第15話
ロクサーヌが目を覚ましたのは、神鳥過激派の独房の中だった。洞穴を利用した房内に自然光は届かず、壁に灯された青い炎があるのみだ。ロクサーヌは立ち上がろうとするが、妙に体が重く感じられた。それは疲労もあるが、それよりも自身の体重がいくらか増したような感覚だった。特に、右腕が上がりにくい。脱臼は治っているはずだった。
ロクサーヌは微光に慣れた目で違和感の正体を探る。それはすぐに判明した。彼女の右腕には円筒状の、鉄で作られた無骨な拘束具が付けられていた。
「なに……これ」
ロクサーヌの顔から血の気が引いていく。これでは紋呪を露出させられず、力を行使できない。ロクサーヌは拘束具を引きはがそうとするが、緩みなく組み立てられたそれは部品同士が擦れる音も鳴らない。
彼女はどっしりした円筒の右腕を一心不乱に壁へ叩きつけた。天然の岩肌がハンマーのごとき鉄の塊に削られるが、拘束具はへこみすらしない。かえって反動が骨にかかり、右腕が痛むだけだった。
右手を振り回し疲れたロクサーヌが息を切らしていると、房の外から、パタン、と本を閉じる音が聞こえた。
「お早いお目覚めで、王女様」
ロクサーヌは低い声がする方を振り向く。目の細かい鉄格子の先には、見覚えのある男が、丁寧な口調とは正反対なおどけた表情をして立っていた。
「お前は……!」
出で立ちを捉えただけで、ロクサーヌの口調は自ずと厳しくなる。
「お前と呼ばれるのも気分が悪い。名前はボイソスだ。よろしく頼むよ」
「素直に呼んでやると思うか」
「王女だのに口が悪い」気に食わないと言うように鼻を鳴らして、ボイソスは言った。
彼はゴーレムも従えずに房の監視を担っていた。紋呪を奪われた非力な少女ぐらい容易に組み伏せられる。そのような自信がありありと透けているようだった。
「フロネーはどうした!?」
ロクサーヌは悲鳴のように、親友の錬金術師の名前を口にした。
「ああ、神童か!」
ボイソスは大袈裟に声を荒げる。出し抜けの蛮声に、耳慣れないロクサーヌは身体が強張ってしまった。
「奴なら小屋で清々しているさ。厚かましいロクサーヌが消えてくれた、とね」
ロクサーヌは耳を疑った。唯一無二の親友に内心では疎ましく思われていたなど有り得るはずがない。成立しない。そうして、耳を塞げば惑わされることはなかった。しかし、ロクサーヌは敵に対しても聞く耳を手放せないでいた。その手緩さを、ボイソスは執拗に攻める。
「貴様が捕らえられた時、奴は突っ立っていたのだ。助けようともせず、追いかけもしない。あっけらかんと見送っていたさ」
「——————」
「これで判らないのか? 惨めな奴だ。では教えてやろう、貴様は裏切られたんだよ」
考えもしなかった真実だった。
ロクサーヌにはフロネーを信じる根拠はいくらでもあった。その積み重ねは男の一言で瓦解するほどやわではない。彼女は毅然としてボイソスの言を否定すれば良い。だが、その選択にロクサーヌは踏み切れなかった。「フロネーは隠し事をしていた」という事実を黙殺できなかったのだ。
あの小屋の一時。普段とは違ってフロネーに元気がなかったことも、口数が少なかったことも、裏切った人物がふてぶてしく関わってきた、この理由で説明がつく。
そうだ、フロネーはロクサーヌを裏切ったのだ。
「そんなの……嘘でしょう……?」
彼女の声は寂れてしまい、打ちひしがれているのが男にあけすけだった。真実を受け入れたくない。その一心で、フロネーの裏切りを、彼女が持ち得る限りの言葉で否定し続ける。瞬間ごとに繰り出される真実と否定は、ロクサーヌを混乱に陥れるには十分すぎた。
「疑うなら確かめに行けばいい。もっとも、出す気はないが」
ボイソスは、この娘の如何を掌握している、と思った。いや、イポスティの指示に従っている以上、誤認であることを知ってはいても、楽しまずにはいられない。神鳥を侮辱する一族の生き残りが苦しんでいるのだ。冒涜者には相応しい報いだった。
「ん? 何をしている?」
意気消沈するロクサーヌは、いつの間にか右腕を差し出していた。面を上げた彼女は、嘆きが浸透した彫刻のような顔を滂沱で濡らしていた。
「紋呪を献上するか、よかろう。このボイソスが丁重に……」
「うあああああああ!!!」
耳を裂く絶叫に驚いたボイソスは、しかし、ロクサーヌの右手を見逃さなかった。
青い発光。彼女の拘束具の中心から青が拡がる。だがそれは紋呪ではない。千度を優に超える超高温が、拘束具の鉄板を急激に熱していた。鋼色は群青を経て、みるみる彩度を高めていく。
「莫迦な、縛呪甲がっ!」
今や拘束具———縛呪甲すら、彼女の眼中にはない。
理由は単純だった。この牢獄から脱出しなければ、フロネーのもとへ戻れない。
キーン———。
ロクサーヌの脳裏を、警告に似た鳴き声が反響する。金切り声に意味があるはずもなかったが、ロクサーヌには『止めろ』とはっきりと理解できた。
「嫌だ! 絶対にやめない……!」
彼女の右腕は煌々たる青から一気に輝白色へ格を上げる。ますます増加していく温度にボイソスは鼻口を覆った。熱い空気を直接吸ってしまえば肺が故障しかねない。逃げなければ、とボイソスの本能は信号を彼に送るが、竦んだ足は役立たずだった。
液体へと溶けた鉄板は窪み、覆っていた彼女の右腕を露出させる。
「頭が……っ!」
すると、紋呪を抑制しようとするかのように、頭に奔る疼痛がロクサーヌを鈍らせた。ロクサーヌは汗水を垂らしながら、さらに腕の温度を上げようとする。
「私は……フロネーのところに戻るんだ……。裏切るなんて……フロネーはしない!」
ロクサーヌは幻を観た。こちらに向かう、鳥のような炎の塊が彼女の身体を抱え上げ、独房の壁に押しのける。
それに気を取られた彼女は集中を切らしてしまい、右腕は急速に冷却が始まる。
「なん……で……」
ロクサーヌは力の反動に息を荒くするが、空気をいくら取り込んでも呼吸は苦しいままだった。朦朧とする意識では立てているかどうかも判然としない。過呼吸に近い呼吸がだんだん緩んでいくと、彼女は床に倒れた。閉じた瞼の裏に映る、ゆらゆらとした青い影を見届けながら深い眠りに落ちて行った。
眼前の出来事に蚊帳の外だったボイソスは、ひとまず終息した一大事に胸を撫で下ろす。
「お、おい、誰か! 今すぐこいつを運ぶんだ!」
鬼気迫る声に釣られた二人の若い錬金術師達は、状況が掴めないままも独房の鍵を開けた。内部には、何故か縛呪甲を付けていないロクサーヌと不自然な鉄の塊があり、錬金術師達は訝しげな視線をボイソスに向けた。
「いいから! 早くしろ!」
ボイソスには逆らえず、二人はロクサーヌを運び出した。
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