2 ハロー

 どれくらいの間眠っていただろう。

 一人で寝落ちたはずの部屋の中。なんだか辺りがうるさい。

 そういえばテレビを点けたままだったな。

 ぼんやりと、目を閉じる直前に見た女三人を思い出しながらそっと瞼を開けた。

 ガラガラという担架が走るような音。まくし立てる数名の声。随分と緊迫した光景が耳に入ってくる。


 もしかしてドラマでも始まったのか?

 そう思った俺はテレビが置いてある右を見ようと頭を動かした。

 が、まだはっきりとはしない視界に入ってきたのは家族からのお下がりで貰った薄型テレビではなかった。

 まず枠が白いし、画面も小さい。それに、ドラマのはずなのに映し出されているのは数字と波線だけ。そうそう。よく医療ドラマなんかで患者の隣に置いてあるやつ。なんかの健康を促すCMでもやってるのか? にしても斬新すぎるだろ。

 廊下の向こうからは、またけたたましく担架が駆けていく音がする。やめてくれ。なんか耳に入るすべての音がまだ頭に響くんだ。


「はぁ…………」


 天井から俺を照らす電気が眩しい。これもまた目に染みる。咄嗟に腕で目を覆った。

 腕を動かすと、動きに追従して細い透明な管がばらばらと動く。


 ん?


 そこで俺はようやく違和感に気づく。

 ちょっと待て。

 廊下? 電気?

 俺の部屋に担架が走るような廊下なんてないし、今は真昼間だから電気なんてつけてない。


 は?


 待て待て待て待てwait。

 たらりと冷や汗が流れていく感覚が全身に走る。


 え? 嘘。もしかして俺…………!?


「がぁ……ッ!?」


 勢いよく上半身を起こすと、阿保みたいな声が喉の底から出ていった。

 きょろきょろと辺りを見回す。すると、ちょうど部屋に入ってきた看護士さんが目を見開いて顔を青くする。


「せ、先生……! 先生─────ッ!」


 そのまま興奮して絶叫した彼女は、手に持っていた紙を散らかしながら部屋を出て廊下を駆けて行った。

 彼女が消えていった廊下には、他にも看護士さんが歩いていくのが見えた。やっぱりここは病院か。

 真夏の昼間に窓を閉めっぱなしにしたのはやはり間違いだったのか。

 窓を開けると余計に熱くなりそうだから閉めていたが、電気代を気にして扇風機もつけずにいたのはやはり迂闊だった。

 灼熱の空気が充満したあの部屋は、まさに孤独の監獄。

 ああ。目の前の電気代をケチったあまり、こうして熱中症で病院に運ばれて結局医療費が出て行くことになる。

 俺はどこまでも馬鹿野郎だ。


「はぁ…………最悪」


 ため息を吐いて項垂れる。が、落ち込んでいるくせに妙に脳が冴えてきた。


 待てよ?


 でも誰が、一人部屋で倒れていた俺を病院まで連れてきてくれたんだ? 救急車を呼ぶにしても、誰かが俺を見つけないとそんなことするはずもないし。


「あれ……?」


 ハタと思考が止まる。頭を抱えていた指がぼんやりと視界の中でその輪郭を露わにしていく。


「ん……?」


 やけに細いし短い。

 自分のものとは思えない肌の色と指の長さ。俺が瞬きをしたと同時に、また部屋の入り口が騒がしくなる。


「ゾーイ!!」


 飛び込んできた声の方を見やれば、俺の親よりも少し若いくらいの夫婦らしき人たちが目に涙を浮かべて俺のことを見ていた。


「え……?」


 俺のこと?

 耳慣れない名前に見知らぬ人だが、明らかに俺のことを見てウルウルしているし、そもそもこの部屋には俺一人しかいない。

 え。じゃあ俺のことだよな?


「……お母さん。お父さん」


 勝手に言葉が口をついていく。驚くほど滑らかに。何の違和感もなく。まるでそのことを初めから知っていたみたいに、俺はその二人のことをそう呼んだ。


「もう……! なんて馬鹿なことをしたの……!」


 お母さんと呼ばれた女性はセミロングの髪を一つにまとめていた。あまり化粧をしていない顔は真っ赤になっていて、恐らくずっと泣いていたのだということが分かる。

 彼女は俺のことを一切の迷いなく抱きしめ、二度と離したくない意志が伝わるほどに強く力を入れた。


「ゾーイ。お前の悩みに気づいてやれなくて本当にすまない……。父親失格だ」


 お父さんの立派な黒髪もぼさぼさになっていて、無造作に乱れた髪を見るだけで彼の苦悩が見てとれる。


「ご、ごめんなさい……?」


 よく分からないが、ここは一回謝っておこう。

 困惑を隠せないままに呟くと、母親はもう一度俺のことを強く抱きしめた。

 俺から離れた母親の顔と、彼女の肩を抱く父親の顔。やはりどちらにも見覚えがない。

 そもそも、純粋なアジア人って感じの顔をしていない。でも俺は純日本人だ。俺の親族にも、こんな風に少し濃い顔をした人間は一人もいない。特別美形ってわけでもないが、多分街で見かけたら整った顔の人たちだなぁと思うだろう。


「イェスズさん」


 そこへ白衣を着た医者らしき人が現れる。彼もまた俺の日常で見かける一般的な容姿とはまた違っていた。隣に並ぶ看護士さんは馴染みのある顔の造りをしているけど。……なんだか外国に来たみたいだな。

 何が起きているのかよく分からなくて、俺はただただ医者を見上げる。


「娘さんが息を吹き返したのは奇跡です。お二人の祈りがきっと天に届いたのでしょう」

「ええ。ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます……!」


 母親は先生の手を掴んでブンブンと上下に振る。先生はにこやかに微笑み、その眼差しを俺へと向けた。


「ゾーイさん。今回は偶然の奇跡ですよ。自身と、もっと別の方法で向き合ってみてください」

「…………はい」


 分からなくても返事をするのは俺の悪い癖。

 だが先生は俺の返事に満足したのか、小さく頷いて看護士さんに何かしらの指示を出す。


「少しお話がありますので、ご両親はこちらへ……。ゾーイさん、もう少し安静にしていてくださいね」


 彼女の優しい声にこくりと頷く。

 先生、看護士さん、両親らしき人たちは部屋を出て行き、俺はまた一人ベッドの上に取り残された。


「……え!?」


 当然、今起こった現実……? がよく分からなくて大きな声で叫ぶ。

 もう一度自分の手をしっかりと見てみた。とりあえず、ヒントはここからだ。

 でもやっぱり、その手はいつも見ていた俺の手よりも二回りは小さくて華奢。手の平はクリームパンみたいだけど、ごつごつしてないしなんか柔らかい。

 慌てて俺は自分の胸元を見下ろす。もうテンパってるから躊躇いなんてなかった。


「う、うそだろ……?」


 思った通り、まっ平だった俺の胸にはふくよかな山ができている。


「え……? え……っ!?」


 恐る恐る触ってみても偽物じゃない。ちゃんと手が触れている感覚もあるし、これは明らかに俺の身体だ。

 ペタペタと顔に触れてみた。当然ざらざらとした髭なんてないし、加えて言えば肌がつるつるしているし、なんか潤っているような。俺、乾燥肌なのに。

 布団を剥がして患者衣から覗く足を見ても産毛しかない。……あ、これはいつもそうだったか。いやそうじゃなくて!


 バクバクバクバク。


 心臓の音が徐々に大きくなってくる。誰かが俺の心臓を太鼓にして叩いてるんじゃないかってくらい、全身がこの音に支配されて揺れていく。

 頭のてっぺんからサーっと血が引いていって、体温まで下がった気がする。

 俺は震えながら自分を抱きしめた。


 まさか……まさかまさかまさか────……!


 さっき先生が言っていた言葉を思い出す。


『娘さんが息を吹き返したのは奇跡です。お二人の祈りがきっと天に届いたのでしょう』


 む、娘……? っていうか、息を吹き返した……?

 泣いていた両親らしき人たちの顔を思い出し、ふと震えが止まった。


「俺……死んだ……?」


 こぼれた声は虚しく部屋に響く。よく聞けば、この声も俺のものじゃない。流石にここまで声は高くなかった。

 ってことは……やっぱり……?

 次第に脳が目覚めていった。みるみるうちに視界が明るくなっていって、今度は興奮で鼻息が荒くなっていく。


 状況を整理してみよう。

 恐らく俺は熱中症で死んだ。畝原藤四郎は寂しくも惨めに孤独な部屋で生涯を閉じたんだ。

 そして今、俺はゾーイと呼ばれる女に生まれ変わった。……いや、生まれ変わったってのも変だな。どうやら話の流れから彼女は自殺したんだろう。彼女は亡くなってしまった。そこに俺が入ってきた、と。

 抱きしめていた身体を解放すれば、さっきとは違う緊張感が全身を奪う。

 俺は女になった。

 死ぬ前に言った恨み節が、まさかこんな形で返ってくるなんて思いもよらなかった。

 愛らしく膨らんだ頬を触ってみる。うん、滑らかな肌。もちもちじゃないか。多少荒れている箇所もあるけど。


「女……女……かぁ……」


 藤四郎時代に”女”という生き物を幾度となく恨んだし羨んだ。

 皮肉なことに、今はそんな俺が女になるなんてな。

 先ほど見た両親の顔を思い返し、自然と口元は緩んでいく。

 あの二人の娘ってことは、俺、そこそこの容姿をしてるんじゃないの? いや、間違いない。あんな整った両親から生まれた子どもだ。少なくとも無加工でインフルエンサーになれるくらいの容姿はしてるだろう。

 期待が膨らみ勝手に笑い声が唇の端から漏れていく。

 女であればとにかくなんでもいいやって思っていたけど、更に愛らしい容姿まで手に入れるなんて。


「ようやく運が向いてきたか」


 もう一回死んでるけど。

 信じられない状況に巻き込まれているというのに、どちらかと言えば今の俺を支配していたのは喜びだった。

 ゆっくりとベッドの下に足を下ろしてスリッパを履く。腕には管がついたまま。とりあえず点滴を支えにしながら、俺は洗面台に行くために部屋の入り口付近の小部屋へと向かった。個室だから、ちゃんとシャワーも備えつけらえていた。


 どきどきどきどき……。


 めちゃくちゃ緊張する。

 女になった俺の姿。一体どんな顔をしているんだろう。なんだか神の審判を受ける気分だ。

 焦らしながら洗面台の前に立つ。顔を上げたら鏡がある。ああ、手に汗かいてきた。生まれながらに地上に生きるブロブフィッシュとして過ごしてきた。思い返せば苦しくて辛くて切なくて……。自殺する勇気こそなかったが本当によく耐え忍んできたと思う。でも、もうそんな俺ともおさらばだ。

 これからはゾーイとして生きる。どうして自殺したのかは分からない。けど、彼女なら。彼女ならきっと、俺はイージーゲームの人生を満喫できるはずだ。神様ありがとう。ようやく俺は、地上での罰を終えたのですね。


 涙が出そうになりながら、俺は自分の顔をそっと上げた。

 鏡に映るその姿。


 パーマのかかったボリュームのある栗色の髪は肩下より長く、しなやかで健康的。だけど指通りは悪そう。

 瞳の色は薄いブラウン。おいおい、もうこれだけで美少女……………………ん?


 念のために瞬きをしてみる。出来るだけ強く瞼を閉じる。霞とかなくちゃーんと見るために。え? 彼女、目が悪いとかじゃないよね。


 もう一度瞼を開けてみる。そこにいるのは、やっぱり美少女…………………………っじゃないっ!?


「No waaaaaaay!!」


 俺は絶叫した。なんで英語なのかは知らん。そんなことはどうでもいい。

 鏡にぐっと顔を近づけてしっかりと細部まで確認する。頬をつねっても撫でても鏡は俺と同じ動きをする。


 おいおいおいおい嘘だろ。嘘だろ!?


 鏡に映る俺、もといゾーイは、どうあがいても美形とは言えないし、愛らしいと言えるのかも微妙だった。

 頬はふくふくしていて赤ちゃんみたいで可愛いかもしれない。けど、鼻はぺちゃんこだし唇もなんだか薄すぎだし、眉は手入れしてないのか生えっぱなしのナチュラル。それに、何よりこの目……。

 つぶらな瞳だと言えば聞こえはいいだろう。でもこれは……多分、その域にも達してないぞ?

 どちらかと言えば目つきは悪いし、なんだか自分で自分を睨んでいるみたい。君、物事のすべてに不服だって顔してない!? でもどっか哀愁も漂ってるし、なんか憎めない。

 これは……長年見慣れた謎の既視感がある。ジャンルは違う、けど。


「ぶ…………」


 落胆の声が無意識的にその先を言おうとしない。


「ぶさかわ…………」


 そ、そうだ。

 そうだそうだそうだ!


 彼女はまさに世にいうぶさかわ猫。

 そのふてぶてしい態度と顔と貫禄で世の飼い主たちを虜にしてしまう。そう、そんな顔!

 ゾーイはまさに、ぶさかわ猫顔だ。

 頬に添えた指が儚く洗面台へと落ちていった。

 確かに俺は、並以下でもなんでも容姿なんて気にしないって思った。

 女であればなんでもいい。女であればきっと俺みたいな苦労はないって。そう思い込んでいたから。

 だけど実際、この姿を目の当たりにすると……。


 チクチクと胸が痛む気がした。

 鏡から顔を背け、とぼとぼとベッドに戻っていく。ちょうど両親も部屋に戻ってきて、俺のことを見てやはり嬉しそうに笑う。

 そういえば藤四郎の両親だって容姿は普通だった。俺とは似ても似つかなかった。

 だから彼女が彼らに似ていなくとも何もおかしなことではない。すべては遺伝子のいたずらだ。

 ベッドの中に潜り込む俺を見守りながら、両親は「良かった、良かった……」と奇跡に感謝し続ける。


 とにかく俺は丸くなった。今は何も考えたくない。

 耳鳴りがする。耳を塞いで、俺は新たな人生の幕開けから束の間の退避をした。

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