第12話

 フロネーはカップに注がれた白湯を啜った。丸一日何も口にせずに干からびていた肉体が、口内から潤いを取り戻していく。

「落ち着いた?」

「だいぶ」

 フロネーは盆を掲げたままの小さなゴーレムにカップを預けて、今度はドライフルーツを頬張る。乾燥した果肉をうまく噛み潰せないが、何度も咀嚼するうちに目も覚めていった。

「干し肉もかったいパンもあるよ。スイーツは無いんだけどね」

 ロクサーヌはポケットから次々と携行食を取り出しては盆の上に乗せた。

「……欲張りだね。ていうかどこに仕舞ってるの」

「ひみつ!」

 フロネーはまさかと思い、干し肉を手に取って匂いを確かめる。特段鼻につくことはなく、いたって普通の干し肉だった。

「変なとこに入れてないよー!」ロクサーヌは頬を膨らませて、抗議の意を示す。

「あはは、ごめんって」

 口を開けて笑うフロネーに、ロクサーヌは膨らませた頬を吹き出した。

 小屋に満ちる二人の笑い声。ロクサーヌはフロネーと会う度に、スクールの頃に戻ったような気持になる。ただ、今は過去の思い出に浸りきれなかった。

 ロクサーヌは、仕事がなく暇そうにしている1体のゴーレムを小動物を愛玩するように膝に乗せる。

「……なんで来てくれなかったの?」

 干し肉を口へ運ぶ手が止まる。フロネーが口に入れ損なった干し肉には細かな皺が樹皮のように刻まれていた。

「聞かないでくれたら嬉しい。話すのは辛いことだから」

「大丈夫。無理に聞かないよ」

 ロクサーヌはゴーレムの土頭を撫でながら言う。

 土を粘土の要領で成形したような不完全な人形は、悲し気に目を細める人間を見上げていた。

「そういえば私ね」どんよりした空気を浄化させようと、ロクサーヌはから元気を声に乗せて「20歳になったんだよ」と右の前腕、紋呪の在処を躊躇いなく露わにした。窓から差し込む陽光に紋呪は淡く光る。

「これが、シンフォレシアの紋呪……」

 フロネーは、紋呪をこれほど間近に観察したのは初めてだった。彼女の師匠、イポスティが狂おしく渇望していた片翼の印が、こんなにもいたいけなロクサーヌに宿っている。

「ここまでこれたのはフロネーのおかげだよ」

 フロネーは指で紋呪をそっと触れる。ロクサーヌの腕は滑らかで、紋呪が刻まれる皮膚にも凹凸は感じられない。例えそこを切り取っても、紋呪は切り離せないのだろう。紋呪はその人の身体の奥深くに刻まれる。それが顕著に表れるのが右腕だった。

「フロネーがいなかったら、たぶん、スクールすら卒業できなかった」

 師匠がこれを見ればどう思うのだろう。師匠ならば、必ず紋呪の謎を解明させようと試みる、とフロネーは思った。例え、ロクサーヌに苦痛を与えることになっても。

 フロネーは捲られた袖を元に戻して、その右手を握った。

「ローシー。これは本当に大事な時にしか出しちゃいけない。約束だ」

「えっ、うん」

 ロクサーヌは素直に頷いた。頷いたのだが、フロネーは手を離さなかった。

「フロネー?」

 フロネーの腿の裏にねっとりした汗が染み出る。湿ったズボンの感触に気分を悪くしながら、フロネーは自身に決断を促した。

 いざ口にしようとしている事は、団欒の最中に話すべき内容ではないとわかっていた。けれども、純粋無垢なロクサーヌを欺き続ける自分自身に、彼女は心のどこかで吐き気がしていた。本当のことを詳らかに話せばロクサーヌは混乱するに違いない。だからその一部分、自分が何をしてしまったのか、という罪状だけ。これを話してもし顰蹙を買ってしまえば、自分は立ち直れないかもしれない。それでも、彼女は臆する気持ちに先立つ義務感で明かしていた。

「ローシーはさ、もし私が人を殺したら、どうする?」

 静まり返った空間では、ロクサーヌの呼吸が殊更強調されていた。

「そんなの決まってるよ。私がフロネーの罪を肩代わりしてあげる」

 彼女は笑顔だった。フロネーは熱くなった目頭を押さえた。

「フロネーが居なかったら今の私は居ないし、この先フロネーがいなかったら私はきっと挫けちゃう」

 彼女は澄み切っていた。雑念はない。他意もない。真摯な述懐に、ただただフロネーは納得していた。ロクサーヌはスクールからこんな子だった、と走馬灯のように溢れ出る思い出を眺めながら。しかし、個人に科せられた罪を割譲することなどできるはずもない。……彼女が王族でもなければ。

 もしシンフォレシアが存続できたなら、彼女は私の罪を軽くするために東奔西走するのだろう。一人の罪人を救うという汚名が、彼女が引き受ける罪なんだ。フロネーはそう思い至って、

「公私混同するなんて、指導者には相応しくないね」

 と言った。

 ロクサーヌはゴーレムを下ろして立ち上がった。それから窓枠に腰を掛けて、続ける。

「うん。でも、私が誰かだなんてどうでもいい。フロネーを助けたいからやれることはやりたいだけ。

 それに、フロネーは優しいんだから、絶対に一生かけて罪を贖おうとするもん。一人でそんなことをするのは苦しいでしょ?」

 窓からの逆光に、ロクサーヌの輪郭は神々しく縁取られる。反面、後手を組んで首を傾げる彼女の仕草はあどけない。

 そんな彼女を目にしたフロネーは、まるで二対の生き物が両腕を撫ぜるような感触に身震いした。伴って頬まで駆け上がったそれら二筋の衝撃は、彼女の皮膚をきゅっと萎ませた。

 フロネーは確信せざるを得なかった。この子ならどんな私でも必ず受け入れてくれる。なら、アレを任せられる、と。

「まったく、嬉しいよ。ローシー」

 彼女が負うべき使命はもうこれだけでいい。祈りを捧げながら、フロネーは引き出しを開ける。

「もう20歳なんだよね。なら、プレゼントをあげなくちゃ」

 フロネーが取り出したのは、青い籠手だった。

 鋼が模るは一つの青い火球。手首の丸い水晶からは豪猛の炎が肘まで噴出され、威容を誇示する。その光り輝く籠手を渡そうとした瞬間、フロネーの時間は凍り付いた。ロクサーヌが背にする窓の外に、見覚えのある風貌が立っている。ローブを羽織った彼はフードを取ると、フロネーに手で合図を送った。

『捕らえろ』

 限られた者が知る信号の一つを使う。それが意味することをフロネーは知っている。だからこそ、フロネーはロクサーヌの手を取って告げた。

「ローシー、逃げよう。プレゼントは後だ」

「え? っ、ちょっと!」

 フロネーは籠手をしっかり抱えて、ロクサーヌと共に小屋を飛び出した。

「フロネー・ダーソス! 貴様!」

 小屋の裏から怒声が飛んだ。ロクサーヌは訳の分からぬまま、フロネーに手を引かれる。

「あの人は誰なの?」

「走って! 今は逃げなきゃ!」

 森まで残り20メートル程度、10秒もかからない距離だ。一度樹々の群れに入ってしまえばゴーレムを操ろうとも追跡は難しくなる。そうフロネーは目論むが、二人の正面に数個、丸く小さなコアが転がり落ちた。フロネーは思わず反射的に足を止めてしまう。そのまま走り抜けていれば運良く逃げられたかもしれない。しかし彼女は、僅かな間でもそれらの正体を考えてしまった。失敗した、とフロネーは後悔した。コアは土にめり込んで、地面から土が盛り上がる。森の一部だった土壌は、やがて2メートル越えのゴーレムに変形した。

「かけっこは終いだ。手間を取らせるんじゃない」

 正面が駄目なら、とフロネーは左右へ逃げ場を探そうとする。しかし、どこをみてもゴーレムは行く手を阻んでいた。ようやく、フロネーは10体のゴーレムに包囲されていたことに気が付いた。

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