限りなき夏に返り咲く
鳴川レナ
第1話 記憶と再会
凍結された時間が、夏の日の光で、ジリジリと燃えて動いていく――。
夏の午後。
喫茶店のテレビ画面に映っているのは、甲子園の生中継。
高校野球。過酷な夏の日差しの中で行われる、身体の限界を超えた戦い。ただ一瞬に凝縮された青春のロマンは、日本人を引き付けてやまない。
名誉と栄光。夏の一ページに刻まれるドラマ。歴史のエピソードとして語られるベストゲーム。特別で神聖な祭典。
かつて自分が行けなかった舞台を、カウンター奥のキッチンから
壊した右肘を触る。あのとき、無理に投げなければ。100球以上を投げたあと、雨で日程が詰まった中一日の地方大会の決勝。延長戦で150球を超えたあたりから、かなりの違和感はあった。けれど、無理矢理に投げきった。
自分で進んで投げた。後悔は、もう何度もした。でも、自分で決めたことだ。他の誰も恨むことはできない。それに、大学中にリハビリをして、外野手のバッターとしてプロ野球の二軍に入団することができた。
そう、だから、本当に、後悔はなくていいはずだったんだ。
プロ入団後に、交通事故で脚に怪我をおわなければ。
偶然は、残酷だ。偶然は容赦がない。
努力が実りそうな、その瞬間でも襲ってくる。
返り咲いても、枯れるのを待たない。
そして、不運とは重なる。
事故のとき、リハビリに付き添ってくれた
客が二名来て、ウエイトレスが席に案内し、注文を取る。
テレビを観ていると、甲子園の名場面集が挟まれる。
その間、注文を聴きおえて戻ってくるウエイトレス。夏弥にどこか似ている女性。
悠星は、右足にあまり負担をかけないように立ち上がる。
「悠星。コーヒー、ホット二つ」
「了解」
岩沢夏弥の妹、
岩沢家の姉妹には、返しきれないような恩がある。事故のあと、本当に何もかも嫌になっていたとき、近くで支えてくれたのは、那雪だった。
昔ながらの喫茶店に飾られた絵や小物をぼんやりと見る。那雪の趣味がよく出ている。
ポットの水を沸騰させてから、コーヒーの粉を蒸らす。
昔の自分なら、こう言うだろう。らしくないと。
まさかプロで活躍するつもりが、地方の街で喫茶店なんて、と。
自分の中で、きっと、もう後悔はない。
そう、自分だけだったら。
もう一度、やり直したいと思ってしまうのは、きっと彼女たちをーー。
名シーンが流れる。
延長15回再試合のゲーム。
「捕ったぁ!センターフライ。ランナー残塁。延長15回。187球。決着はつかず。引き分け、再試合」
もし叶うなら、もう一度、人生をやり直したい。そしてーー。
黒土のようなコーヒーにやさしく水を注ぐ。
小さく「の」の字を描くようにドリップしていく。粉が膨らみ、コーヒーのいい香りが漂っていった。
ぼんやりと意識が、香りと渦と泡の中に溶けていく。
甲子園の定番の応援ソングが耳の奥でひっそりと鳴っている気がした。
†††
響く大きな応援の声に、ハッとした。
悠星は、周りを見回す。
球場だ。
さっきまで、喫茶店でコーヒーを淹れていたのに、持っているのはポットではなくボールになっている。意識が、ぼんやりする。
汗をぬぐう。
前を見ると、キャッチャー。
バッターボックスにいるのは、
白昼夢でも見ているような気がする。夏の暑さで熱中症になったときのように。応援に、吹奏楽はないのに、それがあるように感じる。
この場所、この雰囲気、思い出す。
軟式のボールか。久々に触った。
中学軟式の地方大会の決勝か。また汗が垂れてくる。
たしか、ストレートを打たれて、三塁ランナーが帰還して、サヨナラ負けだった。
右手のボールを持ち変える。
悠星は、ゆっくりと振りかぶる。
肩も肘も、羽のように軽い。軸足もしっかりしている。
よくできた夢だ。鮮やかなーー。
討ち取らせてくれよ。
これが、俺の最高のボールだ。
このときは、絶対に投げられなかったボール。
ふっと浮き上がり、利き腕の方に曲がりながら沈んでいく。
矢瀬のバットが動く。内角にくいこむ。
これにのけぞらないか。
でもタイミングはずれているし、かなり窮屈な振り。
完璧に討ち取っ・・・・・・。
剛が、ボールを
ボールは、後ろへと抜けていく。
三塁ランナーは、ホームイン。
矢瀬も振り逃げで、一塁へ。
会場が湧き上がる。
悠星たちのチームの敗北が決まった。
すぐに、両チームの全員がグラウンドに並んで、お互いに礼をした。
試合が終了した。
終わって、ベンチから荷物を片付けていく。
ストレッチを終えて、肩と肘に氷のうをあてる。そのあと、監督からの言葉を聞くために、集合がかけられる。
長い夢だ。
それに、やたらと視界も鮮明で、皮膚は暑いし、汗の感覚もはっきりしてきている。
「以上。解散」
ほとんど聞き流していた監督の言葉も終わる。
あとは、閉会式をやって、試合会場から帰るだけ。あっけのない終わり。
「おい、最後の球。なんだよ、あれ」
剛が、問い詰めてくる。
中学の頃から、図体はデカかったけど、本当に中学生かと思える。
175cmはすでにあるだろうし、なにより横幅が大きい。体重の方が、中学生離れしているだろう。
「ああ、シンカーだ」
「ストレートのサインだったろ。それに、シンカーなんて練習で投げてこなかっただろ」
「できると思ってーー」
「ストレートだったら、勝ってた」
剛が怒っているのが分かる。
夢の中なのに、やたらと絡んでくるな。
ストレートは打ち返されたのは、夢だから分かっているはずなのに。
でも、サイン無視をしたのは、自分だ。悠星は一応、謝罪する。
夢の中で、殴られたりするのはごめんだ。目覚めが最悪になるだろうから。
いまは、なんだか気分はいいんだ。身体の自由そして、矢瀬を三振にとって。
「悪かった」
「・・・・・・」
「なんだ」
「やけに素直だから」
当時、負けた後、どうしたっけ。憶えてないな。
むちゃくちゃ悔しかったはずなのに。渾身のストレートを打ち返されて。
悠星は、軟式ボールを手でもてあそぶ。軽くて、よくはねる。
「どうしたんだよ」
「いや、なんでもない」
球場の自販機の方に1人で歩いていく。
ボロいサイフから小銭を出して、水を買う。
本当に、リアルだ。
悠星は、自分の身体の感覚を確かめる。
まさか、戻ってきたのか。
そんなわけないか。
ペットボトルの水を飲み干す。
さっさと戻らないと。
「悠星っ」
聞き覚えがあった。いや、そんなレベルではない。もう何度も聞いて、聞きすぎてーー、長いこと聞いてなくても、判別できる声。他の誰かと間違うことはありえない声。
手を振って、笑顔で歩いてくるのは、岩沢夏弥。横には、妹の那雪もいる。
「なんだ、もっと負けて悔しがってると思ったら。ーーうん、どうしたの、人の顔をじろじろと見て。応援来てないと思ったの。目、合ってたでしょ。先に帰るわけないし。おーい、聞いてる。おーい、野球バカ」
夏弥。
中学生ぐらいの幼い顔立ちになっているけど。
まぎれもなく、岩沢夏弥だ。少しくせ毛と鳶色がかかった黒髪。
ぼやけていた画像が鮮明になっていくように感じるのに、また揺らいでいく。
ふらっと近づき、悠星は気づくと、そのまま彼女に抱きついていた。
「え、ちょっと、えっーー」
棒立ちで、固まっている夏弥を、思いっきり抱きしめていた。
時が止まってしまって、このまま離したくない。
「お、お姉ちゃん」
隣の那雪の声で、夏弥は、我に帰ったようだ。
「ちょっ。なにするの。いきなりっ」
夏弥に両腕で押し返された。
そして、バチンっ。
頬をはたかれた。
痛い。それもかなり。
「もうっ。試合に負けてショックだったかもしれないけど、しっかりしてよ」
恥ずかしそうに頬を赤らめながら言う。
もしかして、本当に、夢じゃない。悠星は、はたかれた頬をさする。ヒリヒリとした痛み。全く現実と同じような痛み。目が覚めることもない。
「那雪」
那雪を見る。まだ中学一年生。
姉の夏弥が抱きつかれていたので、少し怖くなったのか、一歩引かれる。
なにげに少しショックに思う。
「ちょっと、妹に、変なことしたら、右ストレートをお見舞いするけど」
「そ、それは遠慮しとく」
夢か、夢じゃないか。
まだ不安はあるし分からないけど。
伝えておかないと。
「俺、夏弥が好きだ」
「は?」
「那雪も好きだ」
夏弥は、ポカンとしたあと、怪訝そうに眉をひそめる。
「帰ってシャワー浴びて、寝なさい。発情期ハグ魔。―――あと、涙をふきなさい」
言われて初めて、悠星は、自分の頬に、熱い滴が流れていたことに気づいた。
「汗だ」
「そっ」
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