僕の表裏怪奇譚

畔藤 

境界を翔る者

第1話 ズレる常識


 常識ってなんだろう?


 社会が円滑えんかつに回るようにいつの間にか出来ていたもの? 多くの人間がより暮らしやすいように皆で決めた暗黙の了解? 人間が発展していくために必要不可欠だったもの? それとも支配者が統治しやいように作りあげられたルール? もしくは同調圧力の究極形? 普通? 当たり前? ……僕にはちょっと――――分からない。


 これは現在高校生の僕が小さい頃、小学校の低学年の時にほんの少しだけ大多数の人間と自分との常識の違いを学んだ時の話だ。

 学校から帰宅し鞍馬くらまと掲げられた表札をちょうどくぐる所で、僕は2階のベランダで洗濯物を干している母親の姿を見つけた。

 ランドセルという子供に義務づけられたかせを玄関に降ろし、それでも尚、亡霊のように残った重さを引きずるようにして2階へ続く階段を進む。聞こえてきた鼻歌に被せるようにして僕は母に声を掛けた。


「ただいま。お母さん。ねぇ、聞いて? 智也くん達、酷いんだよ。みんなで僕の事からかってくるんだ……」

「おかえりなさい。いきなりどうしたのかける? 学校で嫌な事でもあったの?」

「もう学校なんて行きたくないよ。智也くんも康平くんも。僕が非の打ち所がないイケメンだから嫉妬して、いじわるしてくるんだ」

「――――はぁ。まったく。誰に似たのかな? このおかしな性格……きっとお父さんね。それで? いつもみたいに気づかない内に挑発して怒らせちゃったんでしょ? いつも言ってるじゃない。言葉には気をつけなさいって。ただでさえ翔は勘違いされやすいんだから」

「い、いやっ。そんなんじゃないってっ! 今回は何も悪い事してないってば。そうじゃなくって智也くん達はアレが見えないフリして……あの人達をまるでいないみたいに扱って僕をからかってくるんだっ」


 僕はそう言ってベランダから見える道路を歩くを指さした。


 それは人間の形をした奇妙な影だった。

 不思議なのは影のように見えるにも関わらず周囲に人間の姿は見当たらない。独立して行動している。輪郭りんかくはどこかボンヤリしていてはっきりしない。それどころか不定形であり徐々にその形態を変化させているようにも見える。

 影の姿はここからでも複数確認出来ており色の薄い影、少しだけ濃い色の影など、注意深く観察してみれば影にも違いがある事に気づく。

 異様に右腕が長い個体や、足の長さが釣り合っていない個体。ゆっくり首を回転させている個体など明らかにおかしい動きをしている様々な影が存在する。そしてそれらはまるで人間本来の姿、形、体の動かし方、その在り方を既に忘れてしまったような……「ああ。彼等は、終わっている」そんな漠然ばくぜんとした事を教わったわけでもなく直感で感じとれる不思議な人々であった。


「――――――翔。人を指さすのはやめなさい」


 母が影に厳しい目を向けながらも行儀の悪い僕の行動を非難する。そうしてどこか哀れむように影達を見下ろしながら僕に向かって言った。


には関わっちゃいけないって何度も教えたでしょ? ……そうね。翔も小学生になったからもう少し詳しく話すけど、あの人達は本当はここにいちゃいけない人達なの……智也くん達みたいなこの世界に住む多くの人達には見えない――世の中では幽霊って呼ばれているのがあの人達の正体なんだよ」

「えっ? 幽霊っ? それってお化けってこと!? 人に取り憑いたりして悪い事するあの!?」


 僕にとって彼等は物心ついてからずっと視界の片隅にチラついていた存在。確かに「関わるな」と厳命されていて、挙動も気色悪かったので直接話かけたりした事はない。自分達とちょっと違う不思議な人間の一種くらいの認識で、あまりにありふれた存在であったため言葉が上手く飲み込めず頭が混乱する。

 僕の幽霊像とは基本的に人前には姿を見せず恐ろしいもの。そしてそれはあくまで創作の世界の住人で、映画やアニメなどの画面の向こう側にしかいないと思っていたのだ。それが身近な場所をその身を隠さずに昼夜問わずに闊歩かっぽしていると急に指摘されたところで実物と直ぐに結びつかない。


「翔は幽霊を少し勘違いしているけどね。幽霊って言っても悪い事をする人達ばかりじゃないの。むしろそういう事をするのは少数派。でもね? 人間にも悪い事をする人はいるでしょ? それと同じ。あの人達もそれぞれ理由わけあって天国にいけない人達なんだけど、元はみんな同じ人間なんだから。ただ……」

「ただ?」

「ただ、ね。よっぽどの事情を抱えた人でない限り――――忘れていっちゃうの。良い事も。悪い事も。大切な人の事も……自分自身の事さえも。だからね、時間が経てば立つほどに世間一般で言われている良い事と悪い事の区別も、もちろんつかなくなる」

「もしかして、この前に見た赤い人?」


 以前母と一緒に出かけた際、真っ赤に染まった影を目撃した事がある。今まで見かけた事のなかった色違いのレアな影だったので、もっとよく観察しようと近づこうとしたら凄い剣幕で叱られた事があった。頷くことで肯定を示す母に僕は昔から思っていた疑問を問いかける。


「だから……危ないから関わっちゃいけないって事?」

「それだけじゃない。問題は彼等ゆうれいだけじゃなくて、今を生きている大多数の人達が幽霊を見る事ができないっていう事――それは悲しいけれど社会から見れば私達の方が異常な人って判断される材料になる事だから……」


 母の言いたい事を僕は察してうつむいた。

 きっと今日、友人達にからかわれた事を言っているのだろう。そして彼等に言及する事を続ければそういった事がこれからの人生ずっと続いていくと……


「でもね」

「えっ?」


 頬に伝わった温かい感触に顔を上げる。母の手。いつの間にかベランダを悲しそうに見ていた母は屈んで僕に視線を会わせている。その目はとても真剣で幼い僕にもこれからとても大切な事を言われるというのが分かった。


「もし……もし、翔自身がいつかと感じて、彼等に覚悟して関わると決めたなら。貴方が心の底から正しいと感じた道を曲げるくらいならお母さんは反対しない。そしてもし、彼等に関わると決めたのなら――迷わずキチンと最後までやり抜きなさい」

「……」

「散々関わるなと言った後でこんな事を言うのはおかしいんだけど……もちろん母としては止めるべきで、わたしとしても危ないから関わって欲しくないんだけどね。貴方は――――あの人の息子だから。だからきっと決めたら止まらない。だったら、わたしは尊重する。確かに貴方はちょっとだけ変わった子だけど、根はとっても強く優しい子。そんな子が決断したのなら応援するわ。だって貴方はかける――私達の自慢の子供なんだから」


 母はそう言って少しだけ胸を張り誇らしげに笑う。その目は優しげに僕を奥底を見据えており心からの信頼と期待が見てとれた。その時の母の表情を僕は一生忘れないだろう。

 言っている意味は半分も分からなかったが、この信頼は裏切れないという事だけは魂で理解した。

 しかし結局、当時の幼い僕は素直に思いを伝える事ができず胸に湧き上がってくる謎の気恥ずかしさにいつもの……いつも以上の軽口で母に言葉を返す。


「……そっかぁ。やっぱり僕は特別な側な人間だったんだ。前々からそうかな? って思ってたけどお母さんから面と向かって直接言われるとちょっとだけ照れるね。うんっ! わかったよ。とりあえず明日からは色々持ってない可哀想な智也くん達に合わせて僕も見えないフリをするねっ」

「――――はぁ。少し訂正しないと。ちょっとだけ……じゃないね。この自意識過剰な性格だけは敵を無駄に作るわ。必ず矯正きょうせいしないと。ただでさえこの子は運が悪いんだから。この子が将来まともな大人になれるか。今後の教育に掛かってる。わたしがしっかりしなきゃ」


 幼き頃の僕は自分の中の疑問が解決し、既に脳内の大半は今日遊ぶゲームの事でめられていたため、そう言って密かに決意を新たに握りこぶしを作る母の姿は目に入っていなかった。




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