白い顔

 一瞬にして切り替わった景色は、見たことの無い、騒々しい灰色をしていた。


 首も袖も腰も少し窮屈に感じる衣服を着せられ、魔法陣の真ん中に立たされる。次の瞬間、石板が無造作に積み上がった石壁の空間は、雑多な色をした四角い建物が建ち並ぶ騒々しい場所へと変わった。

〈ここが、『異世界』……?〉

 人の影が無い、しかし低音が響く場所に首を傾げる。普段通りの油断無さを取り戻す前に、ダーグの横ギリギリを四角い物体が騒音と共に駆け抜けた。

「なっ!」

 不意を突かれ、思わず声を上げる。だがすぐに、ダーグは普段の冷静さを取り戻した。大丈夫だ。少しだけ似た形の、異なる色をした四輪の物体が再びダーグの横を臭い煙を出して素早く通り過ぎる。この物体は、ダーグの横にある、すべすべとした横長の石の向こうの道を走っている。石のこちらにいる限りは、問題無い。ずっと向こうに見えた、横長の石を跨いで四角い物体が走る道を横切る人影に、ダーグは目を細めた。なるほど、道を渡るときには、黒色の地面に白い横線が描かれた場所に行けばいいのか。おそらく魔法仕掛けなのだろう、ダーグの腕より細い棒の先に取り付けられている、赤や青に光る物体に合わせて止まったり走ったりする四角い物体とその物体が吐く煙を、ダーグはしばらくの間見つめていた。

 と。

 チリチリという甲高い音に、はっと顔を上げる。持ち前の素早さで道の脇に体を反らせると同時に、細い棒や針金を用いて二つの車輪を前後に配した物体が、ダーグの脇をするりと通り抜けた。一台だけではない。身を縮めたダーグの脇を、同じ物体が何台も通り過ぎる。この物体は、煙を吐かない。馬に乗るように、しかし鞭ではなく足をぐるぐる回して物体を動かしている、時折ダーグを睨むように見て通り過ぎる人々に、ダーグは何とか冷静さを保った。その物体に乗っている人間も、首元がきつそうな裾の長い服または襟元に留め付けた小さめのスカーフをひらひらさせた裾の短い服という、同じ格好をしていた。おそらく、同じ戦部隊か魔法学院に所属している者達なのだろう。明るくざわめきながらダーグの横を通り過ぎるまだ若い人影達に、口の端を上げる。その時。不意に目の端を通り過ぎた白い顔に、ダーグははっと身構えた。……あいつだ。間違いない。……いや。強く首を横に振り、幻影を追い払う。あいつは、死んだ。あの白い顔は、ダーグがこの異世界に来た、目的。


 白い顔を持つ人物が乗っていた素早く細い影の色と、その影の行き先を見極めてから、心を落ち着かせるために殊更ゆっくりと、その影を追う。

 肩に掛かる硬い髪が堅く窮屈な服の襟に当たっている所為か、苛立つほどに首筋が痒い。首を苦しめる細い布切れを緩め、首元の小さなボタンを外しながら、ダーグは奥歯を噛み締めた。腰まであった長い髪を切る羽目になったのは、……あいつの所為。

 ダーグが属する大国の戦士達は、初陣の際に切った髪を次に負けを喫するときまで伸ばし続ける風習を持っている。幼い時から大人達に混じって訓練を重ね、初陣から負け無しだったダーグの髪は、編んで束ねなければ邪魔になるほど長かった。だが、大国の辺縁に位置する小国を攻めた時に、サシャという名の将軍の戦略に嵌まってしまい、ダーグが率いる小部隊は全滅した。敗走の中、砂煙の向こうに垣間見えた白い顔が、ダーグの脳裏を過ぎる。戦士には見えない、華奢な肢体を持つあの影を、いつか必ず屠ってみせる。その誓い通り、髪を切ったダーグは、大軍で以て滅ぼされた小国中を探し回り、生き残ったサシャを追い詰めた。そして。大国に反抗した小国の厄介な将軍を弑したダーグに、大国の王は、小国の生き残りの一人である末の姫を捜すよう、命じた。莫大な知識を持つ魔術師でもあったサシャはどうやら、その姫を、『異世界』と呼ばれる場所へと逃がしたらしい。大国に仕える魔術師の調査に基づいた結果として、ダーグはこの場所にいる。もうすぐ、あいつの苦労を水の泡にできる。逸る心のまま、目的であるその影を再び目の端に捉えたときには、空にあったはずの太陽は既に半分以上、遠くに見える山の後ろに消えていた。

 手近の遮蔽物に身を隠し、目の前の影を確かめる。畑に囲まれた、他からぽつんと離れた小さな小屋の庭先で、件の娘は花壇の草花に水を与えていた。娘を守る者達は、おそらく小屋の中。この『異世界』の人々は表立って武器を携行する習慣が無いらしいから、普段は腰にあるはずの剣が無いことだけが懸念材料だが、捕まえるなら、今しか無い。どんどんと暗くなっていく空間に口の端を上げると、ダーグは娘の前へ飛び出した。しかし流石、サシャと同じ顔を持っていると言うべきか。あと一歩のところで、娘の影はダーグの横をすり抜ける。そのまま、小屋の背後の森へと逃げていく娘を追って、ダーグも森の中へと入っていった。

 斜面に生えた木々は、普段ダーグが見ているものよりも細く刺々しい。足下を這う細い根に足を取られつつ、ダーグは隠し持っていた鉄片を逃げる娘の足下に投げた。その鉄片を避けた娘の身体が、急激に斜めになる。おそらく足首を捻ったのだろう、周りのものよりも太い木の根本に座り込み足を押さえた娘に、ダーグは勝利を噛み締めながら近づいた。

 だが。あと一歩で娘の身体に手が届くというところで、不意に視界が歪む。気が付いたときには、ダーグの身体は元の、石板が積まれた石造りの部屋の中にあった。

「くそっ!」

 あいつの、仕業だ。身体から力が抜け、冷たい床に尻餅をつく。消えかけた魔法陣が光る床を、折れるほど力強く握り締めたダーグの拳が叩いた。


 次の日。魔術師からもらった、魔法を跳ね返すお守りを懐深く忍ばせ、再びあの地へと向かう。夕方を待って娘を見つけたあの辺鄙な場所へ赴くと、昨日と同じように、娘は滑らかな面を持つ桶を片手に庭先の草花に水をやっていた。襲われたのは昨日なのに、周りには護衛の一人すら見当たらない。そのことに疑問を持つことなく、再び、娘のいる庭先に躍り出る。

「うそっ!」

 おそらく昨日のように、魔法によってダーグが元の世界へ戻ることを期待していたのであろう娘の戸惑いの声が、ダーグの耳に心地良く響く。だが、娘を言いなりにするために懐から抜いた短刀は、見覚えのある鋭い光に止められた。

「なっ!」

 視界の少し下に見えた、白い顔に、思考が停止する。この顔は、確かに、あいつの、サシャのもの。なぜ、ここに、あいつが? あいつは、……俺の目の前で毒を呷って死んだ。その死体は、首を刎ねた上で都の大門横に晒されたはずだ。そのあいつが、ここにいるわけがない。

 強ばった腕で何とか、向かってきた刃を撥ね除ける。次の瞬間、視界が歪むと同時に、ダーグの身体は元の、石板が積み上げられた魔術師の部屋の真ん中にあった。


 三日目。三度、あの世界に足を運ぶ。

 黄昏の前に件の小屋へたどり着くと、サシャと同じ顔を持つ娘が庭先で微笑んでいるのが見えた。

「やっぱり、来たんだ」

 サシャの言う通りね。娘の口から出た人物の名に、背中が強ばる。今日こそ、この娘を王の許に連れ帰る。その決意と共に踏み出した足は、しかし、娘に触れる寸前で固まった。

「私をあの世界に戻して、どうするつもりなの?」

 今日も抜からず、魔術師からもらったお守りを懐に入れて来ているはずなのに。舌打ちをこらえ、固まった足を動かそうと全身の力を足に込めたダーグの耳に、涼やかな声が響く。顔を上げて見えた、サシャと同じ顔に、ダーグは首を横に振った。武人であるダーグの職務は、王の命令を武で以て果たすこと。それだけだ。

「『異世界』の知識や技能は、使い方を間違えれば世界を滅ぼしてしまう」

 顔を上げたダーグの瞳に、瞳を伏せたサシャと同じ顔が映る。

 娘が姫として暮らしていた小国では、『異世界』に転移することのできる能力者達を中心に、小国が壊れない程度に『異世界』の知識や技能を利用していた。そのことを知った大国は、『異世界』の知識や技能を大国にも渡すよう恫喝し、拒否した小国を大軍で以て滅ぼした。

「確かに、『異世界』の知識や技能は、人の命を救うことがあるわ」

 一昨日、ダーグに追われ怪我をした、包帯の巻かれた足を示し、娘が微笑む。ダーグの世界では、骨折は命に拘わる。だが、この『異世界』では適切な治療を行うことができる。荒野で作物が取れるように土壌を変えたり、少人数で頑丈な砦が建てられるように工夫を凝らしたり。そういった細々とした部分で、小国は『異世界』の知識や技能を使っていた。

「でも」

 サシャと同じ深い色の瞳が、ダーグを射るように見つめる。

「この世界を、……あの世界をも一瞬で滅ぼす知識や技能も、この世界にはあるの」

 冷え冷えとした娘の言葉で脳裏を過ぎったのは、臭い煙と騒々しい音を出してダーグの横をかすめた四角い物体。例えばあの物体が、大国の通りを大量に走ったとしたら、どうなるだろうか? 毎日市が立つ、人や物であふれかえったあの道をあの速度で一度走り抜けるだけで、大惨事が起こる。その犠牲を払ってまで、『異世界』の知識や技能をダーグの世界に持ち込むのに、何の利益がある? そこまで思考したダーグの視界はゆっくりと、歪んだ闇に飲まれていった。


 ゆっくりと明るくなった視界に、息を吐く。

 ここは、魔術師の部屋だ。見慣れてしまった暗色の石板と明るい石壁に、ダーグは小さく首を横に振った。

 おもむろに、部屋の向こうに見える都の遠景を眺める。僅かな霧に包まれた大国の王都は、先程までダーグが赴いていた『異世界』とは異なり、清冽で静寂な空気に満ちていた。その遠景に、『異世界』の灰色を重ね合わせる。思い出した騒音と匂いに吐き気を覚え、ダーグは傍らの、石板が積み上がった棚を引き倒した。

「……!」

 衝動のままに、部屋中の家具をひっくり返す。思わぬ騒ぎを聞きつけて駆けつけた衛兵と魔術師の声が、ずっと遠くに響いた。次の瞬間。魔術師の魔法が、ダーグの胸を貫く。粉々に砕けた石板や家具の間に膝を突いたダーグの瞳に、最後に映ったのは、敵であるはずのサシャの優しげな微笑みだった。

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