のドラマもゴメンだな。一度目は全く栄光のない人生だったが。
「じゃあ、お姉ちゃんにお任せするね」
「またそうやって――。わたしと那雪でキャッチャボールでもする」
「人をボール扱いするなよ」
「本当はそっちが嬉しいくせに。知ってるよ。男子はハーレムが好きって」
よし。そんなバカなことを教えたやつに、150キロのストレートをお見舞いしよう。
悠星は固く拳を握りしめる。
「あ、そうだ。帽子、もらおうかな。お願いごと」
那雪はお願い事を頭の片隅で考えていてくれたようだ。
「じゃあ、スパイクでもわたしはもらおうかな。陸上部だし。一回洗ってね」
「俺の私物がバラバラになって行くんだが」
「ベレー帽と交換でいいですよ」
「じゃあ、夏弥から――言わないでおこう」
「ちょっとっ、わたしのシューズで何を妄想したか、ハッキリ聞こうじゃないか」
「靴ひももらったし、それでいいよ」
甲子園の土とかはご所望ではないようだ。
3人で雑談をしながら、コーヒーを飲み終えて、喫茶『渚』を出る。
ドアを開けると、日光はすぐに浸透していく。床板に線を引く。
歩く。
ドアを簡単に開けれて――。
岩沢姉妹が扉をすぎるまで抑える。
「紳士じゃん」
「デートだからな」
「そっ」
閉めたドアの鍵を、夏弥が慣れた手つきでしめる。変わらない鍵だ、あの頃と。
「手、繋がないの」
「デートですね」
いつの間にか左右の手を取られていた。
引っ張られるように、足は進みだす。
「休日のお父さんみたい」
「那雪、それは言えてる」
デートの場所は、二人とは今までに行ったことのない場所だ。
歩いて行ける距離にあったのに。
夏のジリジリとした日差しが、生きている証を流させる。
時間が少し進んで、風は音色を連れてくる。よく耳にする甲子園の応援ソング。
夏の行進曲だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます