第2章
第10話
シンフォレシアの南西には、島に残された最後の原生林がある。ただの森林ならば他のそれと同じく開拓されるはずだが、樹々が根を差したのは南北に長い、二つの丘陵だった。森はなだらかな起伏を覆い隠すように形成され、斜面と湿り気のある土壌は立ち入る者の体力をじりじりと奪う。長い年月を経てもなお人が手を加えない僻地で、動植物は自然そのままの生存圏を悠々と保ち続けていた。
それゆえに、丘陵の谷に流れる川は陸路よりも遥かに手軽な水路だった。城下町内に敷かれた水道から始まるその川の上を、一隻の舟は海の方へ進んでいた。
船頭の櫂さばきは水面を撫でるかのように巧みだった。それは余所者を警戒する原生林を刺激しないためか、それとも深い眠りに浸る女人———ロクサーヌ・シンフォレシアを起こさないためか。
彼女は船頭に一切の舵を任せて、幼さが残る顔を安らかにしている。
ターコイズブルーのドレスは数枚の布を合わせて仕立てられており、彼女の細い上半身のラインを有耶無耶にしていた。胸元や裾には華美とは言えない程度の金色の刺繍が入れられ、彼女好みの装いを呈している。ロクサーヌは絢爛な装束を嫌っているわけではない。ただ、市井を通るなら、目立たない質朴さでなければ気が済まなかった。しかし、きらりと光るほどに発色が良い金色や裁縫の精巧さは、ロクサーヌが王族の一員であることを暗に主張していた。
舟の平底に横たわる彼女は美しく、可憐だ。だがつい数時間前には、とても王女とは思えない大胆さを遺憾なく発揮していた。
深夜、ロクサーヌは外出禁止の仰せを破り、密かに王城を抜け出した。人の目に付かないように物陰を渡り、町を出ると川岸の家屋をノックした。玄関を開けた船頭の男は、汗で召し物を濡らした彼女に吃驚しつつも歓迎した。
フロネーを訪ねる際には毎度、彼女はその男を頼っていた。物好きな彼は、海岸に流れ着く漂流物を漁りに舟を出すが、そのついでに彼女を森の中まで運ぶことがまれにあった。今回も例にもれず同じ要件だったが、刻呪式から数日と経たない内に頼まれるとは思ってもみなかった。
遅緩の航行は数時間を要し、陽光は樹々を超えて川に降り注いでいた。月光に静まっていた森はようやくに目を覚ましたのか、辺りは騒がしさを取り戻しつつある。
ロクサーヌも、蒼い天井の眩さに眠りから覚めようとしていた。
「もうすぐです」
船尾で櫂を操る船頭が言う。
上体を起こしたロクサーヌは、寝ている間にすっかり変わった風景を見渡した。舟の微速に沿って移る森の姿は確かにいつも通りの道程であったが、ロクサーヌはなにがしかの違和を感じ取った。ひっそりした周囲の調和をかき乱すものは、何もない。船頭でさえ緩やかに身をこなし、情景の一部を演出している。彼女は違和の所在が分からず、足を両腕で抱いた。
彼女は眠気覚ましがてら、思索を深く巡らせた。そうして、心を乱すざわめきがどこにあるのか気が付いた。
スクールを卒業してフロネーと離れ離れになると、ロクサーヌの日常は否応なく形を変えられた。まるで姉のようだったフロネーが、近くに居ない。ロクサーヌは王女としての階段を上がらなければならない一方で、フロネーへの想いは月日が去るごとに積もっていった。彼女は、それに甘んずることができなかった。
ロクサーヌは何度も何度も、今は無き歓楽の日々を悼むように、フロネーの小屋へ足繁く通った。フロネーと会える———満ち満ちる期待と踊りながら、数時間の船旅も厭わなかった。
だが、今回は違った。
フロネーを想えば想うほど、ロクサーヌのざわめきは増していく。払拭できない疑念がぽつぽつと良くない想定を勝手気ままに結んでしまう。嫌われたのだろうか、病気に罹ったのだろうか、寝ているだけならいいのにな。それとも……。
空を飛べる翼があれば、すぐフロネーに会いに行けるのに。そうロクサーヌは願った。
彼女は川に手を濡らそうと、右袖を引き上げた。少し頭を冷やしたい。ほんの少しの欲望は、しかし、ちらと顔を出した青い紋呪に引き留められた。鮮やかな青色の、王位に近い人間である証拠。ロクサーヌは咄嗟に腕を引っ込めなければならないような気がして、舟の縁から手を離した。
舟は振り子のように左右に揺れる。ロクサーヌは抗わず、ぶらん、ぶらん、と揺れのままに従った。
「今日もやはり、フロネーさんの所へ?」
目的地の獣道が迫ると、船頭は櫂を船に上げて尋ねた。
「ええ、いつもありがとうございます」
船頭はまるで苦虫を噛み潰したように顔を歪めると、そのまま食んだのか、努めて微笑を作り出した。
「差し出がましいことを申しますが」
船頭は帽子を取って、ロクサーヌの双眸をしかと正視した。
「万が一、王女様の身に危険が及べば、我々は悲しみに明け暮れてしまいます。ここで待っておりますから、どうか長居はなされないようにお願い申し上げます」
「ご忠告、ありがたく受け取っておきます」
船頭は川に降りて、船を川べりに寄せると「どうぞ」と言った。ロクサーヌは深くお辞儀をすると、慣れた様子で舟を降りた。
ロクサーヌが奥へ進む獣道の先は、緑のカーテンに閉ざされていて見えない。船頭は、元気のなかった王女が緑に混じってしまうのを見取ってから、舟を固定した。
「何事もなければいいんだがなぁ」
船頭は帽子を樹の枝に掛けて、空を見上げる。
神鳥の出ずる場所と云われる空だけは変わらない。太陽が昇り、月が昇り、また太陽が昇る。変化がないということは神鳥もまた健在なのだと、我らを見通しているのだと、船頭はロクサーヌへ思いを馳せた。
「なんやぁ、あれは」
感傷に浸るのも束の間、船頭の眼には黒い影が見えた。辿ってきた道程の方、遠くに何かが
船頭は目を擦ったり、細めたりしても消えない影に釘付けになった。あの方角にあるのは王城だ。目を凝らす船頭もそれをわかっていたが、気付けなかった。王国が存続の危機にあることも、見送ったロクサーヌが王家にたった一人の紋呪継承者であることも。
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