第24話「楽しみがあるから」



「えーっと、beyond description……どこかで見たような……」

「『言葉に表せられない』だろ。期末テストの内容忘れたか?」

「ああ、そうか……」


 暑苦しいだけどの授業を何とか乗り越え、迎えた終業式。生徒達は窮屈な学校生活から解放され、念願の夏休みへと突入した。それはもうコミックマーケットの始発ダッシュのような勢いで、みんな廊下へと飛び出していった。行ったことない人にはいまいち想像できないかな。

 しかし、どこへ遊びに行こうかと心浮かれていた僕の目の前には、課題のノートが山積みになっていた。まるで輝かしい夏休みに飛び込もうとする僕の行く手を阻むように。


「なんで初日から課題せなあかんのぉ……」

「旅行行くんだろ。面倒な課題はさっさと終わらせておけ」

「夏休みは一ヶ月もあるんやで? 別に今から焦ることあらへんやん」

「去年もそう言っておいて、夏休み最終日になって焦った馬鹿は、どこのどいつだ?」


 なかなか心に突き刺さることを口にする照也君。星羅さんに向けて言っているけど、全く同じ境遇を僕も経験しているため、他人事ではない。あまりのクリティカルヒットで、肺に穴が空いてしまいそうだ。

 昨年と同じ苦しみを味わわせまいと、照也君は僕らを勉強会へ誘った。今、図書室で課題を広げ、死に物狂いで戦っている。散々文句を言いながらも、手厚く面倒を見てくれる彼は相当優しい。僕の姉さんのように厳しすぎるのが玉に瑕だけど。


「なら旅先でやればええやん」

「そう言って持っていって、結局やらないのが目に見えてんだよ」

「ぶ~、照也のガリ勉!」

「何とでも言え」


 険悪な空気に見えて、実は仲良しの証でもある。お調子者で楽観的だけど、好きな人のことになると少し不器用になる星羅さん。面倒臭がりだけど世話焼きで、彼女のことを気にかけてくれる優しい照也君。なんてお似合いの二人なんだろう。ますます旅行が楽しみだ。こんな課題など早く片付けてしまおう。


「……うーん」


 だけど、集中力にも限界はある。適宜休憩はとっているけど、積み上げられた課題のノートの山が分厚く、視界に映る度にことごとくやる気を削いでくる。量も多すぎる上に、問題が難しい。難易度と数の最低のタブルパンチが、モチベーションをこれでもかと低下させる。


「焦らなくていいわ。別に今日だけで終わらせる必要なんてないでしょ」

「え? そ、そうだね……」

「分からないところあったらまた教えるから、頑張って」

「う、うん! ありがとう!」


 志乃さんがスマートにシャープペンシルを動かしながら、ノートに視線を下げたまま僕を励ます。自分のことだけでなく仲間のことまで気にかけてくれるなんて……。志乃さんの有能ぶりを、「完璧」の言葉以外で表す方法が見つからない。


「志乃、凄い集中力やなぁ。なんでそんな勉強しても飽きひんの?」

「飽きないって言うか……頑張りたいって思えるから。みんなと行く旅行があるし。楽しみがあるからそのためにやらなきゃいけないことは、辛くても頑張ろうって気持ちになるの」

「おぉぉ……」


 志乃さんから旅行の話題が上がるとは意外だ。どうやらお父さんからは許可を得られたようだ。彼女も旅行を楽しみにしていることが分かって、僕もやる気がみなぎってきた。誰かと楽しみを共有する素晴らしさを理解した志乃さんのように、僕も面倒なことに対してしっかり向き合わなくては。


「なるほどぉ、照也も楽しみがあるから頑張れるってか。今夜の夜7時の佳代子さんのネット配信があるから♪」

「なっ!? なんでそれを……」

「さっきスマフォのスケジュールアプリでチラッと見えとったで♪」


 照也は顔を真っ赤にしながらも、恥ずかしさを圧し殺して課題に集中する。それぞれ楽しみにしていることのために、嫌なことにしっかり向き合っている。この旅行を一生の思い出にするためには、今から準備を始めなくてはいけないのだ。


 よし、やるぞ……。








 志乃さんの励ましもあり、終業式の夜にして早くも半分ほどの課題が終了した。各教科で課されたワークの復習から手をつけてよかった。これらは時間と根気さえあればあっという間に片付けられる。


「うーん……」


 僕はダイニングテーブルで旅行の計画を立てる。いつまでも脳を勉強漬けにしておくと、集中力が長引かなくなる。今日はここまでにして、みんなは解散した。旅行前に半分終わらせておけば大したものだろう。おかげで旅行の計画を立てる余裕が生まれた。

 だが、あれだけ盛り上がっておきながら、肝心の行き先すら未だに決まっていない。二泊三日だからホテルも予約しなければならない。調べることは山積みだ。


「……」

「ねぇ、旅行先がなかなか決まらないんだけど、何かいい場所ある?」

「今話しかけないで」


 ふと、リビングで虫の息になっている姉さんに尋ねてみたけど、軽くあしらわれた。先程大学から帰ってきて、ずっとあの様だ。まるで魂がごっそり抜け落ちたように、ソファに体を預けてぐったりとしている。何かあったんだろうが、怖くて聞きたくても聞けない。


「母さん、姉さんどうしたの? さっきからずっとああだけど」

「実は今日、大学のゼミの先輩に思いきって告白したそうなんだけど、惜しくもフラれたんだって」

「そこ、聞こえてるんだけど」

『ひっ!?』


 母さんと二人して驚く。まさに狩人のような鋭い眼光が、僕らの背筋に突き刺さる。どうやら密かに片想いしているゼミの先輩に、勇気を出して告白したはいいものの、既にその人には彼女がいたみたい。ここにもクリティカルヒットを食らった人がいたか。

 怒ると地獄の閻魔大王並みに怖いけど、普段はクールで優しい美人の姉さんなんだけどな。僕のクラスメイトの男子が、一度見かけただけで惚れてしまうくらいなんだけど、相手に恋人がいるとなるとフラれるのも仕方ない。


「ほら、召し上がれ~」


 今夜の食卓はやけに豪華だ。飛騨牛の濃厚ビーフシチューに、ホクホクのポテトサラダ、サイコロ状に刻まれた根菜を煮込んだホカホカのオニオンスープ……奮発したなぁ。


「……」

「大丈夫! ママだって今ではパパと仲良しだけど、たまには喧嘩する時もあってね! 一時期別れようなんて騒いだことあったの! 恋愛は誰もが上手くいくわけじゃないからね! りーちゃんは優しく別品さんだから! いつか絶対にいい人が……」


 まるでいじけたように涙目で料理を頬張る姉さん。そして、隣で全力で励ます母さん。なるほど、姉さんのために慰め会を計画したわけか。母さんは父さんとしか付き合った経験がないし、フラれたことなんて一度もないだろう。明らかに優しさが空回りしている。


「ねぇ、母さん、夏休みに友達と旅行に行こうと思うんだけど、どこがいいかな?」

「え? 旅行?」


 これ以上慰めても姉さんが惨めな思いを募らせるだけだから、無駄なことは早くやめさせよう。僕は母さんに旅行先の相談をして、姉さんの失恋から話題を反らした。


「そうねぇ、熱海なんてどう? 新婚旅行でパパと一緒に行ったんだけど、綺麗な海があっていいところよ~」

「熱海かぁ……いいかも!」


 海は夏の立派な風物詩だ。小さい頃に家族で海水浴に行った記憶はあるけど、友達と行ったことはない。精々大型プールで遊んだくらいだ。熱海の綺麗なビーチで派手に海水浴。志乃さんとの青春の思い出としてふさわしい舞台だ。


「パパったら、夕日がかかったビーチで私の手を握って、『どんなに綺麗な海や夕日でも、凛奈の眩しい笑顔には敵わない』なんて言ってくれたのよ。いつまで経ってもおませさんなんだから♪ でも、そこがすごくカッコ良くてね……」


 ああ……また始まった。母さんの馴れ初め話は、一度始まると歯止めが効かない。長々と聞いていると、砂糖水を一気飲みしたような甘ったるさが口の奥を襲う。


「……」

「……あっ、だ、大丈夫よ! そんなカッコ良い王子様が、いつかりーちゃんの元にも訪れるから! 人生まだまだ長いんだから! 諦めるのは早いわ! ママだってね、高校生の頃にパパに突き放されたことがあって……」


 姉さんの頭が垂れ下がっていくことに気付き、母さんは慌てて擁護する。浅野陽真という高身長イケメンで頭が良く、しかも警察官というエリートを旦那に納めた母さんに励まされても逆効果だ。僕の口には砂糖を流し込み、姉さんの傷口には塩を塗る。相変わらず世話しない母親だなぁ。


「熱海か……」


 僕はスマフォで画像を検索した。ヒットするのはどれも美しいビーチや温泉、美味しそうな海鮮料理の数々。ますます楽しみが倍増していき、当日が待ちきれなくなった。


 本当に……志乃さんと旅行に行けるんだ。実感が湧かないや。


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