その目で恋を見たことはある?
洲央
第1話
朝から空が曇っていると、それだけで憂鬱な気分になる。まして仕事のある日ならばなおさらだ。
突き出した窓枠だけが僕のベランダ。カーテンの向こう側で一晩中月光を浴びたハーブに水をやる。
引きちぎられて僕の胃袋に収まる緑の葉を山盛りにつけてくれ。
一千切り、僕は夜の欠片を飲み込む。
雨が降り出すよりも早くシャワーを浴びて、ジーンズのポケットにShūji Terayamaの詩集を突っ込んだ。
本当は部屋の電気を付けたままにしておきたい。この大都会で、僕という人間が生きている小さな空間がいつでも温かな光で満たされているという事実は、寂しい心の拠り所になってくれるだろうから。
帰る道を見失うほど酒を飲んでも、オーナーが仕事中にかけている80年代のロックサウンドに平衡感覚を破壊されても、雨雲が僕の全身を覆っても、部屋の明かりは僕を安らぎへと導いてくれるはずだ。
もちろん、僕の乏しい懐にはそんな贅沢な電気の使い方を許す余裕なんてなくって、結局ひとしきりの準備をして靴を履いたら、電気を消して家を出る。
学生と夢追い人が密集して生きている街・ブッシュウィックはまだ眠りの中にいた。コートのポケットに無造作に両の手を突っ込んで、コンクリートに窒息させられている大地を踏みしめる。
ウィリアムズバーグにある僕の職場・古着屋の「ラビッツ」に先に雨雲が到着してしまったら僕の負けだ。
それでも僕は急がない。生活という名の一定のリズムを崩してしまうと、途端にこの世が生きづらくなってしまうから。
イヤホンから流れてくるのは、海の向こうの同盟国で高校生が作った心地よいサウンド。日本語はわからないけれど、どうやらこれは恋の唄らしいとGoogleに集う叡智が教えてくれた。
ニッカボッカ・アベニュー駅のホームに降りて、影のような人の群れと合流して一つになる。こんなにたくさんの人間がこの街にも潜んでいたんだっていつも驚く。
地下鉄に揺られながら仕事のことを考える。
午前中は市場での買い付け、午後は合同展示会の準備でつぶれてしまうだろう。
嗚呼、素晴らしき哉労働日和。
日付が変わる頃、すっかりくたびれた僕は、きっと排水溝に引っかかった誰かの髪の毛の束みたいにみすぼらしくなって、雨の降る街を真っ暗な部屋へと這う這うの体で帰ることとなるだろう。
ファッションの世界は嫌いじゃないし、おしゃれをするのはとても楽しい。
とはいえこれは秘密なのだけれど、本当は描く仕事に就きたいと思っているんだ。
学費が貯まったら労働とはしばらくおさらば。もう少し日当たりのいい部屋に引っ越そう。もちろん、ブッシュウィックから離れる気はないけれど。
マーシーアベニュー駅に到着したら、職場と駅のちょうど中間地点に位置する「スモーキング・ジョニー カフェ&グリル」に入って、五列並んだ道路沿いのテーブルの出入り口から二番目の席に座ってモーニングを頼む。
ゴーレムの涙みたいな泥味のコーヒーは最悪だけれど、目覚めるにはこれが一番ちょうどいい。それに、この店のホットサンドはニューヨークで一番美味い。
注文が届くのを待ちながらポケットで折れ曲がった詩集を伸ばして開く。
オーナーに詩を読めと言われて彼の蔵書から適当に借りたのだけれど、借り物の言葉じゃ響かないのは読む前から目に見えていた。
「キスには口紅が必要なの?」
「だってあたしの唇はおいしくないんだもの」
きっとそれは素敵なやり取り。でも、そこに書かれている切実な気持ちの何一つ、僕は知らない。
唇の柔らかさは想像で、甘いらしい「君」の匂いは空想だ。
いつか出会える運命の人。そんなピンポイントな奇跡は信じられない。
日々は退屈に重なり合って、それでようやく生活らしい形になるのに、突然魔法にかかったみたいに僕の窮屈が消えるなんてのは眉唾だ。
僕にとって、恋とはある種の神話であり、アナハイムにあるとだけ聞いている遊園地みたいなものだった。
有名なマスコットキャラクターだけはそこら中で目にするけれど、僕はアナハイムの空気を吸ったことさえない。地図の上ではカリフォルニア州の陽気な太陽を知っているけれど、僕の身体はごみごみしたニューヨークの他人行儀な寒さしか知らない。
熱々のコーヒーには角砂糖を一つ入れる。
ホットサンドは手づかみで食べてもいいけれど、本が汚れてしまうので、ナイフとフォークを使って食べていく。
この店でそんなことをするのは僕だけだから、鼻につく上品なしぐさからはせめてほど遠くなるように乱雑に切り分けては大口で飲み込んでいく。
そうやってお気に入りのモーニングをお供に灰色の詩集と向き合っていると、カラン、と出入り口のベルが鳴った。
何の気なしにそちらを見ると、金色の髪を短く刈り込んだ長身の男性と一瞬だけ目が合った。
蒼、今は隠れている大空の色をした宝石みたいな瞳だった。
彼は店内を見渡してから僕の方に向かって歩いてきた。スローモーションみたいに世界の速度がゆっくりになった。
彼はコートの下にクリーム色のセーターを着ていた。すらっと長い脚にヴィンテージのデニムがよく似合っていた。
僕の世界に風が吹いた。彼はそのまま僕のテーブルを通り過ぎて、店の一番奥の席に腰かけた。
彼からは煙草と、雨が降る前のあの独特の土の匂いがした。
どちらもモクモクと曇っていて、湿っぽい気持ちを呼び起こす匂いだ。それなのに、僕の口の中はたちまちカラカラに乾燥してしまった。
早朝のスモーキング・ジョニーにやってくる常連客たちはみな顔見知りだったから、彼のような新参者は珍しかった。
長身であることや垂れ目の優し気な顔立ちはどこかオランダ系を思わせたが、確証はない。
自分の身体の特徴をよくわかっているシンプルな服装からすると、もしかしたらモデルか、芸術系専攻の学生かもしれない。
僕は詩集で顔を隠しながら、彼の挙動を盗み見た。
注文はオーソドックスなモーニングセット。待ち時間には一本の煙草。紫煙をくゆらせる彼の表情に浮かぶのは安堵したような穏やかな表情。
届いたコーヒーに砂糖を入れる彼の手のゆったりとした動き。個数は3個。かなりの甘党。
骨ばった拳の薄い皮の下に透ける青紫の太い血管がとても艶めかしかった。
ドクン、ドクン。彼の中に今まさに走っている血潮の蠢きが僕の耳に届いてくる気がした。
泥のようなコーヒーで彼の心臓はガツンと殴られて目を覚ますだろう。
僕も砂糖をあと2つ追加してコーヒーを飲んでみる。甘すぎて、好みの味ではないけれど、それだけのことがなぜか嬉しい。
彼はカバンからネイティブアメリカンの神話が書かれた本を取り出して読み始めた。エッグサンドを頬張りながら。
知性と野生が融合した個性に、僕は強烈に惹かれるものを感じた。
ページをめくる繊細な指の動き。
彼の手首に触れてみたいと思った。
それは急激に湧いてきた炎のような衝動だった。
尺骨の丸みを帯びた突起を撫でてみたい。あるいはその大きな手に掴まれて、マンハッタンに架かる橋まで彼と並んで走っていきたい。
皿とカップが空になるまで、僕の眼球は彼の朝食を追い続けた。
店を出ると、いよいよ空は泣き出しそうにぐるぐると渦巻いていた。コーヒーの雨でも降ってきそうな色をしていた。
アトリエへの道はレンガの高い壁に囲まれていて、極彩色のスプレーアートが今日も昨日を塗りつぶしていた。
抱き合う裸のアダムとイヴにリンゴを勧める金髪の大統領。毒ガスマスクの鉢植えに綺麗な花を植える老人と幼女。ドラミングをするゴリラとそれを放送する電波塔。
目まぐるしく変わっていく壁画上の若い映画たち。
いつもなら目に入る色と形のジャングルに、しかし僕は無関心だった。
僕はもう、ある一つの映像に釘付けになっていた。
出勤して同僚と軽口を交わす間も、バイヤーと会話しながら商品を吟味している瞬間も、展示会の準備でニューヨーク中をめまぐるしく駆け回っている午後も、ロベルタズでピザを買って帰る夜にも、今朝のスモーキング・ジョニーでの一場面が、僕の網膜上で繰り返し繰り返し再上映されていた。
僕の見る彼の映像は、いわば映画の予告編だった。
この先にどんな本編が待っているのか、この世の誰にも分らない。
それを見ることはまだできない。
それなのにどうしようもなく惹き付けられる。
彼と何かを話してみたいと思った。
趣味とか、仕事とか、年齢とか、そんなありきたりなことでいいから、どんなありきたりなことでもいいから、彼のことを少しでも知りたいと思った。
話をしてみたら、もしかしたら気が合ってしまうかもしれないなどと期待した。
芸術やファッションの話はたぶん、楽しくできる。ニューヨークとピザの話、それから音楽の話もきっと楽しい。
でも、別に気が合わなくったってよかった。
僕は煙草は吸わないけれど、彼に勧められたらきっと吸うだろう。ハイになれる薬も、つまらない詩集も、大嫌いなアメリカンフットボール観戦も、彼に勧められたらなんでも僕は頷いてしまうかもしれない。
とりとめもない妄想が、僕を取り巻いて離れなかった。
それでも家に帰りついたらもう起き上がれないくらい疲れていて、ベッドに横になって目をつぶった。
静かな闇に身を委ねるのは簡単だったし、僕と睡眠は親友だったのだけれど、この夜だけは勝手が違った。
仲良しの睡魔が瞼にぶら下がっても、僕の網膜は予告編の上映をやめなかった。むしろ部屋に帰ってきてから、ますます思考の占有範囲が大きくなってしまっていた。
一日の疲労がはちみつみたいにドロリと垂れてきて、暴れる心臓を無理やり窒息させようとした。
けれども鼓動は鳴りやまなかった。
エナジードリンクを日に三本も飲んだ時でも、血流のステレオはこれほど騒がしくは鳴らなかった。
どうやったって治らない動悸にめまい、もしかして病かと疑ってみるけれど、対処方法がまるで思いつかなかった。
いや、ひとつだけ可能性を感じている方法があるにはあった。
けれどもそれを行うことは、アナハイムにディズニーランドが確かに在ると認めるみたいなものだった。
ぐちゃぐちゃになった頭で、僕は何時間か転がって悶えた。
そして最後のあがきに思い切り目をつぶって三十秒、それで僕はもう耐えられなかった。
起き上がって枕もとのスタンドをオンにした。ポッと微弱な光が大都会の空中に灯った。
青い夜と淡い読書灯に照らされた午前二時、僕はShūji Terayamaの詩集を開いた。
驚いたことに、今朝までは灰色だった詩集の文字が、今では色とりどりの刺繍に見えた。
僕は必死に言葉を探した。それらしき言葉を見つけてはかみ砕いて飲み込んだ。この病の特効薬は、おそらく熱に身を委ねることだった。
目覚まし時計が鳴ったのは、僕が詩集を三周したのとほとんど同時だった。
徹夜なんて17歳の夏以来。寝不足の目をこすって、僕は大きく伸びをした。
暴れていた心臓は、とりあえずおとなしくなっていた。けれども熱は、いまだに冷めない。むしろ炭火のごとく、静かに温度を増している。
シャワーを浴びながら真下に顔を向けると、まつげからこぼれた水滴が一定のリズムで青いタイルの床に吸い込まれていく様が瞳に飛び込んできた。
水滴は垂れたそばから銀色の球体となってすぐに消える。そこに映るのは矮小化された世界とその中心に立つ僕だった。
まばたきを三度して顔を洗った。
もう一度目を開けると、水流の中で僕の欲望が起立していた。
彼は翌日もスモーキング・ジョニーにやって来た。その翌日も、またその翌日も、彼は店にやってきて、お決まりの位置でネイティブアメリカンの神話を読んでいた。
このまま僕のように常連になってくれればいいのに。そうしたら何か話しかける理由も見つかるだろう。
ウェイトレスのサラが月に一回はやるヘマで彼にコーヒーをかけるとか。僕は「大丈夫かい」と声をかけ、ラビッツから彼に似合う古着を持ってくる。
それがきっかけで仲良くなって、ニューイヤーズイヴには二人で適当なパーティーへ繰り出したりして。
愛しい都市の騒々しい心臓で、寒さに耐えながらハイネケンで乾杯して、新しい年を迎える瞬間に酒と音楽と光線で頭がおかしくなって。
映画の趣味が合わなくて笑って、音楽の趣味がぴったりで驚いて、お気に入りのファッションに身を包んでマンハッタンを闊歩して。
ありきたりな幸せを彼と享受してみたかった。
友人として。あるいは名状しがたい関係となって。
僕はきっかけを探していた。いや、待っていたというのが正しい。
能動的な感情と受動的な行動の板挟みで、僕の心はヒリヒリと焼き付いてしまった。
人間関係に対していつも受け身なのは僕の悪い癖だった。
自己嫌悪に陥ると、僕は詩人に助けを求めた。
彼の姿を発見してから、詩人の言葉を借りることが多くなっていた。
借りたものはいつか返さなくちゃいけないけれど、それまでに僕の言葉は見つかるだろうか。
今日もまたそんなこんなでチラチラと彼を盗み見ていたら、僕は大変なことに気が付いてしまった。
彼はネイティブアメリカンの神話ではなく、一冊の詩集を読んでいた。それはShūji Terayamaだった。
僕はそのことを認めると同時に、咄嗟にテーブルに突っ伏した。
胸の内に得も言われぬような寒気が沸き起こり、今にも僕は爆発しそうだった。
彼が僕のためにShūji Terayamaを選んでくれた。そうでなくとも、少なくとも、彼と僕は同じ言葉を読んでいる。同じ恋を想像している。
そのことが僕には何よりも嬉しかった。
浮かれた気分でラビッツに出勤すると、朝からドサッと客が来た。地元民から観光客までうんざりするほどの数の異なる顔がレジに並んだ。
空想と現実の落差が僕の歓喜をすっかりかき消した。
現実はせわしなく流れ、感情を味わうための停滞は存在を許されていない。
貼り付けた愛想と身に着けた知識で、古い布切れの集合体を、狂いそうになるほどの数売り切った。
ようやく商売の濁流が落ち着いた頃には、まん丸のはずの太陽もブルックリンの不揃いな下歯によっていくらかその身を齧られていた。
オーナー夫婦はロベルタズに夕飯のピザを買いに出かけてしまった。
退屈な時間帯、ここのところ寝不足気味の僕はカウンターに座って今にも夢へ船出しそうだった。
カランコロンと、オーナーがドアベル代わりに吊るしている下駄が鳴った。
ドアが開くのに合わせて跳ねるウサギの看板が揺れた。
「い、いらっしゃい」
僕は慌てて目を覚まし、意識を係留してこちらの世界に錨を沈めた。
「こんにちは」
気さくな挨拶と一緒に80年代風の店内へ入ってきたのは短い金髪と蒼い目をした長身の男性だった。
その瞬間、僕の脳裏にShūji Terayamaの「思い出すために」の一説が閃いた。
アムステルダムのホテル カーテンからさしこむ 朝の光を忘れてしまいたい
はじめての愛だったから おまえのことを 忘れてしまいたい
みんなまとめて いますぐ 思い出すために
僕は思い出していた。寝不足の原因が彼であることを。
僕は思い出していた。ここが妄想の世界ではなく、現実のラビッツであることを。
彼は僕に気づいているのかいないのか、ともかく店員が僕しかいなかったから「90年代風のシャツは置いてあるかな」と話しかけてきた。
僕は「それなら今朝バックヤードでいいものを見たよ」とできるだけ平静を装って返事をした。
「よかった。見せてくれない?」
「もちろん」
僕は椅子から立ち上がり、そこでふと考えた。
このままバックヤードからシャツを持ってきたとして、そこから始まるのは店員と客の会話だ。
僕と彼の関係性はその瞬間、退屈な現実の一部になってしまう。
せっかくこんな奇跡みたいな偶然があったのだから、それをシャツなんかで壊してしまったら絶対に後悔するだろう。
感情の激しさに置いてけぼりな受け身の行動はもう嫌だった。
彼にかけられた寝不足という魔法を解くチャンスは今しかない。たとえそうすることで別の魔法にかかってしまうのだとしても。
あるいはとっくにわかっている。
はじめから、僕に魔法なんてかかっていない。
出会ったその日は、もしかしたらかかっていたのかもしれないけれど、とっくに効果は切れている。
原因は妄想じゃない。今の僕の寝不足の原因は、まぎれもなく現実だ。
つまりはここに、夢でしかなかった世界が確かに今、在る。
「……ところで君は、その目で恋を見たことはある?」
僕はありったけの勇気を振り絞って、そんな質問を彼に放った。
彼は少し驚いた表情をしながら「ないよ」と一息で返事した。
それからニヤリと唇を歪めて、
「恋を見たことはない。恋人ならあるけれど」
と言った。
僕はその瞬間、はっきりとこの目でそこに、恋を見つけた。
その目で恋を見たことはある? 洲央 @TheSummer
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